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    Circle≪ゆ〜ぽぴあ≫・遊歩記

   第259回遊歩

 武蔵五日市の山里を歩き樹齢四百年
の山桜が咲く古刹と花の里を訪ねて








  遊歩日:   2018年4月13日(金曜日)
  遊歩先:    阿伎留神社・広徳寺・光厳寺・・龍珠院・瀬音の湯
  参加者:    12名
  天 候:    晴れ 

 《行 程》


 ◎ 武蔵五日市駅(09:15)⇒秋川橋⇒秋川河川公園⇒小庄の桜⇒小和田橋⇒阿伎留神社(09:50)⇒広徳寺(10:15)⇒佳月橋⇒沢戸橋⇒光厳寺・樹齢四百年の桜(11:10)⇒車道途中にて(12時15分のバス乗車)⇒十里木⇒瀬音の湯(昼食Thyme・足湯)⇒龍珠院(13:50)⇒瀬音の湯=バス⇒武蔵五日市駅  ハイ、オツカレサン  (^_^)


 ≪遊歩記≫

 今年のお花見遊歩は、yuupolerが市街地で、お花見をした後、花が恋しくなった頃、樹齢400年のヤマザクラが、咲くという武蔵五日市の古刹「光厳寺」とその周辺を歩くこととした。
しかし、このヤマザクラが咲く時期が問題である。観光ガイド等で調べたところ4月10日から15日頃がヤマザクラの見頃だと紹介しているが、今年は3月下旬になると急に陽気がよくなり、温かい日が続き市街地の桜は、3月25日から31日頃が見頃となった。ヤマザクラはそれより少し遅れて、この分だと4月8日頃が、見頃になるのではと懸念が生じる。日曜日は混雑するのでWalk dayの4月13日(金)に遊歩日を決めたのだが、もう、桜は散っているのではと少々心配になってきた。

 武蔵五日市駅前に参加者12目二が勢揃いして、RooNav担当の和美が今日のコースの説明をする。そして参加者の声出しを済ませ6名、6名の2班編制で、春陽の温かな陽が射す中、遊歩のstartとなった。武蔵五日市駅を後にして、車道を少し歩き、橋を渡り切った所の階段を下に降りる。そして秋川が流れる橋を渡り、右に降りて行く。ここら辺りが、秋川河川公園になっている。

それではこの秋川谿谷について記述しておこう。


 「秋川渓谷」

 多摩川の支流のなかで最大の川である秋川。あきる野市網代あたりから檜原村の北秋川・南秋川までが秋川渓谷とよばれています。その全長は約20キロメートル!勢いよくしぶきを上げる急流箇所もあれば、穏やかにゆったりとした流れもありと、変化に富んだ川です。あきる野の観光で、澄んだ水と自然が織りなすさまざまな表情に出会ます。

 さわやかなる薫風を肌に受け、秋川が流れる堤を歩いて行く。この堤の左側には多くの桜が植栽されているが、もう、すっかりと葉桜になっている。秋川橋を渡り今度は右側の堤を秋川の潺を聴きながらここら辺りまでは、一堂快適に歩いて行く。路傍には小さな花が「イッテラッシャイマセ・・・!!」と私達を見送っている。誠にのどかな陽春の光景だ。

 そしてそんな秋川と別れ更に車道を歩き右斜面の階段を昇り「阿伎留神社」を参拝する。

 それではこの「阿伎留神社」について記述しておこう。

 「阿伎留神社」

創建は不詳であるが、『延喜式』神名帳に武蔵国多摩郡8座の筆頭に記載されている、同国著名の古社である。
社名は「阿伎留」「阿伎瑠」「秋留」「畔切」などとも書かれたが、いずれも「あきる」と読んだ。「あきる」は「畔切」を意味し、当地が開拓され始めた頃に祀られた神社とする説もある。また現在の宮司家は創立以来70余代目とされ、初代神主の土師連男塩が氏神を祀ったことに始まるとも考えられている。

 天慶3年(940年)鎮守府将軍の藤原秀郷(田原藤太)が大原野明神(京春日)を勧請したことから、中世以降「春日大明神」と称された。また鎮座地により「松原大明神」と称し、通称は「松原さま」といわれた。

祭神

祭神は次の4柱。
大物主神 (おおものぬしのかみ)

阿伎留神社は秋川の段丘上に鎮座し眼下には水田が広がるが、この一帯の開発を進めた人々によって祭祀が始まったと考えられている。その由来は「あきる(=畔切)」という社名にも指摘される。

 『日本三代実録』元慶8年(884年)7月15日条に、正五位下勲六等畔切神に従四位下を授けた旨が記され、以後時代につれて定時の奉幣加階が行われたという。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳には武蔵国多磨郡に「阿伎留神社」と記載され、式内社に列している。

 鎌倉時代以後は武将の崇敬も篤く、源頼朝・足利尊氏・後北条氏からそれぞれ神領が寄進された。徳川家康は、江戸入府の翌年天正19年(1591年)11月に、武蔵国多西郡秋留郷松原の内で10石を寄せた。それ以後代々の将軍は、家康の先例に従って、同じ土地を寄進し、その朱印状12通が残されている。

 江戸時代には神主は触頭(ふれがしら)をつとめ、触下(ふれした)は秋川流域から小河内にいたり28人。6月、9月の末日を年中二度の大祭と称し、これらの神主が二班に分かれ、阿伎留社頭で武運長久、天下泰平の祈祷が行われた。

 明治に入り、明治6年(1873年)12月には近代社格制度において郷社に列格し、のち明治40年(1907年)5月神饌幣帛料供進神社に指定された。戦後昭和29年(1954年)に宗教法人となった。

 神階

元慶8年(884年)7月15日、正五位上勲六等から従四位下勲六等 (『日本三代実録』) - 表記は「畔切神」。

 境内

 社殿は天保元年(1830年)の五日市大火により、末社・神主宅に至るまで一切が灰燼に帰した。そこで幕府に請うて、江戸府中および武蔵国中の勧化許可を受け、資金資材の準備を進めたが、おりから幕末多端の時で社殿造営にまで至らず、永らく仮殿のまま過ごし、明治21年(1888年)11月、ようやく現在の本殿、拝殿が完成する。以後百年にわたって営々努力の結果、大鳥居、神楽殿、神輿殿、社務所、玉垣などが建造され、社頭の整備が進んだ。ただ昭和41年(1966年)9月の台風25号により、杉、檜など大木が百本以上倒れ、昼なお暗かった境内林は半減した。

 神殿は誠に荘厳なる歴史を感じさせる佇まいで、参加者一堂、鈴を鳴らし、二礼、二拍手、一拝のそれぞれ参拝をする。そんな参拝を済ませ再び階段を下り車道に戻り徐々に勾配が増す車道を歩いて行く。ここら辺りまで来ると第2班の方々の歩きが遅くその中でもS,Mさんが特に遅れて歩いている。もう、大分お疲れのようだ。しかし、これからが急坂となるのだから頑張って歩いて貰わないと困るのだが・・・!!!  (^^;)

 そして静寂なる山里の急坂を登り詰めると第2の目的地「広徳寺」の茅葺きの山門に達した。

 それではこの「広徳寺」について記述しておこう。

 「広徳寺」

 1373年(応安6年)に創建された臨済宗建長寺派の古刹、広徳寺。江戸時代の作とされている茅葺の山門がとても印象的で、その存在感が観光客を魅了しています。敷地には都の天然記念物となっているカヤやタラヨウの樹があります。また、秋は大銀杏の紅葉が見事!そこはまるで時が止まったような空間です。黄色い銀杏の絨毯が広がった「静」の世界が、観光客・参拝客を別世界へといざないます。観光で静かに佇み、鳥の声や風の音に耳を澄ましたくなることでしょう。さらに参道の野草も観光客の目を楽しませてくれる、自然豊かな観光スポットです。

 境内には 都の天然記念物となっている大樹、カヤの木が威風堂々と幹を天ま高く枝を四方八方に伸ばす様は、誠に神木とも取れそうな威厳に満ちた巨木だ。幾星霜歴史的変遷を重ねた古刹
の佇まいは、その重厚さに自然と頭が垂れる。そして私は毎日唱えている「般若心経」を合掌し唱える。誠に心も洗われたようで実に爽快だ。

 そして広徳寺の裏手から回り、再び車道に戻り急坂を下って行く。武蔵五日市駅から数馬方面に向かう広い車道を歩き「」懐石料理の食事処「黒茶屋」の前を経て更に進みやがて城山が見えるやや狭い車道の急坂を昇る。その途中には小学校の校舎の一部を開放した「戸倉しろやまテラス」と言うレストランがある。当初の計画では、昼食Thymeをここで採ろうと2週間前に予約をするため電話をしたら、今日、13日は、光厳寺のヤマザクラを見るため訪れた30人の個客で満員だとあっさり断られてしまった。

 そして急坂を更に登り詰め、息が切れかかったところに「光厳寺」の山門が見えた。先ずはヤマザクラは以下にと遠望すればジャーーン、花は全く咲いておらず葉桜になっているではないか。皆さん、すっかりと拍子抜けしたようで、樹齢400年のヤマザクラの傍に行こうともしないので、私はいくら花が咲いていなくても、その樹齢400年の発する霊気を感じようと斜面に立つヤマザクラを手を合わせ眺める。すると他のyuupolerもやって来て、幾星霜風雪に耐えたヤマザクラの巨木を眺め感嘆の声を挙げる。

 それではこの光厳寺のヤマザクラについて記述しておこう。

  「光厳寺のヤマザクラ」

 足利尊氏により創建された、あきる野市にある光厳寺。この寺院にあるヤマザクラは東京都の三大巨樹や天然記念物にもなっている、都内一のヤマザクラです。幹周りは5メートルをゆうに超え、高さは約17メートル。推定樹齢400年以上の古木です。傾斜のある地面をものともせず、しっかりと根を張り四方に伸びる力強い枝ぶりは見事!周辺の開けた景色に桜の木が絵になります。毎年4月に花を咲かせ観光する人の目を楽しませてくれます。ソメイヨシノより淡いピンク色の花を咲かせるため、「白山桜」とも呼ばれることも。光厳寺までの道のりは坂ですが、この壮観な風景に出会えるなら一見の価値があります。

 そんな葉桜と化したヤマザクラを暫し眺めてから、足利尊氏が、創建したとゆう由緒ある古刹、光厳寺を参拝し、先の急坂を今度は下り、再度、広い車道に出た。その車道を龍珠院・乙津花の里へ向かうため歩いていたら先から遅れに遅れて歩いているS,Mさんが、疲労困憊のため歩くのも困難な様子を見て、和美が機転を利かし、バス停で、その時刻表を見ると12分待てば、一つ目の停留所である十里木へ行くガスがあるから、これに乗車し、瀬音の湯で、昼食Thymeを採り、後は龍珠院・乙津花の里へ行く方、そのまま帰る過多、瀬音の湯で一浴する方とそれぞれ自由行動とするとの決断を下す。

 そして十里木バス停で、バスを下車し、秋川にかかる長い橋を渡り、瀬音の湯へ達した。従業員に聞いたら、館内で食事をしてもよいとのことなので、Richなyuupolerは、何とレストランで、昼食を採り、Poorな私と和美は、立川駅の構内で、買い求めたオムスビを生ビールと共に食べる。
持参した缶ビール、缶酎ハイにも手が伸びそれらを実に美味しく飲む。ゲッ、あの3月15日の右第4足第の痛風の衝撃波、すっかりと忘れているのか。我ながら自責の念に拘わるが、のど元過ぎれば熱さを忘れるかなの心境で、毎日美味しくアルコールを飲んでいる。


  「瀬音の湯」

 秋川沿いの森の中にあり都会の喧騒を忘れられる秋川渓谷 瀬音の湯。地下1,500mから湧出し、アルカリ度がとても高く pH10.1のお湯は、美肌の湯としてもきっとご満足いただけることでしょう。豊かな自然に囲まれ、四季折々の景色を楽しみながら思い思いのひと時をお過ごし下さい。



 そしてyuupoler一堂、昼食を済ませ結局予定通り龍珠院・乙津花の里へ行くのは、第1班6名のyuupolerだけであった。私はアルコールが入っているためすっかりと気持ちもハイになり、薫風を身体に受け意気揚々と歩いて〒。龍珠院・乙津花の里へ向かった。この龍珠院・乙津花の里は、花の里と言うだけに路傍には芝桜、黄色いヤマブキ、ミツバツツジ、スミレ、しだれ桜等々が咲き乱れ当に桃源郷の趣だ。そんな龍珠院で、参拝を済ませ、境内に並ぶ9体の地蔵菩薩の頭をN,Yさんに一体ずつ触れてその御利益を願った。

 それではこの 龍珠院・乙津花の里を記述しておこう。


 「龍珠院・乙津花の里」


 あきる野市乙津にある龍珠院(りゅうしゅいん)。またの名を「花の寺」とも呼ばれる臨済宗の寺院です。1363年(貞治2年)に開創され、約600年の歴史があります。その名の通り春は見事な光景!ソメイヨシノにシダレザクラ、ヤエザクラにヤマザクラなど、さまざまな種類の桜が咲き誇ります。桜のピンク色をさらに引き立てるかのように、黄色の菜の花や濃い桃色のミツバツツジが咲き乱れ、境内はまさに桃源郷のよう。毎年、観光客の目を楽しませてくれます。一方、秋の紅葉もまた美しいです。赤く染まったモミジは境内をしっとりと彩ります。参道では20体ほどの石仏が参拝客・観光客をお出迎え。池では鮮やかな模様の鯉たちが優雅に泳いでいますよ。


 そして龍珠院を後にして、乙津花の里を歩いていたら「おヤキ」を販売しているお店が、あったので、yuupoler6名そのアズキ入りの「おヤキ」を頬張る。それにしてもこの「おヤキ」を販売しているオバサンは、誠に商売に炊けており、この「おヤキ」をWalkdayは、一個、110円、土日は一個130円で売っていることをあっさりと私達に教えてくれた。そんな「おヤキ」を路傍の石に腰掛けて、食べていたら、甘い物の後は、辛い飲み物もよいですよと北区のS,Mさんが、ナナナ、何と銘酒「八海山」をご馳走してくれたではないか。私はもう、満面の笑みを浮かべ「そうですかそれじゃあご相伴に預かります。」ともみ手をして、その銘酒「八海山」をゆっくりと味わう。
 もう、この喉ごしのうまさはカクベツデンネン。

 そしてすっかりと銘酒「八海山」で、よい気持ちとなり、途中で山菜を販売している店舗で、山ウド、フキ、ワラビ、ゼンマイ等々を和美は、買い求めている。相変わらず買い物が好きだと一瞥する。そんな買い物を済ませ再び「瀬音の湯」へ戻り、ここからバスに乗車して、武蔵五日市駅へ向かった。

 今回は、お目当ての「光厳寺」のヤマザクラはすっかりと葉桜になっていたが、武蔵五日市の古刹、広徳寺、光厳寺、龍珠院・乙津花の里を訪れ山里をのんびり歩けたので良いとしましょうか。


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   〜〜≪オシマイ≫〜〜