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Enjoy《ゆーぽぴあ・遊歩記》


     第68回遊歩

“三浦半島南端シーサイドウォーク”

≪荒々しい岩肌を見せる断崖絶壁を見上げ
  スリルたっぷりの岩礁の道を歩く≫









  遊歩日:   2008年7月6日(第1日曜日) 日帰り
  遊歩先:   剱崎灯台・劔崎海岸
 食べ口楽:   毘沙門茶屋 活魚料理
  参加者:   19名

  <行程>

●新宿{08:00発・JR湘南新宿ライン快速【小田原行】}⇒横浜{08:30着・08:37発 京浜急行本線(快特)【京急久里浜】}⇒京急久里浜{09:12着・09:16発 京浜急行本線(快特)【三崎口】}⇒三浦海岸(09:25着・バス9:39発)
 ●三浦海岸駅=バス23分⇒剱崎バス停=徒歩15分⇒剱崎灯台⇒劔崎海岸=バス停=バス⇒毘沙門バス停=徒歩⇒毘沙門茶屋(昼食・休憩)=徒歩⇒バス停=バス⇒三崎口駅=京浜急行⇒品川方面へ

 ≪遊歩記≫

 新宿駅集合者と三浦海岸駅で集合する参加者がそれぞれ三浦海岸駅前で、顔を揃えたら、何と地元のまだS,kさんがお見えにならずGuideHelperの方が、三浦海岸駅に来られており、その事情を聞くと何でも三浦海岸駅で、S,kさんとGuideHelperの方と待ち合わせをしているとのことだ。私達はバスの発車時刻のこともあり、そのGuideHelperの方を残してバスに乗り込む。バスが発車して間もなく携電のベルが鳴り、GuideHelperの方からの連絡で、私達がバスに乗り込み間もなくS,kさんと三浦海岸駅で会えたから次のバスでお二人で追いかけてくるとのことであった。

 今日は5月の「八ケ岳の麓を歩く天女山遊歩」のときに参加をした鴨居軍団4名の方々も参加され、また、本当に久しぶりのH,Tさんも参加をし、総勢19名の参加者となった。そんな大勢の方でバスの車中も実に賑やかだ。やがてバスは劔崎バス停に到着をしNavigatorのN,Mさんを先頭に各、班別に分かれ先ずは劔崎灯台を目指しイザ、出発だ。

 毎年7月の第1日曜日は、海岸線を歩く計画を立てており、去年は確か「逗子海岸と披露山」の遊歩であった。今回、この東京湾に大きく迫り出した三浦半島は、劔崎をはじめとする南端の海岸沿いには荒波によって削られた断崖絶壁や波が白く泡立つ岩礁地帯が連なり、三浦半島を代表する景勝地となっているところを三浦半島南端シーサイドウォークとばかりに潮風を浴びながらのんびりと歩く計画だ。

 畑地の農道を歩いてたら空にはのんびりとトンビがヒョロ、ヒョロと輪を描き鳴いている。この三浦半島では最近は名物だった「三浦大根」の栽培はしておらずその大根の品種も普通の大根に代わったとのことだ。何でも三浦大根は兎に角その根が深くそれを掘り取るのがじつに重労働なために比較的根の浅井普通の大根に変えたのだそうだ。私はこの三浦海岸には2月の始め開催される「三浦国際シティマラソン・ハーフ(21,095m)マラソン」に過去3回ぐらい出場したことがあるが、その時の参加賞が何と大きな緑の葉がついた三浦大根であった。その味は実に甘く奮闘して走っただけに今でもその味は忘れられない懐かしい想い出だ。

 今日は初夏の陽射しが結構きつく歩いていると一升瓶が入ったザックが重く感じ背中がジンワリ汗ばんできた。久しぶりに参加をしたH,Tさんは、最近はすっかりと足が衰えてきて、膝に痛みを感じるとのことである。若いときにはあの北海道の利尻山へ挑戦をしたのだが、今はとてもそんな元気はないとのことだ。そんなH,Tさんと思い出話をしながらのんびりと農道を歩いていたらやがてお目当ての白亜の「劔崎灯台」に到着をした。

 劔崎の名に残る物語
 万治年間(1658〜61)幕府の官材を積んだ船が荒波にのまれ沈没した。村人は海の神である龍神の怒りを鎮めるため、劔を海に投げ入れたところ、波が静まり、沈んだ船も見つかったという。

 それにしても参加者が多くなるとユニークなこともあり、皆さんが揃った白亜の灯台の前で、O,Sさんが「今日は赤と黒のシューズのファッションでまとめてみました。」とばかりに自分の靴を眺めながら話すではないか。一部の方は既に新宿からの電車の中で気がついていたのだが、こうしてご本人から改めて紹介されて皆さん、それを見て大笑いになってしまった。何でも家を出るときに結構慌てていたためにろくに確かめもせずに厳寒にあった登山靴をそのまま履いてきたのだそうである。その登山靴は赤い色と黒色との二足が並べてあったので、何気なくそれぞれの左右の赤と黒の登山靴を履いてきてしまったとのことだ。 (^_^)

 三浦海岸駅でのS,Kさんの遅刻と言いこれまた、O,Sさんの色違いの靴と言いハプニングは、起こる物である。

 ジャージャージャン。そんな人のことを言っている私自身にこれから大変なハプニングが起こるとは、神ぞ当に知ることで、誰も知らぬことであろう。 (^^;)

 そんな大笑いをした後、NavigatorのN,Mさんの誘導でこれから海岸沿いを歩き毘沙門茶屋へ行くこととした。急下降の狭い道を海岸縁に歩いて行く。私は今回は山道ではないから軽登山靴でなく普通のランニングシューズを履いてきているが、その選択が少々甘かった。家を出るときに和美に「まだ左足が完全に治っていないのだから登山靴を履きストックは、持っていった方がよいのではないの。」と言われ「ナーに、海岸線は遊歩道になっているから大丈夫だよ。」とその声に耳を傾けなかったことが反省点となった。

 ヌルヌルした岩場をヘッピリ腰で、渡って行くが、ランニングシューズが滑り実に頼りない。それでもそんな岩場を何度となく通過をし、もう少しでその岩場を抜けようとした箇所で、高い段差の岩を降りようとした際に左足がツルッと滑り、その瞬間、左アキレス腱に激痛が走る。「ウーーン、イテーー」と大声が出る。2月に秩父の柴原温泉の浴室で、段差を踏み違えその際に左アキレス腱をかなり痛めてしまいそれからその治療のために数ヶ月を要し、今日ようやくその痛みも軽くなってきたのだが、歩き方は普通に歩けず左足が外に向き変則的な歩き方をしているので、人が見れば直ぐに足が悪いと分かってしまうようなそんなまだ歩き方をしているのだ。

 もう、瞬間、痛みのために頭が真っ白となり、良く目から火が出ると言うが、眼からは良く漫画に描かれている様な星がキラキラと輝いているようだ。歩くことが出来ずしゃがみ第1次の激痛を堪える。5分も休んでいただろうか。激痛も少しは和らいできたので、歩こうとするが、まだ相当に痛みがある。そんな様子にNavigatorのN,Mさんが自分のストックを私に貸してくれた。その借りたストックを突いてみたら、左足をかなり外側に向けて歩いたら何とか歩けたので、ヨチヨチと最後から皆さんの後に着きその海岸縁を離れた。Navigatorの機転によりウォークは中止し、一端バス停に戻り、バスに乗り毘沙門茶屋へ行くこととした。

 それでも歩いていたら痛みもそんなに辛くなく歩けることが出来たので、どうにか皆さんに遅れずに行動が出来たのでホッとする。やがてバス停に着きバスに乗り込み運転手に毘沙門茶屋のことを話し、その一番近いバス停を聞きそこで下車する。ところが車道から離れて細い道を歩くのだが、行けども、行けどもそんな毘沙門茶屋などどこにも見えない。真夏並みの強い陽射しが照り付ける炎天下、足はズキズキと痛むしもう、顔で笑って心で泣いてと言いたいが、・・・!!! 顔も心もすっかり泣きべそをかいていた。

 そんな辛さについつい、和美に「オーイ、毘沙門茶屋は、まだなのか。」と声を荒げてしまった。もう、和美も必死で探しているのだが、毘沙門天様が、怒ってしまったのか。お目当ての毘沙門茶屋はどこにも見えない。携電での連絡で、遅れて後から来ているS,KさんとGuideHelperのお二人は既に毘沙門茶屋へ到着をしているとのことだ。山での遭難ならず畑地での遭難となってしまった。それでもあっちへ行ったりこっちへ来たりしながらやっと、お目当ての毘沙門茶屋が見つかり、皆さんも暑さとダラダラと歩いたために疲れたみえて、早足で「ビールだ。毘沙門様ーーー」とばかりに歩を進める。私はその後をペタコン、ペタコンと歩いてやっと、毘沙門茶屋の玄関に到着をした。

 私が負傷したために計画を大幅に変更し、この「毘沙門茶屋」で昼食をゆっくりと採り、その後はバスに乗り三崎口駅まで行きそこで解散をすることとした。一同、席に着き冷えたビールで先ずは乾杯だ。「ゴクゴクゴク、ウーーン、ウンメイ」もう、喉がすっかりと渇ききっていたので、この冷えたビールが実に美味い。一気にグラスのビールを飲んでしまった。お刺身もさすがは海沿いだけに新鮮で美味い。そしてお店の方にお断りをして、背中に背負ってきた可愛い「澤之井」、「司牡丹、「浦がすみ」等々の銘酒を皆さんにお注ぎする。皆さん、暑さのために結構バテているようで、歩くのは中止となったから、すっかりと落ち着いてそんな銘酒を気持ちよく飲んでいる。

 そんな至福のひと時を過ごした後、その「毘沙門茶屋」に別れを告げほろ酔い気分で歩いて行く。その途中にある急坂は痛めた足には堪えどうにかやっと昇りバス停にたどり着いた。そしてバスに乗り三崎口駅へ到着し、ここで解散となり皆さんと別れて和美とS,Mさんの3人で、品川方面へ向かった。途中のホームの階段では、もう、左足がビン、ビンと痛み前向きでは降りられず後ろ向きになって階段の手すりにつかまり一歩、一歩降りるような情けない格好だ。

 そしてやっとの思いで帰宅し、その夜は氷で患足を冷やし、どうにか眠りに着いた。明けて7日は午前中から患者さんが多かったので、痛みを堪えながら正常心にて鍼治療に専念した。そして翌日の8日に近所にある整形外科へマア、湿布でも貰おうかと来院し、その負傷の経過を告げて、診察をドクターにして貰った。そうすると「これは完全にアキレス腱が切れていますね。」とドクターが言うではないか。私は内心「このヤブ医者が何を言っているのやら。」と「先生、アキレス腱が切れていたら歩くことが出来ないでしょう。私は三浦海岸からちゃんと歩いて帰宅したのですよ。」とそのドクターに返答をしたら「それは少々甘い考えですね。アキレス腱が切れていても足関節は、他の筋が代用して歩くことは出来ますよ。それにしても良くこんな状態で歩くことが出来ましたね。普通は痛みでもう、歩くことなど出来ないはずですがね。」とドクターにあきれられたりし、やんわりと宥められてしまった。

 それからそのドクターの紹介で、杏林大学病院の整形外科へ行き、診察をして貰った。その結果は、やはり、完全に左アキレス腱が断裂をしており、それもかなり汚く断裂しているとのことであった。そのドクターの説明によると「何しろ杏林大学では、8月いっぱいまで満床のため入院をすることが出来ないから関連のある調布病院を紹介するので、そこで手術をして貰ってください。」とあっさりと転院を余儀なくされてしまった。

 それからその調布病院へ行き診察を受け、7月11日にアキレス腱の手術をしたのだが、その執刀医から「以前にもアキレス腱を切っていませんか。何しろアキレス腱が相当に短縮をしているために縫合が中々困難で、やっと短縮したアキレス腱を伸ばして縫っておきました。それに伴い皮膚もかなり引っ張って縫い合わせてあるから、そのため血液循環が悪いので、当初5日もすれば退院をして良いと言いましたが、経過観察をするために2週間ほど入院をしてください。」と言われてしまった。

 そんなドクターの説明で、思い起こせば2月に秩父の柴原温泉の浴室で段差を踏み違えて、アキレス腱を痛めたのは、腓腹筋の打撲のためにアキレス腱が痛かったのでなく、既にアキレス腱の一部断裂だったことに気がつき納得した。道理で湿布をしたり自分で治療をしても中々アキレス腱が一部切れていたのでは、治らないはずだと妙に感心してしまった。

 それからは皆さんも良くご存知の如く、この調布病院で、院内感染による緑膿菌感染症、そのためにアキレス腱の皮膚が緑膿菌による広い範囲の皮膚欠損。そして皮膚再生不能のために杏林大学にて大殿筋の皮膚を取り、植皮手術をした。こうして7月9日に調布病院に入院をし、杏林大学形成外科を10月4日に退院するまで約、3ヶ月を要する我が人生最大の窮地に見舞われてしまった。

 そんなアクシデントが重なった「三浦半島南端シーサイド遊歩」であった。 (;_;)






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