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≪碓氷峠アブトの道遊歩道Photographはこちらからどうぞ≫











    Circle≪ゆ〜ぽぴあ≫・遊歩記
   第253回遊歩
 ≪晩秋の一日・碓氷峠の面影を残す
アブトの道遊歩道と峠の湯を訪ねて≫









 遊歩日:  2017年11月19日(日)
 遊歩先:  JR横川駅 、遊歩道「アプトの道」
温 泉:   峠の湯
参加者:  5名
 天 候:   秋晴れの晴天

《行 程》
◎GoldRiver  東京駅(07:27発新幹線あさま603号)⇒高崎(08:20着)

上野駅(6:40発 JR高崎線)⇒高崎駅(8:31着 8:42発 JR信越本線)⇒横川駅(9:15着・9:25発)⇒峠の湯(10:10)⇒めがね橋(10:50)⇒熊ノ平(11:10〜11:40・昼食休憩) ⇒めがね橋)⇒峠の湯(12:30〜14:30・入浴休憩)⇒横川駅(15:58発JR信越本線)⇒高崎駅(16:29着・16:40発JR高崎線)⇒上野駅(18:33)  ハイ、オツカレサン


 ≪遊歩記≫

 今回の「碓氷峠・アブトの道遊歩道」の遊歩は、信越線の横川駅を起点としたコースで、来し方を振り返れば、総参加者14名のyuupolerが、2008年5月24日(土)〜25日(日)1泊2日で、霧積温泉「金湯館」に宿泊し、鼻曲山(標高 1654m)へ登山するために訪れた駅である。何と11年ぶりに再度また、訪れることとなった。その時は、24日に、鉄道文化村へ行きSLを見学して、ミニ電車に乗りめがね橋まで行きそこで峠の釜飯を食べて、それから霧積温泉の送迎バスにて「金湯館」の宿へ行ったのだった。鼻曲山には、25日があいにくと朝から雨が降っていたので、参加者が雨の山行をいやがってしまい結局、私と和美そして私達から遅れて初参加のTさんが、登ってきたのだ。

 今回は横川駅から碓氷峠の「アブトの道」を歩き熊ノ平駅まで行き往路を戻り、「峠の湯」で、温泉に入り、生ビールを飲んでまた、「アブトの道」を横川駅まで歩くというコースだ。

 この「アブトの道」の遊歩案内を見て、和美が「上野駅6時30分には、三鷹からとても行けない・・・!!」と言いだし、そのため、私達は東京発7時27分のの新幹線を乗車して、高崎まで行きそこで3名のyuupolerと合流することとなった。東京駅の構内で、駅弁を購入し、それを缶ビールを飲みながら、リッチな気分で、朝食Thymeを採る。そしてプレクストークポケットで、津本陽の小説を聞いていたら何と早くも「次の停車駅は、高崎です。」とannounceが流れた。東京駅から高崎まで、55分で来てしまうのだからやはり、新幹線は早いものだ。高崎駅の信越線ホームにて、3名のyuupolerと合流し、8時42分発横川駅に乗車する。

 松井田駅を過ぎた当たりから左車窓に妙義山の荒々しい岩壁が見えてきた。この町議さんには、石門巡りの一般Course、表妙技、裏妙義のSpecial Courseと登っているが、特に表妙技は、あの鷹も戻るという「鷹戻し」と言う大岩壁が有り、それを鎖を使って登るのだが、イヤー、半端じゃあありません。一寸気を許したら、滑落してしまうのだからもう、一心不乱にただ鎖を頼りに登るだけだった。横川駅で降りたら鴬谷のS,Mさんが、予約をして於いた「峠の釜めし」を駅前の「荻の屋」で受け取り、恒例の声出しを済ませRooNav担当の鴬谷S,Mさんから今日のコースの説明を受け、イザ、熊ノ平駅目指し出発だ。・・・!!!

この碓氷峠には、思い出深いものがある。私の郷里は高崎だからこの碓氷峠を子供の頃は、SL、蒸気機関車で、トンネルを幾つも超えて、軽井沢へ行ったものである。その時は横川駅から急にスピードが落ち急勾配のため、通常運行が出来ず蒸気機関車の部分と、線路の部分に長い歯型の者が取り付けてあり、それがお互いかみ合って、この急勾配を登って行くのだ。アブト式という装置である。ガタンボトンと黒い煙を吐きながら苦しそうに峠を喘ぎ喘ぎ登っていったものだ。それが幾星霜、時の変遷により、新幹線の開通により、この横川駅から軽井沢までの間が、運行中止となり、この旅情豊かなる碓氷峠を電車で行く醍醐味が、無くなったことは、誠に残念である。

 そん古に思いを馳せ線路がそのまま埋設されている遊歩道を歩いて行く。路傍には白いススキが風に吹かれユラユラと揺れている。時たま落ち葉が舞い、空を見上げれば綿のような曇が、ポッカリと浮かび当に晩秋の光景だ。気持ちはすっかり昔に返り、上州中仙道道を行く旅人さんであう。そんなアブトの道、遊歩道もやがて、「峠の湯」に到達した。ここでトイレ休憩をし、更に歩を進める。勾配は徐々に増しアブトの道の両側も高い木々が茂り、路傍は草に覆われ碓氷峠の自然を醸しだす。そして1回目のトンネルに入る。昔はこのトンネルを汽車が走っていたと思うと考え深いものがある。更に五つのトンネルを抜けるとこのアブトの道で一番の観光スポット「めがね橋」に到達した。ここで記念写真をパチリ、言わゆる高い鉄橋が、まるでめがねの様に見え観光用に名付けたもので、昔はただ汽車が通る鉄橋に過ぎなかった者だ。

 このめがね橋には、多くの観光客、ハイカーが、木々が赤、黄色と色づく紅葉に見とれて、さかんにデジカメでパチリと撮している。そんなめがね橋を後に更に峠を登ってまた、五つ目の暗いトンネルを抜けるとやがてこの「アブトの道遊歩道」の終点、「馬熊ノ平駅」に到達した。この駅が碓氷峠の頂点で、これから軽胆沢川に行くと今度は下りとなるのだ。ここら辺りは線路は昔のままで、平行に延びた線路が続いている。そんな線路を触ってみるとその冷たい感触が、否が応でも昔の碓氷峠を思い出す。横川駅から11個目のトンネルを抜けると山間にひっそりと立つ駅舎が現れ、線路の脇には、碓氷峠の工事で亡くなった多くの人夫を弔うための母子観音像が安置されていた。その母子観音像は、今は休憩場所となっている所に安置されてある。線路の向こう側には、何匹の猿が、これからやってくる冬に備え、毛繕いをしたり、日向ぼっこをしたりと余念が無い。

 そんな熊ノ平駅の休憩広場で、昼食Thymeを採り、早速、色々の具が一杯に詰められた釜飯を食べる。昔のままの味に思わず笑みがこぼれる。それにしても寒さがジンジンと伝わってきて、ゆっくりと食事もしておられず早々に昼食Thymeを切り上げ「アブトの道遊歩道」を戻ることとした。復路は下り坂となっているため、ドンドンと駈け下り、やがて「峠の湯」に達し、ここで湯ったりと温泉に入る。この船室泉質は弱アルカリ泉で、迚もスベスベとしており肌触りが迚も良い。内風呂にゆっくりと浸かり、それから露天風呂に入る。吹く風が冷たく頭がヒンヤリとして、身体はポカポカで、「ババンバンバン、ここは上州峠の湯・・・!!!」とうなりたく様な気分だ。そして一浴後、定番になっている生ビールを飲み、また、「アブトの道遊歩道」を小一時間かけて、横川駅へ到達し、電車の発車時間まで、約、40分位有るため酒屋で地酒を買い求め横川駅前のテント場で、その地酒をお互い飲み交わす。

 こうして旅情たっぷりな「碓氷峠アブトの道遊歩道」の遊歩もEpilogとなった。

 パチパチパチパチパチパチ
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 〜〜≪オシマイ≫〜〜



遊歩先の紹介》

 *碓井峠路探訪アプトの道

 アプト式鉄道時代の廃線敷を利用して、横川駅から熊ノ平駅間の約6kmを遊歩道として整備した。アプトの道は国の重要文化財である旧丸山変電所をはじめ3つ橋梁と10の隧道があり、めがね橋を代表する鉄道煉瓦構造物群などの碓井峠の鉄道遺産にふれることができる。
唱歌「もみじ」の作詞者の高野辰之は碓井峠にある信越本線熊ノ平(現在は廃線)から紅葉を眺め、その美しさにひかれてこの詞を作ったという。
「秋の夕日に照る山もみじ・・・・・」

 旧熊ノ平駅からの横川方面にある新線跡と旧線跡のトンネル

 1963年(昭和38年)に廃止された旧国鉄信越線の横川駅 - 軽井沢駅間の旧線跡において、1996年(平成8年)より横川駅 - 碓氷第三橋梁(通称・めがね橋)間の全長4.7kmの廃線跡に遊歩道としての整備工事が行われ、2001年(平成13年)に完成した。
2008年(平成20年)には、碓氷第三橋梁 - 旧熊ノ平信号場間(1.2km)の延長工事に着手。当初は碓氷第三橋梁の横川方の第五隧道内の照明用のため、旧国道18号線沿いに電柱を立てる予定だったが、隧道から軽井沢方面は上信越高原国立公園内となっているため国から許可が下りず、碓氷第三橋梁から電線を敷設することになった。そのため工事が一時休止し、予定の2012年(平成24年)4月完成が危ぶまれたが、無事に横川駅 - 旧熊ノ平信号場間の全長5.9kmが2012年(平成24年)3月末に完成し開通した。

 東日本旅客鉄道(JR東日本)信越本線の横川駅を基点として、旧上り本線を経由し、丸山変電所、峠の湯を経て、2012年(平成24年)4月現在は旧熊ノ平信号場(旧線廃止当時は熊ノ平駅)までが通行可能となっている。旧熊ノ平信号場からは階段があり、旧国道18号線につながっている。また、付近には普通自動車22台・大型車4台の駐車場も設置されている。
一方旧熊ノ平信号場 - 軽井沢駅間は、アプト時代の物も残ってはいるものの、一部はトンネルがふさがれたりしており、2012年時点での整備計画はない。なお、横川駅から峠の湯までは旧上り本線をアスファルトで舗装しているが、急勾配のレールの重さによるずれにより、所々にアスファルトにひびが入っている(現在も年間に数ミリのレールのずれが起きている)。

 2005年(平成17年)に開通した「碓氷峠鉄道文化むら」から峠の湯までの2.6kmを走行するトロッコを運転している旧下り本線は、柵で分離し立入りできないようになっている。なお、トロッコは「碓氷峠鉄道文化むら」の遊具という扱いとなっているため、同施設の入場券が必要である。トロッコ運転は土曜・休日および特定日の日中となっており、さらに11月から3月中旬までは運休となる。

 横川駅

 現在は信越本線の終着駅となっている。かつては碓井峠越えの拠点となった駅であった。横川軽井沢間は急勾配のため、開業時はアプト式鉄道を採用した。
 関東の駅百選に選ばれている。駅前にあるおぎのや(本店)の「峠の釜めし」は有名。

 *峠の湯

 アプトの道沿いの日帰り温泉施設。峠の「やさしいお湯」が疲れた心身と心を芯から癒すらしい。
 泉質は「ナトリウム-炭酸水素塩・塩化物温泉(弱アルカリ性・無色透明)」おそらく炭酸の泡がシュワー、なめてみるとしょっぱいのではないか。
効能は疲労回復、健康増進などなど

碓氷峠

 標高 960 m
所在地 群馬県安中市松井田町坂本・長野県北佐久郡軽井沢町

  碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある日本の峠である。標高は約 960 m。信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺である。峠の長野県側に降った雨は日本海へ、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れる。
古代には碓氷坂(うすひのさか)、宇須比坂、碓日坂などといい、中世には臼井峠、臼居峠とも表記された。近世以降は碓氷峠で統一されている。「碓井峠」「碓水峠」は誤表記。

 地理

 1200 万年ほど前には現在の碓氷峠は海中にあり、クジラやサメなどが生息していた。700 万 - 200 万年前には碓氷川上流地域で噴火活動があり、110 万 - 65 万年前の溶岩噴出で碓氷峠付近は平地となった。その後、30 万 - 20 万年前に霧積川によって東部で侵食があり、急な崖が形成された。以上のような経緯から、地層は下部が第三紀中期の海生堆積岩類、上部が後期中新世から前期更新世の火山岩類で構成されている。下部の堆積岩層は泥岩、砂岩、凝灰岩などで侵食されやすい。また、上部の火山岩層の厚みは数百メートルに達する。
東部が激しく侵食された結果、現在の碓氷峠は直線距離で約 10 km の間に標高差が 500 m 以上に達する急峻な東側のみの片勾配となっていて、群馬県側の麓・横川の標高 387 m に対し、長野県側の軽井沢は標高 939 m と峠 (960 m) との標高差がほとんどない。特に、中仙道を例に取ると坂本宿から刎石山までの水平距離 700 m の間に標高差が 300 m もある。そのため一般的な、山脈をトンネルで抜けることで峠越えの高低差を解消できる両勾配を持つ峠と異なり、通行には近代に至るまで数多くの困難を抱えた。

 気象学的にも、碓氷峠は関東地方と中部地方の境界にあたる。日中、関東地方南岸では大規模な海風(太平洋海風)が生じて、およそ 5 m/s で大気が内陸に向かって進む。一方で中部地方内陸部では上空に低圧部が現れ、谷から山頂に向かう風が生まれる。午前中は碓氷峠にこれら二つの流れが両側から向かってきて、峠では風が真上に向かって平衡状態となる。午後になると地表面の温度が高くなって双方の勢いが増すが、関東地方からの流れがより強くなるため南東風が吹き、関東地方の大気が中部地方に流入する経路となる。なお夜間には海風が支配的となって南東風が続く。また、山を登る空気は気圧が低くなるとともに膨張して温度が下がり、飽和した水蒸気が霧となるため、関東平野から碓氷峠を登って流れ込む南東風が原因となって軽井沢では年間 130 日以上も霧が発生している。

 自然環境

 植生は付近にあって標高の近い浅間山山麓部分と似ており、ブナやコナラなどの落葉樹、およびモミやカラマツといった針葉樹が生えている。下草としてはゼンマイやススキ、リンドウ、ニッコウザサなどがある。浅間山との違いとしては、ムラサキやシモツケソウ、モウセンゴケが多いことが挙げられる。

 一帯には古くからニホンザルが生息しているが、1980年代から人里に降りてきて農作物などに被害が出るようになり、1984年には碓氷郡松井田町(当時)など 3 町で計 2,000 万円以上もの被害があった。その原因としては
林野庁がナラやクリなどの広葉樹をスギなどの針葉樹に代えたため、餌となる木の実が減少した
北陸新幹線や上信越自動車道の建設にともなって従来の棲み処を離れた
観光客らが餌を与えるようになって人に馴れた
などが指摘されている。上信越自動車道の開通後は交通量の減った国道18号への出没も増え、1990年代末以降は碓氷峠を拠点に軽井沢の中心部にも出現している。