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 Circle≪ゆ〜ぽぴあ≫遊歩記

         第230回遊歩
“深み行く秋の一日・city感覚だけではないもう一つの顔を持つ
  横浜へ合いに行こう
・・・!!!”







  遊歩日   2015年11月3日(文化の日・火)
  遊歩先   舞岡公園から田谷の洞窟(横浜市)
  天 候   晴
  参加者   12名
  執筆者   長沢 泰代

 [行 程]

 戸塚駅=バス⇒京急ニュータウン(09:45発)⇒舞岡公園内⇒小谷戸の里⇒金井公園(12:20〜13:15・昼食休憩)⇒田谷の洞窟(13:40〜14:05)⇒大船観音参拝⇒大船駅(15:00) 解散


 ≪遊歩記≫

 昔から晴れの特異日と言われている11月3日。やはり晴天になった。戸塚駅に集合した12名が江ノ電バスに乗車。終点の京急ニュータウンで降り、広大な面積を誇る舞岡公園に南門から入った。少し歩いて小谷戸の里に着いた。足踏み脱穀機のにぎやかな音が秋空に響き、豆腐やカラスなどさまざまな姿のかかしがyuupolerを出迎えてくれた。古民家にはおかまや桶などの生活用具が並べられ、戦前の農村にタイムスリップしたような気分を味わった。

 そして中丸の丘を経て、舞岡故郷の森に歩を進めた。不規則な階段や露出した小さな木の根がある静かな道をどんどん進んだ。空気がとても美味しく、里山歩きをしているような楽しい気持ちになった。戸塚駅にもどり商店街を通って柏尾川沿いの遊歩道に出た。桜並木が続く快適な道を歩き、金井公園に着き昼食。50分休んで、みんなが持参したお酒や果物などを分け合い、和やかなlunchtimeになった。

 昼食後は大通りを25分ほど歩いて、本日のメイン 田谷の洞窟に到着。入館料として大枚400円を支払い、蝋燭を受け取って、いよいよ洞窟内に足を踏み入れた。電機はついているものの薄暗く湿っぽい空気が中を満たしていた。いかにも神秘的な感じ。壁に掘られた文字などをたどっていくと、秩父や四国の札所巡りをしたことになるとのことだ。最後はこんこんと湧き出る金剛水を悪いところにつけるとご利益があり治るということで、みんな顔や頭につけていた。手掘りの人工洞窟であり、昔の人の信仰心の深さに頭が下がる思いがした。

 そこから大船駅まで歩き、希望者だけ大船観音に参拝した。そして駅前で解散した。

 皆さんのご協力で無事に遊歩を終えることが出来、心から感謝しています。本当にあ
りがとうございました。


 『遊歩先の紹介』


  舞岡公園

所在地   神奈川県横浜市戸塚区舞岡町
 分類   都市公園(広域公園)
 面積   約28.5ha
 開園   1992年(平成4年)12月5日
運営者   横浜市(指定管理者:特定非営利活動法人舞岡・やとひと未来)[1]
駐車場   119台(有料)

 舞岡公園(まいおかこうえん)は、神奈川県横浜市戸塚区舞岡町を中心として港南区にかけて広がる横浜市立の都市公園(広域公園)である。面積は約285,000m2。

 概要

 この地区の特徴である谷戸や、山林、田畑を活かした自然公園で、野鳥や昆虫など多数の動植物も見られ、週末になるとハイキングやバードウォッチングをする人で賑わう。また、公園の周辺地域は戸塚区側は山林部は舞岡ふるさとの森として舞岡公園と連続した整備が行われており、平地部も「舞岡ふるさと村」として遊歩道や小川アメニティー(舞岡川)等が整備され、自然の雰囲気を損なわないようにされている。また、公園の東側の港南区側は野庭町にかけて市街化調整区域になっており生産緑地や雑木林となっており、南の栄区側は風致公園として整備中の小菅ヶ谷北公園が近接する、市内でも緑被率の高い地域となっている。

 主なみどころ

 耕作体験に用いられる水田。収穫期には案山子祭りなども実施される
 古民家(旧金子家)
 小谷戸の里
 さくらなみ池
 狐久保池

 交通

 JR東日本・横浜市営地下鉄戸塚駅東口から江ノ電バス京急ニュータウン行で終点下車すぐ。
横浜市営地下鉄ブルーライン上永谷駅から江ノ電バス、横浜市営バス、神奈川中央交通の京急ニュータウン行で終点下車すぐ。
横浜市営地下鉄ブルーライン舞岡駅下車、徒歩25分



 田谷の洞窟
 瑜伽洞(ゆがどう)

 瑜伽洞(ゆがどう)は神奈川県横浜市栄区田谷町1501の真言宗大覚寺派田谷山定泉寺境内にある人工洞窟である。瑜伽洞が正式名称で、一般には「田谷の洞窟」(たやのどうくつ)と呼ばれている。瑜伽とは密教用語である。

 洞窟の概要

 洞窟と定泉寺の沿革

 定泉寺は天文元年(1532年)に鶴岡二十五坊相承院の僧快元法印の門弟隆継阿闍梨により建立されたと伝わっているが、瑜伽洞の歴史はそれよりも古く、その原型は古墳時代の横穴墓ないし横穴式住居の跡であるとも言われている(が横穴式住居は旧石器時代の洞穴遺跡を除けば日本列島には存在しない)。伝説では和田義盛の三男朝比奈義秀が弁才天を祀っていて、建暦3年(1213年)に起きた和田合戦で義秀がこの洞窟(「厄除大師」とよばれるスポット)を伝って落ち延びたという。また鎌倉幕府滅亡の際にも、落武者が逃れたという。裏山にそれに関連するともいう十三塚がある。近隣の御霊神社にまで洞窟が伸びていたともいわれる。これらの当否はともかく、鎌倉時代に真言密教の修行場として開鑿されたのが直接の起源である。その後江戸時代には洞門が閉ざされるなど、洞窟は寂れてしまった。しかしさらにその後の天保年間、洞内に流れる音無川の水を田谷地区の灌漑に活かそうということになり、再びこの洞窟の開鑿が開始され、同時に修行場としての整備も再開されることとなった。明治初期の廃仏毀釈運動の影響でこのときもしばらく洞門が閉じられ、また関東大震災ではこの洞窟に関する史料が散逸するなど被害を受けたが、昭和2年(1927年)には洞窟が一般に公開されるようになり現在に至っている。
定泉寺は、当初、鶴岡二十五坊の道場であったのが、近世には烏山三会寺(現在の横浜市港北区)末となり、そのまま高野山真言宗に属していた。第二次世界大戦後、同じ古義真言宗の系統である真言宗大覚寺派に転じている。

 洞窟の概要

 洞窟は定泉寺本堂の裏手にある小さな舌状台地の地下にあり、上中下の三段構造で途中道がいくつも枝分かれしている。内部には行者道という順路が定められており、これから外れた道には入ることができないようになっているため道に迷うことはない。一部封鎖されている場所があるのは、ただ単に道が崩れていて危険であるという理由と宗教的な理由とがある。行者道に沿って電灯が設置されており、行者道に関しては足元もきちんと整備されている。
洞窟は10個前後の広い空間を通路で結ぶような形で作られているが、この広い空間や通路の壁面や天井には曼荼羅、十八羅漢、刈萱道心の仏教説話などが彫られている。また西国三十三所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所、四国八十八箇所の壁画は、それらをすべて回ることで巡礼したことの代替とするものである。さらに、足柄山の金太郎を描いたものなど庶民的ともいえる彫り物もある。洞内には音無川などいくつもの水が流れており、やわらかい地層の中にこれらの彫り物が保たれているのはこの湿気のためである。洞内には仏像などが安置されてもいる。瑜伽洞は現在でも住僧や一般からの希望者による修行の場であり、厳粛な宗教空間となっている。
上記の通り、内部には崩壊がおきているため正確なところは明らかではないが、この洞窟の全長はおよそ1キロメートルほどと推定されている。測定可能な部分については全長が約540メートルであることが判っている。また内部の気温は季節を問わず16℃前後となっている。
毎日午前9時から午後4時半までが拝観時刻である。拝観には定泉寺の受付に拝観料(大人400円)を納める。洞窟内には電灯が整備されているが仄暗いため、受付で蝋燭をもらいそれを点して洞窟に入る。

 交通アクセス

 定泉寺からすぐの「洞窟前」または「田谷」バス停留所へは、JR大船駅西口や戸塚駅から路線バスが頻繁に出ている。鎌倉観光のガイド本では、番外に位置づけられることも多いが、当地は昭和14年(1939年)に横浜市に編入されるまでは鎌倉郡の所属であった。