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My Sankou Memo


≪桜の名所吉野山と
霊場高野山を訪ねて≫








 旅行日:  2012年4月12日(木)〜13日(金)〜14日(土) 2泊3日
 旅行先:  吉野山・高野山・大坂城
 Member:  金川 勝夫・和美
 天 候:  12日 晴 13日 小雨の曇り 14日 晴

 4月12日(木)

 《行 程》

 東京(7:33・ひかり505号)⇒京都(10:15着・10:50発)=近鉄橿原線⇒橿原神宮(11:40着・11:47発)=近鉄吉野線⇒吉野(12:26着)=コレヨリ徒歩⇒金峯山寺⇒吉水神社⇒吉野水分神社⇒金峯神社⇒吉野水分神社⇒竹林院(宿泊)
 


≪Travel Memo≫

 東京駅から新幹線に乗車し、電車を何度か乗り継ぎようやく近鉄吉野線の終点、吉野駅に到着した。今回は予てより訪れてみたかった、日本でも有数な桜の名所、吉野山の一目千本と言われる、下千本から奥千本にかけての桜のお花見だ。そんな吉野駅前の広場には、大勢の一目千本へのお花見客で賑わいを見せている。そんな観光客のほとんどが、吉野駅から少し歩いた所にあるケーブルカー駅へ向かい、ここからケーブルカーに乗り、中千本まで行くようである。私達はそのケーブルカー乗車駅を横目に見ながら、「エヘン、万年青年は、専ら歩くのだ」とばかり、下千本への路を歩を進める。

 この吉野千本の桜見物をするためには、何時旅館を予約するのかが、実に難しいもので、その年の天候により、桜の開花時期が、微妙に異なり判断に苦慮するところだ。それで旅行のプランを立てるのは、何故か定評がある和美が去年の4月に現地の宿泊場所を調べ、吉野山上千本にある茶人、千利休の別荘と言われる由緒ある竹林院へ電話をかけて、桜の開花情報を聞き即、予約をしたのだった。

 今日12日は、当に春麗、春うらら、陽光も温かくお花見日和の好天気である。狭い道を登り、やがて広い舗装された七曲坂の起点に出た。ここから奥千本まで、桜を愛でながら徐々に勾配が増す七曲坂を登って行く。この七曲坂の両側には、丁度 今が盛りとばかり山桜が見事に咲いている。少し春霞がかかった卯月の空にまるで巨大な桃色絨毯を敷き詰めたような自然が織りなす大パノラマの装飾美だ。「ウーン、素晴らしい。」と私達2人は、そんな桜花爛漫の風景に見とれ驚嘆しただただその見事さに声もなし。

 それではこの吉野山について、文献から引用してみよう。

 吉野山(よしのやま)は奈良県の中央部・吉野郡吉野町にある吉野川(紀の川)南岸から大峰山脈へと南北に続く約8キロメートルに及ぶ尾根続きの山稜の総称、または金峯山寺を中心とした社寺が点在する地域の広域地名である。
古くから花の名所として知られ、特に桜は有名で、その地域ごとに下千本(しもせんぼん)、中千本(なかせんぼん)、上千本(かみせんぼん)、奥千本(おくせんぼん)と呼ばれる。
大正13年(1924年)12月には国の名勝・史跡に指定され、昭和11年(1936年)2月 には吉野熊野国立公園に指定された。また平成16年(2004年)7月には吉野山・高野山から熊野にかけての霊場と参詣道が『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。平成2年(1990年)には日本さくら名所100選に選定された。

 更に吉野山は平安時代頃から桜が植え続けられてきた。 特に桜が数多く集まる所があり、いずれも一目千本と呼ばれ山下の北から山上の南へと順に下千本・中千本・上千本・奥千本と呼ばれている。 植えられている桜の種類は、ほとんどが白山桜(シロヤマザクラ)であり、その数は約3万本にも及ぶという。 これらの桜は、4月初旬から末にかけて、山下の下千本から順に山上へと開花してゆく。この時期の吉野山は花見客で大変、賑わう。

下千本 - 近鉄吉野駅から山上へ上がる七曲坂周辺にあたる。
中千本 - 五郎兵衛茶屋から如意輪寺にかけての一帯。
上千本 ? 火の見櫓から花矢倉にかけての坂周辺にあたる。
奥千本 - 吉野水分神社から金峯神社にかけて。また苔清水、西行庵付近。

 桜が多い理由

 吉野山に桜が多いのは、桜が蔵王権現(ざおうごんげん)の神木であるとされたことによる。
修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)は、金峰山(現在の大峰山系)で修行を積み、その結果、金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)が出現して、これを感得し蔵王権現像を彫ったとされる。その時に用いられた木材が桜樹であった。以降、行者達は桜材を使い権現を彫刻し、これを祀る習わしとなった。これより桜は神木となり、桜の枯れ木といえども薪にさえせず、一枝を折る者は指一本を切るといったような厳しい信仰が厳守されたという。そのため蔵王権現に祈願する際には、神木とされる桜の苗を寄進するのが最善の供養となる風習が起こり、平安時代の頃から多くの桜が植えられるようになった。
また大海人王子(のちの天武天皇)が、吉野の寒中で、庭の桜が満開の夢を見て、これが動機となって天下を定めたので、桜は霊木であり神木であるとされ、桜の愛護が始まったとも伝えられる。

 イヤー、それにしてもこの人の多さよ。次から次へとゾロゾロ来るは、来るは、さすがは桜の名所、吉野山だ。やがて桜に見とれ下千本を過ぎ、中千本に入るる。ここら辺りから両側に各種、それぞれのお店が、軒を連ね「いらっしゃい。いらっしゃい。」と大声を出汁ながら商いに余念が無い。この中千本の道路が、狭くそのため、観光客が溢れているという感じで、肩が触れあわんばかりの大賑わいを見せている。桜も人家の庭先や路傍に今盛りとばかり咲いており、その数は下千本よりもやや少ないようだ。

 この中千本の中心部に金峯山寺の総門である黒門があり、そこから旅館、飲食店、みやげ物店などの並ぶ上り坂の参道を行くと、途中に銅鳥居(かねのとりい)がある。分ほどのところに仁王門、その先の小高くなった敷地に金峯山寺の本堂(蔵王堂)が建っている。この金峯山寺へ行き参拝をする。丁度、特別にご開帳をしており、金、1000円の拝観料を払うと蔵王権現等の秘仏が拝観できるとのことだ。それにしても他を圧するような威風堂々たる本堂でよくもまあ、古に全て人力でこんな山中に建てたものだと感心して参拝をする。大勢の参拝客と共に本堂内に入る。すると本尊の3体の蔵王権現が、その像容は、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表し、片足を高く上げて虚空を踏んでおり、思わずその形相に合掌する。


 金峯山寺

 山号 国軸山
 宗派 金峯山修験本宗
 寺格 総本山
 本尊 蔵王権現3躯(秘仏、重要文化財)
創建年 7世紀後半
 開基 (伝)役小角
札所等 役行者霊蹟札所
神仏霊 場巡拝の道 第39番
文化財 本堂(蔵王堂)、仁王門、大和国金峯山経塚出土品ほか(国宝)
    銅鳥居、木造蔵王権現立像3躯ほか(重要文化財)世界遺産

 金峯山寺(きんぷせんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗(修験道)の本山である。本尊は蔵王権現、開基(創立者)は役小角(えんのおづぬ)と伝える。
金峯山寺の所在する吉野山は、古来桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもあった。「金峯山」とは、単独の峰の呼称ではなく、吉野山(奈良県吉野郡吉野町)と、その南方二十数キロの大峯山系に位置する山上ヶ岳(奈良県吉野郡天川村)を含む山岳霊場を包括した名称であった。

 吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、及びこれら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている。

 奈良県南部の吉野山に位置する金峯山寺は、7世紀に活動した伝説的な山林修行者・役小角(えんのおづぬ)が開創したと伝え、蔵王権現を本尊とする寺院である。金峯山寺のある吉野山には吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊(さくらもとぼう)、喜蔵院、吉野水分(みくまり)神社、金峯神社など、他にも多くの社寺が存在する。

 「吉野山」とは、1つの峰を指す名称ではなく、これらの社寺が点在する山地の広域地名である。また、吉野山の二十数キロ南方、吉野郡天川村の山上ヶ岳(1,719メートル)の山頂近くには大峯山寺(おおみねさんじ)がある。吉野山の金峯山寺と山上ヶ岳の大峯山寺とは、近代以降は分離して別個の寺院になっているが、近世までは前者を「山下(さんげ)の蔵王堂」、後者を「山上の蔵王堂」と呼び、両者は不可分のものであった。「金峯山寺」とは本来、山上山下の2つの蔵王堂と関連の子院などを含めた総称であった。

  役行者と蔵王権現

 国土の7割を山地が占める日本においては、山は古くから聖なる場所とされていた。中でも奈良県南部の吉野・大峯や和歌山県の熊野三山は、古くから山岳信仰の霊地とされ、山伏、修験者などと呼ばれる山林修行者が活動していた。こうした日本古来の山岳信仰が神道、仏教、道教などと習合し、日本独自の宗教として発達をとげたのが修験道であり、その開祖とされているのが役小角である。

 役行者(えんのぎょうじゃ)の呼び名で広く知られる役小角は、7世紀前半に今の奈良県御所市に生まれ、大和国と河内国の境にある葛城山(現在の金剛山・葛城山)で修行し、様々な験力(超人的能力)をもっていたとされる伝説的人物である。奈良県西部から大阪府にかけての地域には金峯山寺以外にも役行者開創を伝える寺院が数多く存在する。『続日本紀』の文武天皇3年(699年)の条には、役小角が伊豆へ流罪になったという記述がある。このことから役小角が実在の人物であったことは分かるが、正史に残る役小角の事績としては『続日本紀』のこの記事が唯一のものであり、彼の超人的イメージは修験道や山岳信仰の発達とともに後世の人々によって形成されていったものである。

 金峯山寺は役行者が創立した修験道の根本寺院とされているが、前述のように役行者自体が半ば伝説化された人物であるため、金峯山寺草創の正確な事情、時期、創立当初どのような寺院であったかなどについては不詳と言わざるをえない。
金峯山寺および大峯山寺の本尊であり、中心的な信仰対象となっているのは、蔵王権現という、仏教の仏とも神道の神ともつかない、独特の尊格である。金峯山寺の本尊は3体の蔵王権現で、その像容は、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表し、片足を高く上げて虚空を踏むものである。インドや中国起源ではない、日本独自の尊像であり、密教彫像などの影響を受けて、日本で独自に創造されたものと考えられる。修験道の伝承では、蔵王権現は役行者が金峯山での修行の際に感得した(祈りによって出現させた)ものとされている。

 そんな金峯山寺を拝観し、大勢の観光客で賑わう山道に出て、ここで予め調べて於いたお目当ての柿の葉寿司の製造販売店で、鯖と鮭の柿の葉寿司を長い行列の後に並んで買い求めた。それから少し進んで行くと桜の葉っぱに巻かれたお寿司が売っており、見てからに美味しそうだったので、これも買ってしまった。更に歩を進めるとここでは、プーンと香ばしい匂いを立て、金、300円で串に刺した焼タケノコを売っていたので、これも買い求め食べてみると実に若いタケノコだけに美味しくニッコとお互い顔を見合わせニンマリとしてしまった。

 途中では、大日寺、勝手神社、 吉野水分神社を拝観し、ここら辺りで、中千本とも別れ、上千本へと歩を進める。上千本へ来るとめっきり観光客も少なくなり、桜もまだ五分咲きという感じで、下千本、中千本の満開の華やかな様子は余りない。更に静かになった車道を汗をかき登って行く。そして広い車道から左へ狭い路に入り、いよいよ奥千本へと歩を進める。ここら辺りの風景は、当に吉野山という感じで、やっと山らしくなってきた。そして展望の効く斜面に茶店があったので、ここで缶ビールを買い先ほど買い求めた、柿の葉寿司、桜の葉寿司を食べることとした。ブッチュッと缶ビールのプルトップを空け「ゴクゴクゴク」と一気に冷えたビールを飲み干す。そしてこの柿の葉寿司の鯖と鮭の押し寿司お食べる。「イヤー、ウンメイナ。」これはほっぺたが落ちそうだ。吹く風もさわやかで、四顧を見渡せば眼下の下千本、中千本の桜の花でピンクに染まり桃源郷という言葉があるが、ここでは当に桜源郷ではないか。

 そんな豪華な昼食を済ませ、腰を上げ更に奥千本を登り行く。しかし、舗装されている路なので、結構、足底がジーンと痛くなってくる。観光客はここら辺りにはほとんどおらず、それだけに静かな散策が出来るのが実にありがたい。桜はようやく3分咲きという感じで、この一目千本の下から奥まで一斉に満開になった桜を見ることは、吉野山の気温差から見ても不可能なことであろう。そんな奥千本の散策もやがて終点の金峯山神社に着いた。ここから先は大峯奥駈道となり、修験者の艱難辛苦の修験道となっている。

 大峯奥駈道

 大峯奥駈道は、南端の熊野を発して吉野に至るのを順峯といい、北端の吉野から熊野に至るのを逆峯と呼んだ。途中には神仏が宿るとされる拝所・行場が設けられ、これらは靡(なびき)、古くは宿と呼ばれ、多い時は120宿があったというが、近世に75の靡となった。
そのうち吉野山は6つの靡の範囲となる。
75靡 柳の宿 - 柳の渡し(美吉野橋)付近
74靡 丈六山 - 吉野神宮辺り。かつては丈六山一の蔵王堂があったとされる。
73靡 吉野山 - 銅の鳥居や金峯山寺蔵王堂など。
72靡 吉野水分(子守)神社
71靡 金精大明神 - 金峯神社
70靡 愛染宿 - 吉野の奥の院(安禅寺)とも呼ばれた。明治初年まで寺院宝塔があったとされる。
 愛染宿より南は女人結界であったが、現在の大峯奥駈道の女人結界は五番関に移されている。なお、付近に現在も女人結界跡として残る。

 この金峯山神社の神前でお賽銭を上げて合掌し、今来た道を駆け下って行く。登るときは辛いが、下るときは、加速度もつきスタコラサッサとあっという間に上千本の各、屋敷が建っている所に着いてしまった。そして今夜のお宿竹林院へ歩を進める。その竹林院の広壮なる佇まいに少々驚いてしまった。まるで時代劇にでも登場するような立派な門構えで、院内に入ると風格有る瓦葺きの古式ゆかしい屋敷が、堂々と建っているではないか。

  竹林院・群芳園

世界遺産にも登録された、吉野山、上の千本、
一万坪の敷地の中に、自然と溶け込みつつも凛とたたずむ宿。
それが竹林院群芳園です。
そもそも竹林院は椿山寺(ちんざんじ)と称して、
聖徳太子建立の一寺と伝えられ、古来より、
修験道に努める山伏の宿坊として利用されました。
豊臣秀吉や与謝野晶子など、数多くの文人墨客の宿としても愛され、昭和56年には昭和天皇皇后両陛下御宿泊の栄を賜った歴史を持ち、今に至るまで広く親しまれてまいりました。

 西行碑敷地内にたつ西行碑には
「吉野山 こぞのしをりの 道かへて まだ見ぬかたの花をたづねん」
という歌がしるされています。
吉野の桜を愛した西行が以前に来たときの道しるべを付けていたが、また違う道を選び、違う景色の桜の花見を楽しもうという、吉野を訪れるのをとても楽しみにしていた様子が想像できる歌です。

 大和三庭園のひとつとなっている竹林院の庭園「群芳園」は、
豊臣秀吉(豊太閤)が吉野山の桜の花見に際して千利休が作庭し、
一説には細川幽斎が改修したといわれている池泉回遊式の借景庭園です。
春は見事なしだれ桜が池の中央に咲き乱れ、夏は美しい緑に囲まれ、秋は色鮮やかな紅葉、
そして冬には雪が積もり、凛とした静謐な空気が澄み渡るのを感じていただけます。
遠く吉野の山々、蔵王堂を見はるかし、四季折々の鮮烈な美しさを間近にしながらそぞろゆくのも他では味わえない醍醐味のひとつです。

 そんな竹林院の部屋に通され、まだ時間が早いので、一万坪という広大な庭園を見て歩く。池の一隅に見事なるしだれ桜が、風にそよと揺れ咲き誇っている光景は見事と言うしか言葉がない。崖の斜面には、ツツジ、シャクナゲ、それに枝振りの良い桜がパッと鮮やかに咲いている。さすがは歴史的変遷を重ね人々に愛された名園だけのことはある眺望だ。そんな庭園を見た後、一浴するため風呂場へ向かう。温泉でないのが少々物足りないが、浴室も広々としており、入浴するとお湯もスベスベしており、温泉のようで実に肌に心地よいお風呂だ。

 そして風呂に入りサッパリとして、、お食事処へ行く。ここでは大勢の宿泊客が、寛ぎ団欒をしながらお料理に箸を付けている。その料理は、山だけにやはり、山菜の天麩羅、ヤマメの塩焼き、お刺身等々がテーブルに並べられ、それらに箸を付け生ビールをゴクゴクと飲む。今日は陽光も強い中をかなり歩き、そしてお風呂に入ったので、スッカリ喉が渇いているためその生ビールの実に美味しいこと。桜を愛でてお風呂に入り、ご馳走を食べ、生ビールを飲む。これぞ当に生きていて良かったと思う。至福のひと時だ。

 そんな夕食を採った後、今度は庭園に行きライトアップされた見事なるしだれ桜を眺めその桜の精気を十二分に身体に取り入れ、活力増進、パワーアップをしたのだった。 (^o^)


 4月13日(金)

 《行 程》
 
 竹林院⇒吉野(9:35発)⇒吉野口(10:00着・10:07発)=和歌山線⇒橋本(10:36着・10:45発)=南海高野線・こうや3号⇒極楽橋(11:24着・11:29発)=ケーブルカー5分⇒高野山(11:34着・11:39発)⇒奥の院前(11:59着)⇒一の橋⇒奥の院⇒中の橋⇒大円院 宿泊

 ≪Travel Memo≫

 起床するなり、朝風呂とばかり風呂場へ行く。昨晩は男性は地下にある大浴場だったが、男女入れ替わりで、今朝は男性は、テラスに作られた露天風呂なので、気分は誠に宜しく深緑を通して吹く風がさわやかで実に目覚めには、何とも言えぬ心地よさだ。7時30分に朝食を済ませ「有り難うご座いました。お気を付けてどうぞ・・・!!」と竹林院の綺麗なお姉様に見送られ竹林院を後にする。途中、昨日は移管した金峯山寺へ立ち寄る。まだ早朝なので、観光客も余りおらず本堂も閉じており、朝靄の中に威風堂々と建っている本堂は威厳を発し、思わず合掌してしまった。

 そして中千本の参道を下千本へ向かい歩くのだが、まるで昨日の大混雑が嘘のようにまだ土産屋も開いておらずシーンとしている。そんな坂道を吉野駅目指し駆け下る。昨日は下から下千本の桜を愛でたのだが、今日はこうして上から下千本の桜を愛でながら下って行くとよりいっそう視界が開け卯月の空にその桜の木々が織りなす桜花爛漫の見事なる光景はただただ美の極地である。そして吉野駅に到着し、そんな高野山の一目千本の桜ともお別れをし、今度は霊場、高野山へと向かう。

 高野山

高野山(こうやさん)は、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称。平安時代の弘仁10年(819年)頃より弘法大師空海が修行の場として開いた高野山真言宗、ひいては比叡山と並び日本仏教における聖地である。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)をはじめ117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。
平成16年(2004年)7月7日、高野山町石道と山内の6つの建造物が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界文化遺産に登録された。

 地名としての「高野山」とは、八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)と呼ばれる峰々に囲まれた盆地状の平地の地域を指す(行政上の字名としての「高野山」もおおよそこれと同じ地域である)。8つの峰々に囲まれているその地形は『蓮の花が開いたような』と形容されており、仏教の聖地としては「八葉蓮台」という大変良い場所であるとされている。転軸山・楊柳山・摩尼山の三山を高野三山という。なお、高野山という名称の山は無い。

気候
金剛峯寺境内にあるアメダスの観測値で年平均降水量1851.6mm。年平均気温は10.9℃と大阪管区気象台より6℃低い。極値は最高33.2℃(1994年8月6日)、最低-13.4℃(1981年2月28日)[1]。


 マア、実に電車を何度となく乗り換え 要約極楽橋駅に到着した。ここから急勾配の斜面をケーブルカーに乗り、やっと高野山駅に着いた。更にバスに乗り終点の奥の院前に到着する。空模様は、昨日吉野山の温かな良いお天気とは違い、打って変わった今にも雨が降ってきそうなどんよりとした肌寒い天気だ。それに霊場と言うだけに陰々滅々としており、霊気が漂っていそうな陰気な光景だ。奥の院を拝観する前にレストランで昼食を採る。早速、ビールを注文しようとしたら「はしたない。いけません。これから霊場へ行くのですから赤い顔をして行ったら仏罰がてきめんに当たりますよ。控えおろう。」と和美にたしなめられ「ヘーイ、スンマヘン。」とそこでグッとビールを我慢して、親子丼を食べることとした。

 奥の院

 弘法大師の御廟と灯籠堂がある(世界遺産)。参道には、皇室、公家、大名などの墓が多数並び、その総数は正確には把握できないものの、20万基以上はあると言われている。戦国大名の6割以上の墓所がある。奥の院の入り口は一の橋と中の橋の2箇所があるが、正式には一の橋から参拝する。一の橋から御廟までは約2kmの道のりとなっている。その途上には「みろく石」などの七不思議と呼ばれる場所がある。

 昼食を済ませ一の橋から奥の院まで参拝をする。先ずは清水で手を洗い口をゆすぎお清めをする。参道の両側には、個人の物や有名な会社の墓石が幾つも立っており、珍しいのは動物の墓石があり、まるで墓石のオンパレードだ。歩を進めるにつれ、杉の大木が繁りその幹周りも実に太く、そんな巨木が数多く空に向かって真っ直ぐに伸びている。それだけに辺りは暗く霊気が漂っているという厳粛なる雰囲気だ。また、歩を進めると戦国時代の大名、豊臣秀吉、徳川秀忠、武田信玄、伊達政宗等々の墓石が置かれている。しかし、何故コノ高野山に戦国時代の大名の墓があるのかが、多いに疑問になるところだ。彼らの何本かの遺髪でも供養のために祀られているのであろうか。「ウーーン、ワカラナイヤ。」、「マア、イイカ。」  (^^;)

 チーンと甲高い鈴を鳴らし、男女一組の巡礼が、良く通る声でご詠歌を詠っている。ここから先は、御廟でも最も聖域なる場所で、脱帽し厳かに歩んでいかなければならない。歩を進めると階段になっており、その階段を昇るとそこに若き修行僧が、厳かに立ち参拝者の手を清めるためにお香を授けてくれた。そのお香の匂いを嗅いでみると心が洗われるような良き香りであった。そして前方には威風堂々たる奥の院の本堂が荘厳なる佇まいを見せている。お賽銭を奉納してからその奥の院の内に入ると院内は暗く、邪気を払うが如くお香の匂いがしており、否が応でも神妙なる気持にさせられる。

 そんな奥の院を参拝し、復路は往路と違う道を辿り、また、杉の巨木が立つ樹間に墓石が数多く立ち並んでいる。これだけの多くの墓石があると長い年月の管理が実に大変であろうと妙な感心をする。そんな墓石巡りもようやく終わり、明るい中の橋へ出た。ここから歩いて今日のお宿、大円院へ行く。それにしてもこの寒さは一体どうしたことか。昨日の吉野山では、晴天の中、汗をかきながら見物していたのだが、今日の高野山は、どんよりとした曇り空で、歩いていても寒くこの陽の吉野山、陰の高野山と対象的な、違いに驚かされる。

 静かな高野山の町を歩いて、宿坊の大円陰へ着き、僧侶から宿泊心得を聞き、部屋に通された。宿坊と言うことで、部屋も陰気くさい部屋だと思ったら、差にあらず綺麗な8畳ぐらいの部屋で液晶画面のテレビが備えられてあった。早速一浴するため風呂場へ行くと、この風呂場も広く浴槽もゆったりとしており、温泉でないのが少々残念だが、ザブーンと手足を伸ばし「極楽、極楽」とご満悦だ。 (^_^)

 風呂に入り部屋に戻ると修行僧が、隣室に夕食が用意されていると告げられ、ビール、般若湯(お酒)を注文し、宿坊だけに精進料理がお膳に並べられてあった。それに箸を付け般若湯を飲む。この般若湯が口当たりも良く、坊主も寝る前にきっとこの般若湯を飲んで寝ていると思うと思わず吹き出したくなる気分であった。そんな精進料理を食べ、ビール、般若湯とすっかり酔いも回り気持良くなってしまった。早朝、5時40分に本堂で、朝の勤行があるから是非、参加してくれとの「宿泊心得」を聞いていたので、何分、5時40分の勤行では、少なくても5時20分には、起きていないとならないから、夕食を済ませ早々に床に着いた。

 4月14日(土)

 《行 程》

 大円院⇒(金剛峯寺他、各寺院見学)⇒高野山=ケーブルカー5分⇒極楽橋=南海高野線・こうや6号⇒近鉄難波(13:50着)=御堂筋線(二つ目)⇒本町=中央線(二つ目)⇒谷町4丁目(1-B出口)=徒歩15分〜20分⇒大坂城見学(16:30〜17:00出発)=徒歩15分⇒谷町4丁目=中央線⇒本町=御堂筋線⇒近鉄難波⇒新大阪(18:40発)=ひかり480号⇒東京(21:40着)⇒三鷹


 ≪Travel Memo≫

 早朝5時10分に起床し、歯磨、洗面と身を清め本堂へ行くと既に朝の勤行が、厳かに始まっていた。本堂にはお香が焚かれ何と僧侶が7人も祭壇に鎮座しており、食事の世話をしてくれた若き修行僧も立派な衣に着替え、神妙に院主の大僧正の読経に称名している。その称名が独特なリズムで単なる御経と違い実に聞いていても気持ちよく心が洗われるようだ。そんな称名を私は正座をして聞いていたが、だらしのないもので、15分ぐらいで足が痺れてきて、やむなくあぐらをかきその称名を聞くこととなった。

 そんな称名もやがて終わり、院主の大僧正が私達宿泊者4名の前に正座し、説法をしてくれた。その内容としては「ご縁と有り難う」のことについて、話してくれた。「何事もご縁で、結ばれているのだからそのご縁を大切にしなければならない。そして何時も有り難うと大きな声で、唱えることにより自然に感謝の気持ちが生まれてきて、あらゆる一切のことが、成就
するのですよ。」とのご託宣であった。「ヘー、ソンナモンカイナ。」と頭を垂れて聞いていた私であった。そんな説法も終わり朝食を済ませ修行僧に別れを告げ、これから高野山の名所を見学することとした。

 院外に出るとあいにくと小雨が降っており、その雨のために白くもやがかかり町が何とも言えない静寂なる雰囲気だ。先ずは高野山霊宝館へ行く。ここは高野山上にある国宝、重要文化財等の保存・展示が行われており、定期的にテーマを絞った展示会が開催される。なお、現在の日本の国宝の2%は高野山上にある(1073件中、23件)。大正10年(1921年)、開設。

 館内に入ると数多くの仏像が安置されそれらはほとんどが、金剛峯寺の物でこちらの霊宝館の方へ移されて見学できるようにしてあるようだ。そんな霊宝館の見学を終えて、今度は壇上伽藍へ行く。

 壇上伽藍(壇場伽藍)

 弘法大師・空海が曼荼羅の思想に基づいて創建した密教伽藍の総称であり、高野山の二大聖地の一つである(ほかの一つは奥の院)。金堂は高野山全体の総本堂で高野山での主な宗教行事が執り行なわれる。ほかに大塔、御影堂、不動堂などが境内に立ち並び、不動堂は世界遺産に登録されている。また、弘法大師伝説のひとつである飛行三鈷杵がかかっていたとされる「三鈷の松」や、高野四郎(俗称)と呼ばれる大鐘楼も伽藍に存する。

 根本大塔には、大きな仏像が、何体も安置されており、そのご尊顔を拝見していると自然と頭を垂れ合掌し無心の気持になる。更に金堂を見てから高野山真言宗の総本山である最も格式のある金剛峯寺を拝観する。この金剛峯寺のふすまに描かれた桜、あやめ、梅等の繪は狩野派の英知を結集した力作ばかりで、実に色彩も鮮やかにリアルタッチで描かれている。それと豊臣秀次が、秀吉の命により自刃したという部屋があり、その部屋を見て陰鬱な気分になってしまった。一方、庭に目を転じればその石庭が
白い小砂利が波模様を箒で描かれ、大石が間隔を置き置かれている様子は、まさに海を表現しているのであろうか。

 金剛峯寺

 高野山真言宗の総本山で座主の住寺(世界遺産)。金剛峯寺は元は高野山全体の称だが、現在金剛峯寺と呼ばれるのは明治2年(1869年)に2つの寺院が合併したもの。もと青巖寺(剃髪寺)と呼ばれた寺院は文禄2年(1593年)、豊臣秀吉の建立、文久3年(1863年)、再建。歴代天皇の位牌や高野山真言宗管長の位牌をまつっている。大主殿、別殿、新別殿と分かれており、別殿では観光客に湯茶の施しがある。襖に柳鷺図のある柳の間は豊臣秀次の自刃の間。屋根の上に置かれた防火用の水桶は、かつては高野山全域で見られたが今も置かれているのはここのみ。また、金剛峯寺境内にある「蟠龍庭」(2,340m2)は日本最大の石庭。

 この高野山には、数多くの寺院があるので、それらを丁寧に見ていったらもう、一泊しなければならない程である。そんな高野山ともお別れをし、また、バスに乗り高野山駅到り、ケーブルカーに乗り極楽橋に着き電車を乗り継ぎ大坂城へ向かうこととした。

 その大坂城は今が桜の真っ盛りで、土曜日でもあり、多くの観光客がのんびりと歩いている。再建された大坂城を近くで見るとそれなりに立派に見えるが、やはり、コンクリート造りという
味気なさはどうしてもしてしまい、止む得ないことであろうか。大坂城の場内を各、階を見物して歩くが、マア、人でごった返しており、ゆっくりと見ておられないので、8階の天守閣へ行き、その眺望を楽しんで、大阪城公園で、大阪名物の「たこ焼」を売っていたので、缶ビールと共にそれを買い求め経済的なる昼食とした。

 こうして吉野山、高野山、そして大坂城と実に変化に富んだ2泊3日の旅もFinaleとなったのだった。



 大坂城

 ひとくちに「大阪城」といっても、この言葉には3つの意味が含まれているのをご存じでしたか。これから、そのひとつひとつの意味をご説明しましょう。

 まず、第一の意味は、「歴史遺跡である近世城郭としての大阪城」。もう少し正確に表現すると、「特別史跡大坂城址」、それから「重要文化財大阪城」です。
これは、かつて存在した豊臣秀吉時代の大坂城、その後の徳川幕府時代の大坂城と、さらにその遺跡である現在の大阪城をひっくるめた、土木構造物と建築物の総称です。
(歴史的にみると、本願寺時代の「大坂城」をここに含むこともできるでしょう。)

 次に、第二の意味です。これは、短くいうと「大阪城公園」のことです。詳しく説明すると、「大阪の中心部にある上町台地の北端に位置する史跡を利用した、広大な市民の行楽・保養空間としての大阪城」です。一般には、「大阪城公園」といわなくても、「大阪城」だけで、その意味するところが伝わると思います。

 最後に、第三の意味です。これは「住所、町名としての大阪城」です。すなわち、大阪城という言葉そのものが、住所・町名の一部になっているのです。
たとえば、天守閣の中には「大阪城天守閣」という歴史博物館が入っていますが、その住所は「大阪市中央区大阪城 大阪城天守閣」となります。
大阪城公園全域が「大阪城」という町名なのですが、これは世間にはあまり知られていません。
これから、「大阪城」という言葉を聞かれたときは、3つのうちどの意味で使われているのかな、と考えてみると、理解が深まりますよ。

 大阪城では、中心にある8階建ての塔を天守閣(てんしゅかく)と呼んでいます。
これは、お城の中で一番高い櫓(やぐら)を天守閣と呼ぶ習わしがあったためで、1931(昭和6)年、大阪城の復興にさいして「天守閣」と呼んだことによるものです。
天守閣というのは、金閣や銀閣などの楼閣建築が発展して天守閣になったとする考えに基づく造語であり、実際には、幕末になってから使われるようになった言葉です。
戦国時代末期から江戸時代初期には、まだ天守閣という呼び名はありませんでした。意外でしたか? では当時、この部分を何と呼んでいたのかというと、現在残されている文書には、「てんしゅ」という言葉しか出てきません。 ただし、その表記は「天守」のほかに「天主」「殿守」「てんしゅ」「テンシュ」など、さまざまなバリエーションがあって統一されていないようです。

 お城というと、私たちはつい、一番目立つ天守だけを思い浮かべがちですが、正確にはこの部分だけを指すのではありません。
お城とは、敵の攻撃から守るために立て籠もる空間全体のことなのです。すなわち、堀、石垣、塀、櫓(やぐら)、その他のあらゆるものをまとめた呼び名です。
もちろん、天守もそのなかに含まれています。
確かに、壮大な天守は見た目にも映えますし、領地支配の象徴ともなります。いざ、戦(いくさ)となれば、遠くを見晴らす高台ともなるでしょう。(これが、天守本来の目的でした。)
同時に、天守は守りの最後の拠り所(よりどころ)ともなります。つまり、天守が敵の手に落ちるときは、戦いに負けるときです。
ですから、近世城郭では、天守を中心に、設計上のさまざまな工夫をこらしてあります。
敵ができるだけ城内へ侵入しにくいように、仮に侵入したとしても、なるべく天守に向けて前進しづらいようにしてあるのです。
お城とは、そうした構造物や設備を全部ひっくるめた空間を指す言葉なのです。

〜〜「オシマイ」〜〜