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Circle《ゆ〜ぽぴあ》 遊歩記


  第281回遊歩 
  ≪民音音楽博物館でピアノ等
  の名器の音色を鑑賞し梅の香り漂う名園を散策して神田明神の本殿を参拝しましょう・・
!!!










 遊歩日:   2020年2月16日(日曜日)
 遊歩先:   民音音楽博物館・小石川後楽園・湯島聖堂・        神田明神
 担当者:   Chief担当 金川 勝夫  
         Sub担当 金川 和美
 天 候:   小雨後、曇
 参加者:   10名

《行 程》


 ◎信濃町駅(9時40分)=徒歩5分⇒「民音音楽博物館・見学約、2時間」=徒歩5分⇒信濃町駅前食事処(昼食休憩)=電車⇒飯田橋駅=徒歩10分⇒小石川後楽園(園内散策)=徒歩25分⇒本郷給水場公苑=徒歩10分⇒JRお茶の水駅聖橋口=徒歩10分⇒湯島聖堂=徒歩5分⇒神田超人=徒歩15分⇒昌平橋=徒歩25分⇒御茶ノ水駅


 
≪遊歩記≫


 信濃町駅改札口外にて、参加者10名が集結し、今日のコース説明をRooNav担当である私が行う。そして参加者の声出しを済ませ一堂、小雨が降る中、「民音音楽博物館」へ向かった。開館時間まで、まだ少将次官があるためシャッターが降りた玄関前にて、待っていたが、納めが降っているため寒いので、私が博物館の脇にある受付へ行き、職員と交渉して、博物館の中へ入れて貰い見学開始時間まで、lobbyで、待つこととした。


 やがて見学時間となり、職員に誘導され2階の展示コーナーへ行く。最初は6台ぐらいのclassicなオルゴールを職員の方の説明により、その音色を聞き比べる。そのオルゴールは、ろれぞれがかなり大きく一つ一つが、格調高くその音色もどちらかというとパイプオルガンのような音がして、当に時代を感じさせる音色だ。そんな各種、オルゴールの音色を堪能した後、場所を移動して、これまた、超classicなるピアノが、10台ぐらい配置され、そのピアノの音色を職員が一つ一つのピアノをミニ演奏して、そのピアノの音色を聞き比べさせてくれた。超classicなこれら各種のピアノは、金額にしたら相当なる額になると思うが、やはり音楽博物館だけ合って、貴重なる文化遺産であろう。


 これらオルゴール、ピアノ島を聞き比べた後は、各種、展示物を一つ一つ見て歩く。いずれもまさに音楽博物館に陳列されているだけに貴重なる楽器の数々だ。



「民音音楽博物館」


  一般財団法人民主音楽協会(通称:民音)は、1974年(昭和49年)、創立10周年事業の一環として、「教育、学術および文化の発展に寄与する」ことを目的としたライブラリーを中心とする『民音音楽資料館』を創設し、運営してまいりました。
  1997年(平成9年)、民音が現在の東京・信濃町へ移転したのを機に、『民音音楽資料館』は展示部門を併設・拡充しました。そして、さらなる音楽文化への貢献と文化事業の充実をめざし、2003年(平成15年)12月25日、東京都の登録博物館の認可を受けるに至りました。 『民音音楽資料館』は、その設立から30年を迎えた2004年(平成16年)5月、名称を『民音音楽博物館』と改め、世界でも数少ない音楽博物館として、新たなる歩みを開始いたしました。さらに2012年(平成24年)4月には兵庫県神戸市に西日本館を開設、2014年11月には民音研究所を付属し音楽博物館の機能を拡充しました。
 現在まで収集された音楽資料は、ライブラリー部門と展示部門とをあわせて30万点を超えております。音楽研究者、演奏家はもとより、音楽を愛好する団体や個人の方々にご愛顧を賜り、年間の来館利用者は、展示部門でおよそ10万人、ライブラリー部門が約1万人にまで達しております。
 『民音音楽博物館』は、これからも音楽文化の発展と興隆に寄与するとともに、音楽の喜びを享受する場として開かれた音楽博物館をめざし、より一層の充実を期してまいる所存です。


 そんな音楽博物館の貴重なる楽器を見学した後、丁度昼食時になったので、信濃町駅前の食事処にて、各自、お好みの物を食べる。ゆっくりと昼食Thymeを採った後、信濃町駅から電車に乗る。その車内では、私用のため別行動となったAさんご夫婦が、私達と別れを告げ私達8名は、飯田橋駅にて下車し、少し迷って、10分位歩き「小石川後楽園」へ向かった。園内に入ると季節柄、白梅、紅梅が、咲き誇り甘い香りを漂わせている。思わず梅の花びらに鼻を近づけそのその香りを嗅いでみる。梅は佐倉と違って、甘い匂いがするからBlinderにとっても嗅覚で梅を観賞出来るので、観梅の実感がある。


 そしてお休み処、東屋にて、男性諸氏、少しアルコールを入れてから、Tさん、yさんと後楽園で、お別れをする。それから残った6名、和美のiPhoneによるnavigationにて、次の目的地「 本郷給水場公苑 」へと歩を進めた。


「小石川後楽園」


1629年(寛永6年)、水戸徳川家水戸藩初代藩主・徳川頼房が作庭家・徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園を、嫡子の光圀が改修、明の遺臣朱舜水(朱之瑜)の選名によって「後楽園」と命名して完成させた。出典は『岳陽楼記』の「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」によっており、岡山市にある後楽園と全く同じである。 
7万平方メートル以上の広大な園内には、蓬莱島と徳大寺石を配した大泉水を中心に、ウメ、サクラ、ツツジ、ハナショウブなどが植えられ、四季を通じて情緒豊かな景色が広がる。 また中国の文人たちが好んで歌った西湖や廬山も採り入れている。光圀は朱舜水を設計に参加させたといわれており、中国的、儒教的な趣好が濃厚である。 
1869年(明治2年)の版籍奉還により藩主徳川昭武が邸宅とともに新政府に奉還し、そののち東京砲兵工廠の敷地の一部として陸軍省の所管となった。(この名残で現在でも砲兵工廠の遺構のいくつかを園内で見ることができる)1874年(明治7年)以降、明治天皇の行幸および皇族の行啓を受け、外国人観覧者も多く、世界的にも名園として知られるようになった。 1923年(大正12年)3月7日、国の史跡および名勝に指定された。指定の際、岡山市の後楽園と区別するため「小石川」を冠した。1952年(昭和27年)には文化財保護法に基づく国の特別史跡および特別名勝に指定され、今日では、都立公園として整備され、一般に公開されている(有料)。 

なお、1937年に隣接する旧東京砲兵工廠跡地にプロ野球興行を主たる目的として造られた野球場は小石川後楽園にちなんで「後楽園球場」(「東京ドーム」の前身)と名づけられ、さらに同じ敷地内にできた遊園地や多目的ホールなどにも同じように「後楽園」の名が冠されている。「


本郷給水場公苑


東京都水道局が管理する本郷給水所の上部の人工地盤上に造成された公苑です。苑内は2つの区画に分かれ、和風庭園では池と四阿(あずまや)を中心として雑木林と流れ、沼を配し、武蔵野を散策するイメージを味わえます。

洋風庭園は、フランス式の幾何学的模様でデザインされ、彫刻を中心に両側にあるパーゴラや地球儀、時計に囲まれた色とりどりの花が咲き誇るバラ園となっています。

バラ園の入り口は広場となっていて、母子像が設置されています。

 また、和風庭園の奥の一角には、江戸時代の神田上水が復原展示されています。ここは隣接する水道歴史館の野外展示場ともなっています。


 公苑の北側の半分近くを占めるバラ園は、左右対称にデザインされ、さえぎるものがないため、雑木林の和風庭園に比べて明るく開放的なのが特徴です。

芝生地を石で囲って一段高くなった4ヶ所の花壇と、その中心にある円形の花壇とがあり、53品種、約300株の色とりどりのバラが植えられています。

毎年、5月の中旬と10月の中旬が見頃となります。


 この本郷給水場公苑で、トイレ休憩し、更に歩を進め東京の中心街を「湯島聖堂」へ向かった。


「湯島聖堂」


 徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。

明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されましたが、明治4年(1871)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた次第です。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年(1872)には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、7年(1874)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886)、23年(1890)高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展してまいりました。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担いました。

大正11年(1922)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失いたしました。この復興は斯文会が中心となり、昭和10年(1935)工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計と椛蝸ム組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。この建物が現在の湯島聖堂で、昭和61年度(1986)から文化庁による保存修理工事が、奇しくも再び(株)大林組の施工で行われ、平成5年(1993)三月竣工いたしました。


 この湯島聖堂の建物は、威風堂々としており、また、この建物の甍は、一枚一枚の瓦が、まるで波紋を描くが如く空に浮かんでいるようだ。ここで江戸時代の武士達が学問に研鑽、努力を積んだと思うとっ歴史的変遷に感動仕切りだ。


 そんな「湯島聖堂」を見学し、このコース最後の目的地「神田明神」へ歩を進めた。



「神田明神」


    正式名称・神田神社。 東京の中心ー神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場ー、108町会の総氏神様です。

    「明神さま」の名で親しまれております。 

御祭神

だいこくさま

一之宮 大己貴命?(おおなむちのみこと)

    だいこく様。縁結びの神様。天平2年(730)ご鎮座。

    国土開発、殖産、医薬・医療に大きな力を発揮され、国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されています。また祖霊のいらっしゃる世界・幽冥(かくりよ)を守護する神とも言われています。大国主命(おおくにぬしのみこと)という別名もお持ちで、島根県の古社・出雲大社のご祭神でもございます。国土経営・夫婦和合・縁結びの神様としてのご神徳があります。 

えびすさま

二之宮 少彦名命?(すくなひこなのみこと)

    えびす様。商売繁昌の神様。

    商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様です。日本に最初にお生まれになった神様のお一人・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)のお子様で、大海の彼方・常世(とこよ)の国よりいらっしゃり、手のひらに乗るほどの小さなお姿ながら知恵に優れ、だいこく様とともに日本の国づくりをなされました。 

まさかどさま

三之宮 平将門命?(たいらのまさかどのみこと)

    まさかど様。除災厄除の神様。延慶2年(1309)にご奉祀。平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったお方です。明治7年(1874)に一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、昭和59年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっております。東京都千代田区大手町・将門塚(東京都指定文化財)には将門公の御首をお祀りしております。 

    

神田明神の歴史

神田明神の歴史 1

    社伝によると、当社は天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。

    その後、天慶の乱で活躍された平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました。戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。

    慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。 

    江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬をお受けになられました。 

    明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められました。

    明治7年(1874)には、はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が親しく御参拝になり御幣物を献じられました。 

神田明神の歴史 2

神田明神の歴史 3

    大正12年(1923)、未曾有の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまいましたが、氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、昭和9年に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。

    昭和10年代後半より、日本は第二次世界大戦へと突入し東京は大空襲により一面焼け野原となってしまいました。当社の境内も多くの建造物がほとんど烏有に帰しましたが、耐火構造の社殿のみわずかな損傷のみで戦災を耐えぬきました。  

    戦後以降、結婚式場・明神会館など次々と境内の建造物が再建されていき、昭和51年に檜木造の隨神門が再建されるに及び、江戸時代に負けない神社の姿を取り戻しました。さらに「平成の御造替事業」が行なわれ、社殿の修復・塗替えや資料館の創建など境内整備が進められました。平成17年、神札授与所・参拝者控え所・休憩所を兼ね備えた鳳凰殿、氏子英霊をお祀りする祖霊社が建立されるなど、さらに境内整備が進められております。


 この「神田明神」は、作家野村胡堂の「銭形平次」で、お馴染みの神社であるので、予てよりどんな神社なのか訪れてみたかったのだったが、来てみてガッカリしたと言うか。境内は神社特有のジャリが引き詰められていると思ったら、鋪装されており、樹木は無くその代わりに広々とした「お土産処」が、ズラッと商品が陳列されており、商魂逞しいと言うか。神々しさが、全く感じられずすっかりと拍子抜けしてしまった。マア、それでも一応、神殿では参拝し健康成就を祈念した。


 そして我ら一堂、そんな「神田明神」を参拝し、各自の交通手段にて、それぞれ帰途に着いた。 今回の遊歩は、そのコースが、多彩で皆さんそれぞれ楽しんで頂けたとRooNav担当として、自負している次第だ。



〜〜≪オシマイ≫〜〜