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≪岩殿山Photographはこちらからどうぞ≫









Circle≪ゆ〜ぽぴあ≫・遊歩記

        第98回遊歩
        ≪新春遊歩・古の歴史に思いを
      巡らせ岩壁を歩こう≫

岩殿山












  遊歩日:   2010年1月17日(日) 日帰り
  遊歩先:   岩殿山(634m)
  食道楽:   山梨名物 ホウトウ鍋
  参加者:   9名
  天 候:   晴れ

<行 程><BR>
 ●新宿{07:35発・中央線中央特快(高尾行)(特別快速)}⇒三鷹(7:48)⇒立川(8:01)⇒八王子(8:11)⇒○高尾{08:18着・08:20発中央本線(東日本)(甲府行)(各停)}⇒■猿橋(08:53着)=コレヨリ徒歩⇒岩殿上⇒岩殿山山頂⇒兜岩〜天神山(昼食休憩)⇒稚児落とし⇒車道歩き・1時間⇒大月駅(ホウトウ鍋の会食)⇒新宿方面へ

 ≪遊歩記≫

 猿橋駅にて参加者9名が、声出しを済ませ一路岩殿山目指しイザ出発だ。この岩殿山は大月駅から登山をするのが、最短距離の一般的コースであるが、こちらからだと階段が多く歩いていても味気ないので、一つ駅手前の猿橋からのコースを選び登ることとした。桂川を渡り車道を歩いて行くと路傍には、12日に降ったのであろうか。結構雪が積もっており、その雪を避けながら慎重に歩いて行く。この分だと岩殿山も積雪があり、歩くのに難渋するのかも知れないな。

 凍り付いた車道を歩いていたら、飛び入り参加のS,Mさんが何とバランスを崩し転倒してしまった。幸にもどこにもケガがないようで何よりであった。都会に暮らしている者には、雪道などめったに歩いたことがないから、その調子が掴めずついバランスを崩してしまい思わぬケガをするはめになってしまうので注意をしなければならない。そんな雪交じりの車道を歩いて行くのだが、RooNavの和美は、どうも登山口が分からないらしく迷っているようだ。するとその転倒をしたS,Mさんが「あら、さっき通り過ぎたときに登山口の道標を見かけたわよ。」と名誉挽回とばかりに教えてくれた。

 その登山口から我ら一行ようやく車道ともお別れをして、これより岩殿山の登山開始となる。私はO,Sさんをサポートして急階段を登って行く。こちらからのコースも結構階段が続いておりyuupolerの大半は、今年最初の山歩きと見えて息を切らしながら登って行く。それでも大月からのコースに比較すると土道もあって、木々も多く自然が残されており、雰囲気も良く快適な登山が出来る。S,Mさんはこの登りが辛いと見えて列から遅れてマイペースで登ってくる。

 そして小一時間、我らご一行、ようやく岩殿山山頂に到達した。それではこの岩殿山について少し話をしてみよう。

岩殿山城(いわどのやまじょう)は、山梨県大月市賑岡町(旧・甲斐国都留郡)にある標高634メートルの岩殿山に築かれた山城跡。

小山田氏の居城であり、戦国時代には東国の城郭の中でも屈指の堅固さを持っていたことで知られた。山梨県指定史跡(指定名称は「岩殿城跡」)。

沿革

岩殿山は初め、9世紀末頃天台宗の円通寺として開創されたと伝えられており、13世紀に入ると天台系聖護院末の修験道の場として栄えており、16世紀になって大名の領国支配制が成立すると武田・小山田両氏の支配を受けるようになった。

築城は戦国時代の1530年代に武田氏の親族衆の扱いを受けた小山田氏によると考えられている。大月は武蔵国など関東地方へ至る街道が交差する地点に位置し、甲府盆地と異なる地域的まとまりをもっていた。小山田氏は初め武田氏に対抗していたが、永正6年(1509年)武田氏の傘下に入った。その後は軍事的に武田氏が相模の北条氏や駿河の今川氏、武蔵の上杉氏らと争った際の衝突地点となり、国境警備の役割を果たした。

東西に長い大きな岩山をそのまま城にしており全方面が急峻で、南面は西から東までほとんどが絶壁を連ね、北面も急傾斜である。東西から接近できるが、それも厳しい隘路を通らなければならない。各種の防御施設が配されたが、天然の地形のせいで郭も通路も狭く、大きな施設の余地はなかった。周囲には集落や武家館が点在していたと考えられている。

天正10年(1582年)に織田軍が甲斐に侵攻したときに小山田信茂は織田方へ寝返り、岩殿山城へ落ち延びてくる武田勝頼を郡内に入れず、進退に困った勝頼は天目山で自害した。武田家を滅亡させる事に深く関わった小山田信茂だがこの戦いののち、織田信長により処刑された。

江戸に武家政権を成立させた徳川家康は、幕府の緊急事態の際に甲府への退去を想定しており、江戸時代にも岩殿山城は要塞としての機能を保った。

* 「稚児落し」の悲話: 

武田氏を裏切った小山田氏であるが、結局織田信長によって攻められ落城し岩殿山城から逃走する際に第絶壁が連なる地にいたり、敵に追われ、稚児の泣き声で敵に見つからないよう、やむなく稚児を投げ落としたという断崖絶壁が「稚児落し」。 兜岩から稚児落しへのルートは落城の道とされている。

 そんな歴史的変遷に思いを巡らし、一休みをし少し歩いて行くと展望台に到着した。そこから五合目当たりまで雪で真っ白くなった富士山がドーント眼前に聳え思わずその神々しさに合掌する。そして下方を見ればウグイスがヨチヨチと春に備えてか。トレーニングとばかりセッセと歩いており、そのあどけないしぐさに皆さん、笑みがこぼれ和美もデジカメでそんなウグちゃんをパチリ・・・  (^^)
そして私達一同もデジカメでパチリ・・・!!!  (^_^)

 そんな記念写真を撮った後、コンクリートの階段を下り、その階段の途中から右には入り兜岩〜稚児落としの落城の道へ歩を進める。ここからは急下降となり積雪も結構あって思わぬ雪山の気分が味わえて、皆さんサクサクと雪を踏み踏み下って行く。このコースはほとんどハイカーもおらず先までの観光地としての岩殿山とは、全く雰囲気も違い本格的な山という感じである。このコースはもう、遙か以前に当時「歩登寿」という私の個人的なサークルで訪れたことがあり、その時には下山後、「槇温泉」で温泉に入り豪華にも会食をして帰途に着いたが本当にそんな思い出も遠い目をして、懐かしむ当に時の流れを実感する。

 やがて歩を進めて行くと行く手を阻むが如く目の前にドーント岩が屹立し、その岩には鎖が付けられており、その鎖に捕まり一人、一人慎重に登って行く。S,Mさんもまさかこんな岩場があるとは思いもしなかったと見え最初は躊躇していたが、覚悟を決めてその鎖に捕まり登って行く。そんな岩場を一同クリアし更に歩を進めて行くとまたまた、ドーント巨岩が屹立しているではないか。何とこれが「兜岩」である。先の岩場は言わば小手試しで、これが本物の兜岩だ。この岩場にも当然鎖が取り付けてあり、この鎖に捕まって登れば何てことはないのだが、S,Mさんは最初の岩場で相当緊張し体力を使い果たしたと見えて、脇道から行くと言い出し、和美が脇道は凍っているから危険なので、この岩場を登ることを進めたが、結局、岩場の登りが無理なことは本人が一番知っているので、脇道を行くこととした。

 私達はスリルたっぷりなこの兜岩のロッククライミングにチャレンジし、時間はかかったが全員クリアして、脇道から行ったS,Mさんと合流して天神山へ向かいこの天神山で昼食タイムを採り一休みだ。〜ツルツルツルル〜ウーン、温かなカップヌードルが実にウマイや。 (^^) (^_^)
そしてしっかりと腹ごしらえをして、イヨイヨ第岩壁が連なる「伝説の悲話の場稚児落とし」の場所に来た。「オーイ、しっかり歩いてや。ジジイ落としにならないようにな。」とそんな冗談を言いながらその場を通過する。それから急斜面を下降して、下山終了となった。途中鎮守様の空き地にて、一同、円を囲み銘酒澤野井の一升瓶からお神酒を紙コップにつぎ今日は何かと話題豊富であったS,Mさんの乾杯の音頭で野手満点なる「ミニ新年懇親会」が開催された。ウーン、冷えたお神酒が五臓六腑を駆け巡り実にウンメイヤ。

 そんな「ミニ新年懇親会」もあっという間に一升瓶が空になったので、腰を上げ大月駅へと歩を進めた。そして大月駅前の食堂でお目当てのホウトウ鍋を食べ勿論、生ビールは欠かさずに飲んで酔い気持となって大月駅へ向かう。幸にも丁度空いていた電車に乗ることが出来そんな車内でまたまた、お酒を飲みながらそれぞれ帰途に着いた。   (^o^)