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GoldRiver SummerHoliday2011


北海道花の旅紀行
雌阿寒岳・釧路湿源・サロマ湖
ワツケ原生花園







    





    





 旅行日:   2011年7月13日(水)〜14日(木)〜15日(金)〜16日(土) 3泊4日
 旅行先:   北海道「阿寒湖・雌阿寒岳登山・釧路湿源・霧多布湿原・霧多布岬・知床峠
        オシン・コシンの滝・サロマ湖・ワッカ湿原・網走湖」
 天 候:   13日(水) 薄曇り 14日(木) 雨 15日(金) 小雨の築盛 16日(土) 晴れ
 Member:   金川 勝夫 和美

 咲いていた花々:  雌阿寒岳の花⇒ メアカンフスマ・コマクサ・シモツケソウ・メアカンキンバイ
                  ギンリョウソウ・ゴゼンタチバナ・エゾイソツツジ・ウツボ草
          湿原及び原生花園の花⇒ シャクナゲ・アヤメ・スカシユリ・エゾカンゾウ・ハマナス
                      コウリンタンポポ・エゾノシシウド・ヤマラッキョウ
                      ラベンダー・カワラナデシコ
 出会った動物達: エゾジカ・ヒグマ・タンチョウ・キタキツネ・トウキョウトガリネズミ


 7月13日(水)

 《行 程》
 吉祥寺駅(8:20発)=Limousine Bus⇒羽田空港(9:25着・空港内見学・airdo11:35発)=airplane⇒女満別空港(13:25着・レンタカージャパレン(14:10発)=Rent-a-car⇒阿寒湖駐車場(15:30着・16:05発)〜阿寒湖遊覧船〜阿寒湖駐車場(17:40)⇒オントネ温泉「景福」(16:00着) 宿泊 (-.-)Zzz

 ≪旅紀行≫

  AirdoとANNの共同運行のの飛行機は、羽田空港を11時35分に離陸し、無事女満別空港へ13時25分に着陸した。途中飛行機の窓から外を見ていた和美が、仙台付近の海岸線が、無残にも破壊されている様子が、地上高度1万メートルからでも見えたとのことであった。お天気はどんよりとした薄曇りで、気温22度とヒンヤリとして半袖では肌寒さを感じるぐらいだ。実に2007年7月16日羊蹄山登山以来、4年ぶりに訪れた北の大地北海道である。このところ東京は、酷暑の日が続きその暑さで身体が悲鳴を上げていただけに涼しい北海道へ例え4日間だけでも滞在出来る喜びに気分は高揚し、これからの旅路に思いを馳せる。先ずはレンタカージャパレンへ行きRent-a-carの手続きを済ませ一路、阿寒湖目指し北の大地のどこまでも真っ直ぐ続く道路を和美の運転で、快適に走り行く。このRent-a-carは、トヨタのビッツで、乗り心地も良く燃費が非常に良いのでガソリン代が多いに助かる。今回はDigital audio Playerのプレクストークポケットにお気に入りの数々の歌を収録しそれを持参して来たので、早速、「石原裕次郎」の歌を流しながらDrive旅行のstart、let'sgoだ。  (^^)

 それにしても女満別空港周辺は、北海道でも道東に位置しており、繁華な街としては、網走市ぐらいで、ほとんど人家も少なくそれだけに走る車にも余りお目にかからず広い車道をほぼ独占状態で走れるのが、これまた、北海道は、「デッカイドウ」たる所以だろう。そんな空いている道路を1時間20分も走っただろうか。やがて阿寒湖々畔駐車場へ到着した。そして遊覧船に乗りマリモが生育する阿寒湖を観光見物する。吹く風がとても冷たくとても甲板には行けないので、そこで船室に入り窓から阿寒湖を眺めることとした。

 ≪阿寒湖・参考資料≫

   面積    13.28 km2
  周囲長    30 km
 最大水深    45.0 m
 平均水深    17.8 m
  貯水量    0.249 km3
水面の標高    420 m
成因カルデラ湖
   淡水・   汽水淡水
 湖沼型富栄養湖
  透明度    5.0 m

 阿寒湖(あかんこ)は北海道東部、釧路市(旧阿寒郡阿寒町)にある湖である。全域が阿寒国立公園に含まれ、道東を代表する観光地となっている。北海道で5番目に大きい淡水湖。
特別天然記念物のマリモや、ベニザケの湖沼残留型(陸封型)であるヒメマスが生息する。冬は全面結氷し、ワカサギ釣り、スケート、スノーモービルなどのウィンタースポーツが盛んで、阿寒湖氷上フェスティバル・冬華火などのイベントも開催される。周囲はエゾマツ・トドマツなどの亜高山帯針葉樹林、および広葉樹を交えた針広混交林の深い森に覆われている。2005年11月、ラムサール条約登録湿地となった。

 地理
湖岸:東岸側に雄阿寒岳がそびえる。島?: 大島、小島、チュウルイ島、ヤイタイ島の4つ。チュウルイ島にマリモ展示観察センターがある。流入河川?: イベシベツ川、キネタンベツ川、チュウルイ川、ポンチュウルイ川、尻駒別川など
流出河川?: 阿寒川

気候
年平均気温はわずか3.7度と非常に寒冷で、1月と2月の平均最低気温は-17度を下回る。

歴史
生成過程
古阿寒湖はカルデラ湖として誕生し、いったんは外輪山である雌阿寒岳の噴火などによって埋め立てられたが、今から1万年程前に雄阿寒岳(中央火口丘にあたる)の噴火活動によって堰止湖がつくられた。しかし雄阿寒岳は成長を続け湖面を埋めてしまい、古阿寒湖は分断され、現在の阿寒湖、そして東にあるペンケトー、パンケトーが誕生した。なお湖南方向、約8kmの地点に山頂がある雌阿寒岳は現在も活動中の活火山であり、2006年3月21日には小規模な噴火を起こした。
 伝説
 火口から噴煙を上げ、火山活動の影響で草木が生えない雌阿寒岳の姿を見たアイヌ民族は、「山同士の争いに巻き込まれて槍で突かれ、傷口から膿を流している」と解釈し、さまざまな伝説を造り上げてきた。以下は、その例である。

雄阿寒岳と雌阿寒岳は夫婦の山だったが、雄阿寒岳は留辺蘂の奥にあるポンヌプリ(小さい山)を妾として囲っていた。それを知った魔の神・ニッネカムイが「山のくせに妾を持つのは生意気だ」と、雄阿寒はおろか罪科の無い雌阿寒まで槍で突き刺した。雌阿寒の火口は、その傷跡だという。
大雪山系のオプタテシケ山と雌阿寒岳は夫婦山だった。ところが喧嘩別れして、雌阿寒は実家に帰ってしまった。いつか恨みを晴らしてやろうと機会を伺う雌阿寒は、ある時ついに遠くのオプタテシケ目掛けて槍を投げつけた。それを見た十勝のヌプカウシ山が驚いて止めようとして、片方の耳を削られた。騒ぎを知ったオプタテシケは槍を投げ返して雌阿寒に命中させたので、今でも雌阿寒は傷から膿を流しているのだ。なお、槍を止めようと立ち上がったヌプカウシの居場所に水が溜まったのが然別湖である。

 右東岸上方には、雌阿寒岳と対をなす、雄阿寒岳が雄姿を見せている。水面は青くまさに神秘な山の湖だ。それだけに独特なマリモが繁殖しこの阿寒湖のstatus symbolとして、多くの人々に愛されてきたのであろう。そのマリモをチュウルイ島に立ち寄り、マリモ展示観察Centerで、その特別天然記念物のマリモを観察する。大きなマリモは何と500年を経て今日の大きさに作られてきたとのことだ。このマリモは観光オフシーズンの11月から3月の間は、古巣の生育地である阿寒湖に戻されまた、観光シーズンになると観察Centerへ移住され観光客の目を楽しませるとのこと。マリモチャンもしっかりと働いているのであった。そんなマリモに感心し、また、遊覧船に乗りいくつかの阿寒湖の名所を巡り、遊覧船は哀愁あふれるマリモの歌をかけながら桟橋に戻ってきた。そして今夜のお宿オントネ温泉「景福」へ車を走らせる。

 民宿「景福」の部屋に入り、荷物を整理していたら、やがて午後6時の夕食Thymeになったので、畳敷の食事処へ行く。既に先客が8名座をなし、何れも高齢者で、そのうち6名が第2の人生を楽しもうと夫婦連れでのんびりと北海道熟年旅行を楽しんでいるようだ。そのうちの4名は、今日早朝からかなりの時間をかけて、雌阿寒岳登山にChallengeしたとのこと。食卓に並べられたお料理は、豪華なものは無いが、民宿の奥さんの素朴な味がする手作り料理に箸を付け地酒「北の勝つ」を飲みながら隣席のご夫婦と話を交わす。そのご夫婦は何でもミニキャンピングカーで、北海道の各地を巡っており、宿泊は駐車場でそのミニキャンピングカーで寝泊まりしており、今日は特別に奮発して、雌阿寒岳登山のためにこの民宿へ泊まっているとのこと。そんな話を聞き、年を経てもこんな活動的な楽しみ方があることを知ったのであった。そしてビールと地酒で酔い気持となり、部屋に戻り一休みしてから、お楽しみの温泉に入る。内風呂は檜造りの浴槽で、無色透明な掛け流しの温泉が浴槽から滔々と溢れ出ていた。そんな内風呂に湯ったりと入った後、今度は露天風呂に行くと何故か白濁した温泉で、そんな広い露天風呂を独り占めにして、湯ったりと入浴していたら、ジャジャジャーーン、何と大粒の雨が降ってきたではないか。「ウーーン、ヤベ・・・!!!イ」明日は雌阿寒岳登山なのにこの雨が明日には止んでいて欲しいと願い部屋に戻り、雨音を聞きながら眠りに着いた。

 7月14日(木)

 《行 程》
 景福(7:00発)⇒雌阿寒岳登山口(7:10)⇒一合目(7:22)⇒二合目(7:38)=三合目(7:47)⇒四合目(8:10)⇒五合目(9:10・小休止)⇒六合目(8:43)⇒七合目(8:55)⇒八合目(9:07)⇒九合目(9:25)⇒雌阿寒岳山頂(1499m・9:40)=オンネトー登山コース⇒八合目⇒五合目⇒二合目⇒オンネトー登山口(11:50)=オンネトーハイキングコース⇒景福(13:07着・入浴・昼食)=Rent-a-car⇒ホテルタイトー(15:30) 宿泊 (-.-)Zzz

 ≪旅紀行≫

 早朝4時に目を覚まし、急いで窓を開けてみるとジャーーン、イヤー、大粒の雨が、激しく降っているではないか。予定では5時に民宿を出発し、雌阿寒岳登山にAttackすることになっていたが、いくら何でもこの大粒の雨では、機先をそがれてしまい出発を2時間延ばし7時に出発することとした。その間、雨が止んでくれることをただただ祈り、洗顔をし朝食、昼食とお弁当にして頂いたので、そのオニギリを食べる。そしてしっかりと山支度をし雨具を着て待機する。しかしながら、雨は大分小止みになっているものの、依然として雨は間断なく降っている。エーイままよとばかり、そんな雨の中を外に飛び出し、「エイエイオー、イザ行かん。雌阿寒岳目指し、登山開始だ。」とお互い活を入れ雨の中を歩き出す。やがて雌阿寒岳登山口に到り、ここから雨中雌阿寒岳の登山startだ。

 ≪雌阿寒岳・参考資料≫

 《雌阿寒岳(標高1,499m)》
 国土地理院による正式名称は雌阿寒岳だが、深田久弥の百名山をはじめ一般に阿寒岳というと、この雌阿寒岳を指すことが多い。
 阿寒の名を冠する山は他に二座あり、雌阿寒岳の近くに阿寒富士(1,476m)、少し離れて雄阿寒岳(1,371m)がある。何れも火山である。雄阿寒岳と阿寒富士は今のところ静かだが、雌阿寒岳は現在もさかんに活動している。登山家の深田久弥が訪れた1959年や、最近では1998年に小規模な噴火を起こし、周辺では降灰が観測され、登山の禁止と解除が繰り返されている。2006年3月21日に小規模噴火を起こした。

 登山道はオンネトー湖畔からのものと雌阿寒温泉からのもの、他に阿寒湖畔からのものなど数本があるが雌阿寒温泉とオンネトーからのものがよく利用される。両コースの場合、山頂までは夏場の標準的な登山の場合で3時間程度。標高差は約800m程度。北海道の山の中でも比較的登山道の整備もよく、コースからの眺望も良好で家族連れや初心者にも上りやすい山である。ただし活火山のため登山が制限される場合があるのと夏場でも悪天候に注意は必要である。頂上には1972年に落雷のため登山中に死亡した小学生を悼む石碑が建っている。

周辺の地理
 阿寒周辺をはじめ周辺にはこれらの火山から流れ出た溶岩が周辺の川を堰き止めて作った湖が点在していて、マリモで有名な阿寒湖は雄阿寒岳の麓にあるが、多数の遊覧船が湖面を埋め、湖畔の温泉街と共に『観光地化』されている。 雄阿寒岳周辺にはペンケトーとパンケトーという湖もあり、アクセスの悪さから観光開発がされず原始的な雰囲気を残している。雌阿寒岳の麓には静かな原生林に囲まれた雌阿寒温泉(野中温泉)と、かつて秘湖と呼ばれたオンネトーがある。

 阿寒周辺は過去に巨大カルデラ噴火があったと考えられ、その結果、阿寒湖が形成されたとも言われているが、まだ詳細は分かっていない。噴火活動は、主にポンマチネシリ火口及び中マチネシリ火口で行われていて、しばしば噴火が見られるなど活発な活動が知られているが、雌阿寒岳が見える範囲に住民が入植した1900年代初頭以前の活動は知られていない。火山の周辺は無人地帯で集落等は存在せず国道と道道、僅かな宿泊施設が点在するのみであり、かなり大規模な噴火が生じない限り、直接的な被害は生じないものと考えられている。有史以降の噴火は、水蒸気爆発〜マグマ水蒸気爆発による噴火である。

 登山口から直ぐに薄暗い鬱蒼としたアカエゾマツの樹林に入る。樹林内は深閑としていて、地表はアカエゾマツの根が張り、その上を苔が繁茂している。登山道は結構傾斜がきつくお負けに雨が降っており、雨具のズボンがピタリとしていて、足が思うように挙がらない。一合目を通過し、二合目迄来るともうハイマツが出現しはじめ、周囲が明るくなってくる。大きなハイマツがトンネルを作り、三合目まで来るとそのハイマツが本来の高郷なり、高山の雰囲気を醸しだす。山腹を大きくえぐった澤状地形を越すとそこが4合目だ。雨は相変わらず間断なく降っており、視界はガスに覆われ展望は効かない。そんな中、下山してきたふたり連れのハイカーと「こんにちは」と挨拶を交わす。更に歩を進め歩き行く。急斜面をジクザクを切手進むとやがて開けた五合目に到達した。ここで最初の小休止を採り、給水、飴玉をを口に入れ暫し休む。身体は汗と雨具を通した雨で、もうびしょ濡れになっている。

 そして小休止をした後、歩を進めて行くと登山道は、露岩帯となり、遮る物も無く晴れていれば、さぞかし四顧の展望は抜群だろうが、相変わらずガスで視界は無く実に残念だ。雌阿寒岳(ホンマチネシリ)は、この急斜面の露岩帯を進み行けば山頂に達するが、これから本格的な急登となり、ガンバラネバナラヌ正念場を迎えるところだ。そして胸突き八丁の八合目を超えると9合目の砂礫帯となり、傾斜も緩やかとなる。火口を除くと赤沼、青沼がガスの中ボッヤッと見える。そして更に砂礫帯を進むと出ました。9時40分、雌阿寒岳山頂(1499m)へ・・・!!!   ヤッホー  (^o^)
その山頂で記念写真をお互いデジカメでパチリ  (^_^)

 そして感激の山頂にいても視界は全くないので、今度は踵を返しオンネトー登山コースを採り下山開始となる。砂礫帯をダブルストックで、グングンと急下降して行く。その眼前には阿寒富士がガスに霞雄姿を見せまた、噴煙が長くたなびいており、当に活火山という光景だ。その路傍には、「アラ、ウーーン、雨の中を良く来てくれたわね。頑張って下山してね。」と雌阿寒岳の可憐なる花々、メアカンフスマ、メアカンキンバイが、私達をいかにも歓迎するが如く優しく微笑む。そんな砂礫帯もやがて終わり五合目を過ぎ樹林帯に入る。ここら辺りまで来ると私の右アキレス腱が、ついに悲鳴を上げてきて、下る度にアキレス腱が進展されそのため痛みが出て来てしまった。また、樹林のために根が張り、かなり歩きにくくお負けに一団と雨が強く降ってきた。ここが艱難辛苦、粘り処だ。 (;_;)

 激しい雨の中、五合目から四合目までが、実に長く感じモウ、ヨロヨロしながら下ってきた。そして一合目を過ぎ長い階段を下るとハーイ、出ました。オンネトー登山口だ。ここはオンネトーのキャンプ場にもなっており、トイレも敷設されそのトイレを済ませ、ここから更に阿寒湖とは又、違った雰囲気の神秘の湖、細長く青々と澄んだ水を満々とたたえるオンネトーの湖畔を辿り、エゾアカマツが繁るハイキングコースを民宿「景福」目指し、歩く。雨はやっと小降りとなりそんなに気にならなくなってきた。しかし、ここら辺りはヒグマでも出て来そうな鬱蒼とした樹林帯で、「チーン、チーン、チーン」と和美のザックに付けた熊よけの鈴が静寂な樹林に響く。モウ、身体はヨレヨレで、ただ機械的に足が出ているだけだ。内心「まだ歩くのかよ。」と毒づきながら歩いていたら、和美が「ハーイ、着きました。」と声がかかり、ヤレヤレとホッとする。考えてみたら何と小休止をとったのは、登りの五合目だけで、後は山頂での記念撮影のデジカメのシャッターを押すわずかな時間だけだ。それ以外は歩き放しの5時間45分の雨中行軍で会った。

 民宿「景福」で、一浴を済ませ、着替をしサッパリとしたところで、昼食を採り、車を今夜のお宿ほてるタイトーへ向け走らせた。そのホテルタイトーに着きph10の茶褐色の掛け流し温泉に湯ったりと浸かる。「ウーーン、身体の疲れがほぐれてきそうな実にヨカ、温泉だ。」そんな温泉に入り、まだ夕食には間があったので、レストランで大ジョッキの生ビールをグビグビグビと飲む。〜コリャア、たまりません。。生ビールの酵母が五臓六腑を駆け巡り、乾ききった砂漠に水を注ぐが如く、疲れた身体の細胞にビール酵母が活を入れている。〜 (^_^)

 そして良い気持になり、部屋のベッドで寝転んでいるとやがて夕食Thymeとなり、先ほどのレストランに行き、今度は地酒とまた生ビールを飲みご馳走に箸を付け至福のひと時を満喫する。そんな夕食タイムを採り、明日は早朝5時にガイドの案内で釧路湿源の散策をするため、寝る前にまた温泉にも入らず眠りに着くこととした。

 7月15日(金)

 《行 程》
 ホテルタイトー(5:00発)〜〜ガイド付き釧路湿源散策〜⇒ホテルタイトー(9:10〜10:00・朝食)=Rent-a-car⇒厚岸・霧多布湿原Center(11:35着〜12:20発)=Rent-a-car⇒霧多布岬(13:10)⇒羅臼・ホテル峰の湯(16:20着)
 宿泊 (-.-)Zzz 

 ≪旅紀行≫

 早朝5時、ホテルタイトーの厳寒に私達と同じ東京の目黒から来たという年輩のご夫婦連れ4名で、これから湿原ガイドの案内で、釧路湿源の特別保護地区の散策に出かける。今朝の天気は小雨が降りそのため雨具を着て出かけることにした。その湿原地帯までは、ガイドの運転でマイクロバスに乗車して行くのだ。車中ガイドの説明によるとホテルタイトーが建っている所とこの辺一帯が、鶴居村で人の数より牛の方が多く人口わずか2800名であるとのこと。主な産業としては、やはり酪農が一番で、次いで農業としては、ジャガイモ、トウモロコシ、野菜類の栽培が主な仕事で、一軒当たりの収入も多く、行政の設備も整っており、生活はかなり豊とのこと。そして更にタンチョウについて説明をする。このタンチョウは、偶数で住んでおり、その卵は、必ず2個生みそれを孵化し生育するため2、4の偶数となり、そのTerritoryは、周囲約、4k〜5mの範囲で、冬などの餌の無い時期は、その範囲に住んでいる農家が責任を持って餌をやったりして保護している。また、タンチョウという呼称は、鶴という意味であり、だからタンチョウ鶴と言うと鶴鶴となってしまいそれは誤りである。そんな説明に目から鱗が落ちる思いの知識の習得であった。

ガイド= 「ハイ、右前方遠くをご覧ください。タンチョウが対を成しおりますね。このタンチョウの寿命は約、40年      ぐらいだとされております。」
 そんなガイドの説明に我ら4名「ホー、そうですか。」と妙に感心し頷く。更に車を進めて行くと「ハイ、左前方にキタキツネがいますよ。そのかなり遠くにエゾジカが二匹草を食んでいますよ。」とガイドが指をさす。当に未開拓の湿原ならではの自然そのものの織りなす光景だ。

そしてマイクロバスは、目的地に到着し、ここで車を降り、往復約、50分間歩いての湿原地帯特別保護地区の散策となる。先ずはガイドが用意したゴム長靴に履き替えガイドを先頭に一列縦隊で朝靄に煙る静寂なる湿原地帯を歩いて行く。
 ≪釧路湿源・参考資料≫

 ≪釧路湿源

  地理
 釧路湿原(くしろしつげん)は、北海道釧路平野に位置する日本最大の湿原である。面積18,290ha。
湿原は釧路市の北側に広がる。湿原の大半は、北海道川上郡標茶町と阿寒郡鶴居村、釧路郡釧路町に属する。湿原の中を釧路川が大きく蛇行しながら流れている。

自然とその保護
 湿原の大部分はヨシ-スゲ湿原であるが、ミズゴケ湿原も一部あり、食虫植物のモウセンゴケやコタヌキモが生育する。また、タンチョウやエゾセンニュウ、ベニマシコなどの多くの鳥類の繁殖地・休息地となっている。特にタンチョウの夏季繁殖地が湿原を含む道東各地に広がっているが、冬には釧路湿原へ戻ってきて越冬する。また、日本最大の淡水魚であるイトウ(サケ科)やキタサンショウウオなどの希少な動物も多く、貴重な自然の残る領域である。
 釧路湿原の自然保護は、1935年(昭和10年)8月27日に「釧路丹頂鶴繁殖地」として2,700haが国の天然記念物に指定されたことに始まる。その後1952年(昭和27年)3月29日に「釧路のタンチョウ及びその繁殖地」として特別天然記念物に指定変更され、面積も2,749haに拡大された。さらに1967年(昭和42年)6月22日に「タンチョウ」を地域を定めない種指定の特別天然記念物に指定変更するとともに、同年7月6日に新たに「釧路湿原」を天然記念物の「天然保護区域」に指定し、その範囲を5,011.4haとした。

 また、1958年(昭和33年)11月1日には、国指定釧路湿原鳥獣保護区(希少鳥獣生息地)に指定されている(面積11,523ha、うち特別保護地区6,962ha)。1980年にラムサール条約登録地に、1987年に湿原周辺を含む約26,861haが国立公園(釧路湿原国立公園)に指定されている。現在の釧路湿原一帯は「釧路湿原国立公園」の特別地域に指定されており、開発は厳しく規制されている。
 かつては湿原を農地化する試みも行われていたが、現在は湿原の開発よりも保全に目が向けられており、湿原内では国土交通省や環境省等により「釧路湿原自然再生プロジェクト」による自然再生事業が行われている。

 湿原の歴史
 1万年前までの氷河期には、地球上の水が氷河として大量に地上に堆積したため海水量が減って海水面が低下し、釧路湿原一帯も完全に陸地化していた。その後気温が上昇して海水面が上昇したが、約6000年前には気候が現在より温暖化し海水面も今より2から3m高くなった。当時、釧路湿原一帯は大きな浅い湾を形成し、気温も現在より平均2℃から3℃高く、現在の東北地方と似た気候であった(湿原周辺に存在する当時の貝塚からはハマグリやシオフキなどの貝殻が見つかっているが、これらは現在は宮城県以南に生息している種である)。

 その後、気温の低下にしたがって海水面も低下し、4,000年前には現在の海岸線が形作られたが、釧路湿原では湾口部に砂洲が発達し内陸部は水はけの悪い沼沢地になった。沼沢地に生い茂ったヨシやスゲが冷涼多湿な気候のもとに泥炭化して湿原が形成され、約3,000年前に現在のような湿原になった(北海道にあるサロベツ原野や霧多布湿原も、同じ経緯で形成された)。

 眺望と探勝
 一般の観光客は、高台にある複数の展望台から眺めるか、遊歩道を歩いたりカヌー等による川下りによって湿原の観察を行うことが出来る。また、JR釧網本線は一部の区間が湿原内を通るため、列車に乗車したまま観察する方法もある。湿原の東端には、「細岡展望台・ビジターズラウンジ」がある。蛇行する釧路川を一望でき、正面に宮島岬やキラコタン岬が望める。展望台の下にはJR釧網本線釧路湿原駅が設けられており、臨時の観光列車である「くしろ湿原ノロッコ号」も停車する。また、JR釧網本線塘路駅付近には「サルボ展望台」、道道1060号沿線には「コッタロ展望台」があり、著名ではないが釧路川の流れと釧路湿原東側を眺めることが出来る。

 西端には、「釧路市湿原展望台」と「温根内ビジターセンター」がある。こちらからも雄大な湿原を一望できるが、湿原内を蛇行する釧路川は視界に入らない。それぞれの施設付近に探勝歩道が整備されており、植物や鳥類などを観察しながら湿原に触れることができる。また、両施設の間(約4km)を、旧鶴居村営軌道の廃線跡を転用した探勝歩道が結んでいる。

 自然再生
 現在、釧路湿原を対象として自然再生推進法に基づく自然再生事業が数ヶ所で行われている。主な事業として、湿原上流部に当たる茅沼地区において直線化された釧路川流路を再蛇行化させ自然環境の復元を図る事業や、達古武地域において森林、湿原、河川、湖沼と連続的につながる生態系の復元を図る事業が行われている。

 ガイドに引率されて歩いているこの地区は、一般の釧路湿源観光地区と違い、ガイドが同行しないと歩くことの出来ない保護地区である。昨日からの雨で細い道は水がたまり、それを避けながら奥へ歩いて行く。行く途中では、ガイドが逐次立ち止まりその周囲の動植物につき説明を行っているが、正直、淡菜房の私は、聞く傍から忘れてしまい誠に困ったものだ。やがて10分も歩くと柵囲いされた特別天然保護区へと歩を進める。そしてここでもガイドが立ち止まり丁寧に説明をする。

 ガイド=  「今日は残念ながらお目にかかりませんが、珍種トウキョウトガリネズミについて、説明しましょう。        毛は鮮やかなビロードのようで、この釧路湿源や霧多布湿原、サロマ湖ワッカ       原生花        園に生息する極めて小さな動物です。」

 ≪トウキョウトガリネズミ・参考資料≫ 

 トウキョウトガリネズミ(東京尖鼠、学名:Sorex minutissimus hawkeri)は、トガリネズミ目トガリネズミ科トガリネズミ属に属する小型のトガリネズミの1亜種である。世界最小の哺乳類の1つとされている。ユーラシア大陸北部に広く分布するチビトガリネズミの亜種である。トウキョウという名前であるものの、日本では北海道に分布する。

分布

北海道のサロベツ原野、幌延町や猿払村、東部の浜中町の火散布沼、標茶町の虹別、標津町、釧路町の入境学、白糠町、根室町、鹿追町などで生息確認されている。

形態

頭胴長約50mm、尾長約30mm、体重約1.5〜2gである。

生態

ササや低木がまばらに生える草原や湿原周辺の草地などに生息する。体が小さいため、約30分おきに採食と休息を繰り返す。コオロギやクモなどの昆虫類を食べる。多摩動物公園の展示飼育においても、昆虫類が与えられている。

和名の由来

胆振管内鵡川町周辺で新種として1906年に発見されたが、発見者であるホーカーが標本ラベルに「エゾ(Yezo)・蝦夷」を「エド(Yedo)・江戸」と誤表記したのが名前の由来となっている。Mukawaの筆記体をInukawa(犬川)と錯誤したものと思われる。

種の保全状態評価

絶滅危惧II類(VU)(環境省レッドリスト)
北海道版レッドリスト 絶滅危急種

日本国内での飼育展示・パートナーシップ協定

霧多布湿原センター (1匹)
多摩動物公園 (2匹)
野生生物総合研究所(札幌市)と多摩動物公園の共同研究で、1999年より北海道嶮暮帰島(けんぼっきとう)で動植物相調査を行うなかで、本種の採食及び繁殖行動などの生態解明の目的で多摩動物公園において展示飼育を始める事となり、2005年7月25日に多摩動物公園に来園した。
トウキョウトガリネズミの生息地のひとつである釧路管内浜中町と展示飼育する多摩動物公園とで自然と野生動植物を守る「パートナーシップ協定」を締結している。動物園側が浜中町の事業紹介や特別展などの園内開催に協力し、浜中町側は動物採集など同園の事業に協力するという共同研究・共同事業の相互協力を行っている。

 そんな珍種「トウキョウトガリネズミ」の説明を受ける。しかし、この珍種を学会等で正式に登録する際にその係官が、「エゾトガリネズミ」を聞き間違えて「エドトガリネズミ」と解釈し更にエドをトウキョウと改めて「トウキョウトガリネズミ」と命名したこのお粗末さは、まるで落語ではないか。そんな珍種の説明をガイドから受けさらにガイドの弁が続く。
 ガイド=「サア、皆さん。これからここの核心部、唯一のviewSpotへご案内しましょう。少し丘陵地を登りますが、     しっかりと足を地面に漬け着いてきてください。」
 そんなガイドの説明を受けやや高台になっている所を登って行くとその上り詰めたところが広く開け、その眼下に釧路川が蛇行してキラキラと光りながら流れている。その釧路川の一帯が、大湿原になっており、まるで絵はがきでも見ているような大spectacleに我ら4人歓声を上げる。そしてまたまた、ガイドがやや自慢そうに説明をし始めた。
 ガイド= 「ここはキラコタン岬と言います。眼下に流れる釧路川には、そのシーズンともなると鮭が群れを成し登      ってきます。それは見事なる長めですよ。」 
      「ヘー、ソウデンカ。ソリャア、見事なモンデッシャロナ。」
      《アリャ、関西弁のオッサンがいたっけカナ。 (^^;)》

 そして更にそこから高台に進むとその長めが又、一団と良くなり、また、ガイドが「ここで去年説明をしていたらヒグマのオヤジが鮭を咥え、さも自慢そうに私達を長めながらこの下を悠々と通りましてね。熊に出会ったときはただただ動かずにジッとしていることですよ。・・・」と本当か、作り話か分かりませんが、得意そうに説明をする。
 一頻りそんなガイドの説明を受けた後、私達は今来た道を戻り、再びマイクロバスに乗りホテルへ戻ることにした。、その途中の牧草地帯では、黒い乳牛の大軍団が、一列縦隊になり、朝の散歩を終え牛舎に帰って行くところに出くわせた。なるほどこの鶴井村は、人間よりモウチャンの方が圧倒的に多いのが頷けた。

 そしてホテルに戻り遅めの朝食を済ませRent-a-carに乗り込む。さてと今度は「霧多布湿原Center」へと向かう。その途中の真っ直ぐ野蒜道路脇は、緑成す森林と広大に続く牧草地帯だ。当に北海道、北の大地の超spectacle、ドデカイドウの自然だ。そんな緑地を進みやがて「霧多布湿原Center」へ到着した。この湿原Centerは、霧多布湿原のことについて、学習する場で、ここに植栽されている数々の植物や生活する動物について説明が成されている。

 ≪霧多布湿原・参考資料≫

 ≪霧多布湿原≫

 霧多布湿原(きりたっぷしつげん)は北海道厚岸郡浜中町にある湿原である。面積は3,168haで、釧路湿原、サロベツ原野に次いで国内3番目の広さである。春(6月)から秋(9月)まで、さまざまな花が咲き湿原を彩り、花の湿原とも呼ばれる。

  概要
 湿原中心部の泥炭で形成された高層湿原部分803haが、1922年(大正11年)10月12日に国の天然記念物「霧多布泥炭形成植物群落」に指定された(保全を目的として指定当時より周辺国有地86haが追加されている)。1993年6月1日に、厚岸湖と別寒辺牛湿原とともに、国指定厚岸・別寒辺牛・霧多布鳥獣保護区(集団飛来地)に指定された(総面積11,271ha、うち特別保護地区7,781ha)。また1993年6月10日にラムサール条約登録湿地にも登録された(範囲は2,504ha)。2001年には北海道遺産に選定された。

 1986年には湿原の環境保護のため地元の有志により民有の湿原を借り上げ自然を保全する活動が開始され、その後NPO法人霧多布湿原トラストが保全活動を活動を行っている。

  位置
 北海道の東部、釧路と根室のほぼ中間の太平洋岸にある。南西から北東に延びる海岸線に沿って長さ約9km、奥行き約3kmに広がる。
 「霧多布」の地名はアイヌ語で「茅を刈るところ」を意味する「キータプ」に由来するが、実際に北海道東部太平洋沿岸に特徴的な海霧の影響を受け、霧の多い土地である。湿原南部の琵琶瀬地区には漁港があり近海の魚介の水揚げや昆布漁を行っている。本来の霧多布の集落は湿原から霧多布大橋を渡った島にあり、浜中町役場や温泉施設もここにあ

る。霧多布岬(島の東端)の沖にある小島(無人島)は、絶滅危惧種エトピリカの生息地である。

 湿原の中心を横断する道(一般道道琵琶瀬茶内停車場線)は湿原保存のため道の下を水が通る構造になっている。この道はMGロード(Marshy Grassland Road)の愛称が付けられ、歩道が整備され、各所に見晴らし場所や記念碑が設けられている。
 西側の高台には琵琶瀬展望台、北側の丘の上には霧多布湿原センターがある。この霧多布湿原センターでは湿原についてわかりやすく解説されており、ここからは双眼鏡などでタンチョウを観察できる。

  花の湿原
 花の湿原と呼ばれるのは釧路湿原などに比べて花の種類が多く花の密度が高いためである。原生花園が広がり、春から秋にかけ多様な花が咲く。特に初夏を告げる白いワタスゲ、夏の訪れと共に咲く黄色いエゾカンゾウなどは湿原一面を彩る。夏には数組のタンチョウが繁殖を行っており、ツル以外にもさまざまな鳥類が観察できる。また天然記念物に指定されている湿原のコア部分(約800ha)に立ち入る際には文化庁長官の許可が必要であるが、コア部外の湿原内には観察のための木道や展望台が整備されている。

湿原を彩る花は以下のとおりである(季節順)。

ミズバショウ、白(6月)
クロユリ、濃紫(6月)
ワタスゲ、白い綿毛は実(6〜7月)
ヒメオウギアヤメ、青紫(7月)
エゾカンゾウ、黄色(7月)
ノハナショウブ、赤紫(7月)
ハマナス、赤(7月)
エゾリンドウ、青(9月)

湿原の成り立ち
 約6000年前の縄文時代は世界的に今よりも気候が温暖で、極地の氷床が大量に溶けて海水面が上昇したことが知られている。当時は霧多布湿原も釧路湿原も陸に大きく入り込んだ湾であった。その後 気候の冷涼化に従って海水面が低下したが、霧多布では海岸部に砂丘があったため内陸側に沼が残った。この沼が水はけの悪い低地となりアシ、スゲ類、ミズゴケなどが繁茂して湿原が形成されていった。

  ナショナル・トラスト運動
 湿原の中心部は天然記念物であるが周辺部は民有地である。1986年、地元の有志を発起人として、美しい花の湿原を後世に残すことを目的に「霧多布湿原ファンクラブ」が発足した。この活動は2000年に特定非営利活動法人である「霧多布湿原トラスト」に受け継がれた。このトラストは民有地の買い上げや、湿原観察のための木道などの整備、自然を大切にする教育・啓蒙などの活動を行っている。これらの活動が評価され、同法人は2007年11月に第3回エコツーリズム大賞を受賞した。

 霧多布湿原Centerで、それなりの湿原についてお勉強し、湿原Centerの下方に広がる湿原の木道を歩きその湿原の中を散策する。しかし、吹く風がとても冷たくこれが真夏とは思えぬほどの気温に今頃は東京では、酷暑で皆さん、ウンザリしていると思うとこの境遇の優越感にチョッピリ満足だ。そしてその湿原Centerを車で移動し、更に雄大に広がる霧多布湿原の中心部に向かい、アヤメ、エゾカンゾウ等々の色々な花々をこの湿原に敷設された木道を鑑賞し歩く。そんな湿原の散策を終え、今度は車を霧多布岬へと走らせる。この霧多布岬へ着くと一団と吹く風が強く寒さで思わず背を丸めてしまう。岬の岩に打ちつける波が、白く泡立ち海の青さに一団と映え、当に石原裕次郎の北の旅人を口ずさんでしまいそうなそんな旅情に胸がキューンとなる。

 そんな霧多布岬とお別れをし、海岸線を走り今夜のお宿羅臼の「ホテル峰の湯」へと空いている道路を快適にDriveだ。延々と長い海岸線を走り、やがて羅臼の町に着き途中道の駅でお土産等の買い物をする。その買い物はほとんどがコンブ類で、それを宅配便で郵送し、やっと長かったDriveも終わり「ホテル峰の湯」に到着した。

 ≪羅臼町・参考資料≫

   ≪羅臼町≫

   面積    397.88km2
  総人口    5,998人
 (住民基本台帳人口、2010年12月31日)
 人口密度    15.1人/km2
 隣接自治体   標津町、斜里町
 町の木     ナナカマド
 町の花     シバザクラ
 町の鳥     オジロワシ

 羅臼町(らうすちょう)は、道東、根室振興局管内の目梨郡にある町。知床半島の南東半を占めており、根室海峡を隔てて国後島と向き合う。町名の由来は、アイヌ語の「ラウシ」(低いところ・獣の骨のあるところ)から。
  地理
 北海道東端部、知床半島の南東半を占め、根室海峡に面している。町域は南西-北東方向に約64kmと細長い。北に連なる知床連山が海まで迫り海食崖を形成している。知床連山に源を発した多くの河川が海に流れ込み、河口部を中心に海岸沿いに集落がある。中心市街は羅臼川河口部、羅臼港の周辺にある。
主要道路は南の標津町から海岸沿いに伸びる国道335号(国後道路)、知床峠(740m)を越えて斜里町へと抜ける国道334号(知床横断道)の2本。険しい地形が多く、道路には多くのトンネルを有する。

 フロントで宿泊名簿の記入を済ませ部屋にく。早速温泉へとばかりにタオルを肩にかけ浴室へ向かう。今回の宿泊先、3箇所ではそれぞれ特徴のある温泉に入ることが出来た。この「峰の湯」の温泉は、無色透明で余りぬめりも無くサッパリとした感じでやや肌にきつく感じる。それもそのはずマア、温度がかなり高く少し湯に入っていると肌がピリピリとしてくるようだ。そんな熱い温泉に入り、お待ちかねの夕食Thyme。今日が最後となる宿での食事。さてとどんな者が食卓に鎮座しているかと見回してみる。色々の刺身類、茶碗蒸し、ホタテ貝の焼き物、イクラ、エビの天麩羅、タラバガニ等々の海の幸が彩りを添えている。それらを生ビールと共に箸を付け食べて行く。しかし、雨の雌阿寒岳登山と長いDriveのやはり、疲労が出て来たようで、余り食欲も無く正直、見た目は良いのだが、料理類は既に冷たくタラバガニなどは、新鮮さを欠き味も悪く美味しくなかった。酒量も余り進まず早々に食事処を退散し、部屋に戻り一休みしてから寝る前に風呂に入り、爆睡モードに入った。 (-.-)Zzz

 7月16日(土)

 《行 程》
 ホテル峰の湯(8:45発)⇒知床峠(9:00)⇒オシン・コシンの滝(9:45)⇒サロマ湖・ワッカネイチャーCenter(ワツケ湿原散策11:58〜13:22)⇒松寿司(13:35着〜14:22発・昼食)⇒網走湖(16:30)⇒女満別空港(Air do18:20発)=airplane⇒羽田空港(20:20着・20:40発)=Limousine Bus⇒吉祥寺駅(21:35着)⇒自宅 

 ≪旅紀行≫

 早朝北海道で最後となる朝の温泉入浴をし、朝食を採り、フロントで会計を済ませ車に乗り込みカーナビをセットする。誠に早いもので、4日間の北海道の旅も今日が最終日だ。今日はこの羅臼からサロマ湖ワッカ原生花園ネイチャーCenterまで実に140kの長いDriveとなる。一路、国道344号、知床横断道路を知床峠目指しエンジン音も軽やかに車は走り行く。4日間の中で、今日が一番の良い天気となり、車は徐々に高度を増す知床横断道路をカーブを切りながら走る。その景色も実に素晴らしい。ふと、路傍を見るとエゾジカが、無心に草を食みまるで人間など無視しているような姿に自然の素晴らしさを再認識する。更に高度を増しこの知床横断道路の頂点、「知床峠」に到着した。ここで車から降り、暫しその眺望に見とれる。

 ≪知床峠・参考資料≫

 ≪知床峠≫

 知床峠(しれとことうげ)は北海道目梨郡羅臼町と斜里郡斜里町とを結ぶ国道334号(通称「知床横断道路」)の峠。標高738 m。峠からは間近に聳える羅臼岳や国後島を望むことができ、知床八景の一つとされている。知床連山を越える峠であり、羅臼側と斜里側では天候ががらりと変わっていることが多い。
知床峠は未開通路線を除けば北海道内の国道で唯一冬季閉鎖される区間であり、積雪状況にもよるが例年11月7日15:00から4月末にかけて通行止めとなる。観光上重要なルートであるため、春に除雪が完了して開通する日には例年ニュースで報道される。
北海道の国道峠の中では最も急坂急カーブで構成される峠であるうえ、霧で視界が奪われることも多いため通行には注意を要する。峠には広いパーキングエリアがあり、トイレや石碑が設置されている。売店は無い。盛夏の観光シーズンには観光バスも数多く訪れて大変な混雑をみせる。
眺望に優れた峠であり、しばしば道路脇に停まって景観を楽しむ観光客を見かける。ただしカーブの多い峠道であるため、景色を見たり撮影したりする際には通行の邪魔にならないように停車場所に気を配ることが必要であろう。

見返り峠
知床峠の羅臼側標高650 mの地点は見返り峠と呼ばれている。

 そんな「知床峠」で、澄んだ空気を胸一杯に吸い、ハイポーズとばかりデジカメでパチリと記念撮影をし、再び車に乗り込み ウトロ町へと向かう。左に右にカーブを切りながら下って行くと「いた。いた。熊だ。・・・!!!」と和美が大きな声を出しヒグマを見つけた。ウーーン、この知床横断道路は、当に自然そのものの動物のOasisとしての公園である。知床は世界自然遺産に登録されたが、しっかりと動植物の保護をして貰いたいものだ。そして車は山間部を経てウトロの町に出た。

 ≪ウトロ町・参考資料≫

 ≪宇登呂町(ウトロ町)≫

 ウトロは、北海道オホーツク総合振興局斜里郡斜里町にある地名である。漢字表記は宇登呂。語源はアイヌ語の「ウトゥルチクシ (Uturu-ci-kus-i) 」であり、「その間を-我々が-通る-所」という意味である。斜里市街から国道334号を知床岬方面に約50キロの位置にあり、斜里市街からの所要時間は自動車でおよそ40分程度である。
知床観光船などの遊覧船乗り場があり、温泉街(ウトロ温泉)が広がっている。また、カムイワッカ湯の滝や知床五湖へ行くための道道93号の入口にもなっている。国道沿いのウトロ港東側の海岸は夕日のビューポイントである。町はずれにはチャシコツ岬と呼ばれるチャシ跡があるが、2005年(平成17年)にはこのチャシコツ岬下のトビニタイ文化の遺跡から熊を祀った痕跡が発見され、アイヌ文化成立の経緯を解き明かす為の重要な発見として注目を集めている。

 知床峠を挟んだ羅臼町と共に知床観光の拠点となる場所で、2007年(平成19年)には道の駅うとろ・シリエトクが開設された。知床が世界遺産に登録されたことによる観光収益が期待されているが、同時に観光客の増加による環境破壊も懸念されている。厳冬期には流氷が押し寄せ、地元の観光業者による「流氷ウォーク」のツアーが催行される。また、運がよければオジロワシなどの観察もできる。

 このウトロ町には、以前、7月に羅臼岳・斜里岳登山それと2月の厳冬期に流氷を見るため訪れたことが有り、懐かしい想い出この町を走る。そして観光ポイントである「オシンコシンの滝」へ向かう。このオシンコシンの滝は以前厳冬期に見たときよりも流れる水の量も多く扇状に広がり落下するその名瀑の見事な景観にただただ見とれるばかりだ。

 ≪オシンコシンの滝・参考資料≫

 所在地   北海道斜里町
 落差    80m
 滝幅    30m
 水系    チャラッセナイ川

 オシンコシンの滝(オシンコシンのたき)とは、北海道斜里郡斜里町のチャラッセナイ川の河口付近にある滝。源流は、知床半島の中央部に位置する遠音別岳西側斜面である。日本の滝百選にも選ばれた。名前の由来はアイヌ語で「川下にエゾマツが群生するところ」を意味する「オ・シュンク・ウシ」から転じた。 ちなみに滝がかかる川「チャラッセナイ」の由来は、同じくアイヌ語で「チャラチャラ流れ下る川」から。
 落差があることもさることながら、岩盤の節理面に大きく2つに広がって流れる滝を正面から間近で見ることができるロケーションは相乗効果を生み、訪れる者に感動を与える。

 そんな大迫力の名瀑、「オシンコシンの滝」を見て、車はサロマ湖へ向かい、長い知床の海岸線を走る。途中の路傍には、エゾスカシユリやエゾカンゾウの花が綺麗に咲いていた。見上げれば空にはポッカリと雲が浮かび両側の長く続く緑成す原始林、これぞ北の大地、魅力あふれる風景だ。そして長いDriveにいい加減お尻がいたくなってきた頃、やっと着きました。「サロマ湖・ワッカ原生花園nature Center」へ・・・!!!  (^^)

 ≪サロマ湖・参考資料≫

 サロマ湖(サロマこ)は、北海道オホーツク海岸の北見市、常呂郡佐呂間町、紋別郡湧別町にまたがる湖。

 面積151.82[1][2] km2
 周囲長87 km
 最大水深19.6 m
 平均水深8.7 m
 貯水量1.3 km3
 水面の標高0 m
 成因海跡湖
 淡水・汽水汽水
 湖沼型富栄養湖
 透明度9.4 m

  概要
 表記については、佐呂間湖、猿澗湖など複数なされるが、いずれも同じ湖をさす。面積は約152km2で、北海道内で最も大きな湖であり、琵琶湖、霞ヶ浦に次いで日本で3番目に大きく、汽水湖では日本最大である。
 湖名の由来は、アイヌ語の「サル・オマ・ベツ」(ヨシが生える川)より。これは本来、流入河川の一つである佐呂間別川を指した地名であり。現在のサロマ湖のほうはただトー(湖)と呼ばれていた。後に「サルオマベツ川が流れ込む湖」の意味で「サロマ湖」になったものと思われる。

  地理
 北海道北東部に位置し、網走国定公園に含まれる。湖は東西に長い。湖岸線を見る限り1つの大きな湖盆に見えるが、湖底地形を見ると南岸東寄りから突き出たキムアネップ岬付近に浅い部分があり、これにより東西二つの湖盆に分けることができる。西の大きな湖盆には芭露川、計呂地川などが流れ込み、新湖口から流れ出る。東の小さい方の湖盆に流れ込む佐呂間別川は流入河川の中ではもっとも大きな川であり、河口にできた三角州上には佐呂間町浜佐呂間の市街が広がる。海と湖を仕切る砂嘴は長さ25kmにも及び、貴重な植物の宝庫である原生花園となっている。特に湖の東側に位置するワッカ原生花園は北海道遺産となっている。湖岸各地に景勝地があり、特に南東側の北見市常呂町栄浦は、湖に落ちる夕日の美しいことで知られる。
第1湖口、第2湖口には、流氷の進入を妨げるための、アイスブームが設置されている。

 流入河川?: 佐呂間別川、芭露川、テイネ川、志撫子川、計呂地川、床丹川、オンネトカロチ川、トップウシベツ川、 浪速川、岩見川、アネップナイ川、幌岩五線沢の川、ライトコロ川
 流出河川?: なし(海へ直接流出)

 歴史
 オホーツク海の湾入部が堆砂によって海と切り離された海跡湖。豊富な海産物を求めて古くから集落ができており、特に常呂町栄浦では続縄文時代からオホーツク文化、アイヌ文化と続く建物跡やそれに伴う遺物が狭い範囲から多量に発掘され、考古学的に貴重。東京大学文学部の施設がある。
かつては恒久的な湖口を持たず、春になると砂州東端の鐺沸(とうふつ)近くに湖口が開き、秋になると漂砂で閉塞していた。湖水位の上昇は沿岸に湿地帯を多く生じさせ、増水時には氾濫被害なども生じることや、湖口閉塞が漁船の外海との往来に支障することから、毎年融雪期になると鐺沸地域の住民達は人為的に湖口を開削していた。

 鐺沸の湖口は湖の東端に偏っており、西岸・南岸の湖岸住民たちは外海との往来に鐺沸への大回りをするか、さもなければ小舟を人力で引き揚げて、湖と外海の間の砂州を乗り越える作業を余儀なくされた。湖水位上昇の被害とも相まって西岸・南岸の住民には西寄り湖口開削の希望が強かった。
 生物
 キムアネップ岬付近にはアッケシソウの群落があり、秋には群落ごと赤く染まる(このためアッケシソウはサンゴ草とも呼ばれる)。

 ≪ワッカ原生花園・参考資料≫

 ワッカ原生花園(わっかげんせいかえん)は、北海道北見市常呂町にある原生花園である。北海道遺産のひとつ。
北海道サロマ湖(網走国定公園内)のオホーツク海側の砂嘴にあり、ハマナス、エゾスカシユリ、ハマヒルガオ、ハマボウフウなどが見られる。

 先ずは車を駐車場に於き、ワッカ原生花園nature Centerでトイレを済ませこの広大なる「ワッカ原生花園」を散策することとした。広大なる原生花園は、時間によるコースが配分されており、その順路に従い歩いて行くと突然、和美が地面を指さしチョロチョロと散策路を横切ったのが「アリャ、トウキョウトガリネズミじゃあないの。」と大声を出す。釧路湿源でガイドから説明を受けていたので、その特徴から「トウキョウトガリネズミ」だと分かったとのこと。何とラッキーにもここで珍種を見つけたのであった。私は余りにも小さいためにその「トウキョウトガリネズミ」の確認が出来なかった。そんな原生花園の散策路を歩いて行くと小高くなった堤の所に出た。そこを登って行くと何と眼前に広大に広がる水平線を描きオホーツク海が、見えるではないか。そんな広大に広がる海を見て、高揚した気分となり波打ち際まで行く。やはり、湖と違って海は広いな。大きいな。(アタリマエデネエノ・・・)白い砂浜に穏やかな波が白い泡を立てながら満ち干を繰り返している。オホーツクの海に手を触れてみると水温は低くヒンヤリとして気持ちが良い。このオホーツクの海が、厳冬期には春賀シベリアから流氷を運んでくると想うと改めて雄大なる自然の神秘に畏敬念で思わず膿に向かい合掌する。キラキラと白く光る砂浜を波打ち際に沿い暫く平行に歩いてみる。ふと、後ろを振り返ると私達の影が後に写り、二人が歩いた足跡が四つの黒く線を描いて見える。空には縞模様を描いた雲が浮かびその下を一羽のカモメが翼を大きく拡げ円を描きながら気持ちよさそうに飛んでいる。ザッザッザーーブと波音が聞こえるだけで、この静寂さ。まるで時間が止まったような空間。お互い健康で歩ける喜びを胸に秘め去り行ける北の大地に旅情を胸に秘めただ黙して歩く。そんなオホーツクの海ともお別れをし、また、色々な花が咲く原生花園を歩いた後、予めガイドブックで調べて於いた「松寿司」へ行き北海道、最後の昼食となる、美味しい新鮮なる海の幸を食べることとした。その松寿司での金、2,500円のちらし寿司が実に色々な魚の刺身が丼に載っており、これがうまいんですね。今まで正直3箇所のお宿で食べた料理は余り美味しいとは思わなかったが、ここの松寿司のちらし寿司は、実にうまい。そして生ビールも美味い。はたと壁を見ると結構来店した有名人の色紙が貼ってあった。例えばマラソンの君腹、スケートの伊藤みどり等である。

 そんなおいしいちらし寿司と生ビールを食べその店主に海産物の販売所を聞きここでホタテ貝を注文し、それを冷凍の宅急便で頼みとうとう最後の北海道観光地網走湖へ行きデジカメでパチリと記念写真を撮る。

  ≪網走市&網走湖・参考資料≫

  ≪網走市≫

   面積    471.00km2
  総人口    39,440人
  (住民基本台帳人口、2010年12月31日)
 人口密度    83.7人/km2
隣接自治体    北見市、小清水町、大空町
  市の木    かつら
  市の花    えぞむらさきつつじ

 網走市(あばしりし)は、北海道オホーツク総合振興局管内にある市で、振興局所在地である。
市名の由来については、古アイヌ語で「チパ・シリ」(幣場のある島)と呼ばれていたものが言語の変遷と共に元の意味が忘れられ、「チ・パ・シリ」(我らの見つけた地)と転じ、さらに「ア・パ・シリ」(我らの見つけた地)と転じた、とされる。(チ、アはどちらも“我ら”の意)
地名由来の説は複数あり、他にも「アパ・シリ」(入り口の地)という説もある。日本の市町村をアルファベット順に並べると、当市 (Abashiri)が一番初めになる。

地理
オホーツク総合振興局管内東部、北見市から東に約50kmの位置にある。オホーツク海に面する。高い山はなく、丘陵地が多い。市街は網走川河口付近と、その南に続く海岸段丘上の平地に広がる。北西部に能取湖、中部に網走湖、東部に濤沸湖があり、それぞれ網走国定公園の一部である。

山?: 天都山、三眺山、大観山
河川?: 網走川
湖沼?: 網走湖、濤沸湖、能取湖、藻琴湖

気候
一年を通じて晴天が多く、年間降水量・降雪量は少ない。海に面するため寒暖差も少なく、北海道東部としては比較的温暖な気候である。

 ≪網走湖・参考資料≫

   所在地    北海道(オホーツク総合振興局)
    面積    32.87 km2
   周囲長    39.20 km
  最大水深    16.8 m
  平均水深    6.1 m
  貯水量−     km3
 水面の標高    0 m
 成因海跡湖
   淡水・    汽水汽水
 湖沼型富栄養湖
   透明度    1.4 m

網走湖(あばしりこ)は、北海道網走市と網走郡大空町にまたがる湖である。網走国定公園に含まれる。

地理
北海道東北部に位置する。南から網走川が流れ込み、女満別川などを集めて北東部から再び網走川としてオホーツク海に流出する。東岸には呼人半島(よびとはんとう)が大きく突き出す。
湖面標高は0 mで、潮が満ちると下流部から海水が逆流するため、湖底には塩分濃度の高い水が滞留し、無酸素層を形成する(Nakajima et al. 2004)。降水量の多い時期には湖面が高くなり海水の流入が抑えられるため、湖水の塩分濃度は低くなり、無酸素層の上限深度も深くなる。
特に大正期のこの地域の年降水量はいまより100 mmほど多く、網走湖はほとんど淡水湖といえる状況だった。逆に降水量の少ない年には浅い所まで無酸素層が広がり、ワカサギなどが湖面近くに集まるため豊漁となる傾向にある。

流入河川?: 網走川、女満別川、トマップ川、サラカオーマキキン川
流出河川?: 網走川

利用
 網走湖ボート場には日本ボート協会公認の1,000 mコースがあり、夏には大会や練習のために北海道内だけでなく日本全国から選手達が集まる。
冬期は全面結氷し、ワカサギ釣りの釣り人で賑わう。養殖漁業が盛んで、1928年に藻琴湖から持ち込まれたヤマトシジミの他、ワカサギ、コイなどが養殖され、サケ・マスの孵化事業も行われている。そのほか、シラウオ等も漁獲されている。

生物相
湿地にはハンノキやミズバショウの群落が広がり、特に大空町側のものは「女満別湿性植物群落」として国指定の天然記念物となっている。
周辺の林にはアオサギの営巣地がある。網走川が流出する部分の東には天都山 (207 m)があり、網走湖のみならずオホーツク海や能取湖までを眺望することができる。

歴史
約6,000年前の縄文海進期にはオホーツク海の湾入であったと考えられるが退と地盤上昇によって1,200年前ころまでには海と切り離されたとされる。


 陽が傾き陽射しも弱くなった平坦に細長く続く網走湖に別れを告げRent-a-carををジャパレンに戻し、女満別空港へ向かった。そしてAirdoとANNの共同運行18時20分発の飛行機に乗り、シートベルトをしっかり締める。程なく飛行機はエンジン音を高く響かせ離陸する。シートに腰を深く鎮めこの4日間の脳裏に去来する北の大地北海道の思い出を辿る。それにしてもこの北海道には何時来ても満足する至福の度が出来心が癒される。サア、来年もこの北の大地、北海道へ来るぞ。今度の登山は高山植物の宝庫、アポイ岳だ。

 「さようなら・北海道、きっと又来るからな。来年もまた、楽しい旅をさせてくれ。」・・・!!! (^_^)

〜〜「オシマイ」〜〜