Circle《ゆーぽぴあ》in2010に戻る

《次のページへ》

≪岩殿観音&物見山のPhotographはこちらからどうぞ≫








Circle≪ゆ〜ぽぴあ≫・遊歩記


        第99回遊歩
   ≪坂東札所十番の古刹と物見山から
    地球観測センターを訪ねて≫

岩殿観音
物見山








  遊歩日:   2010年2月7日(日) 日帰り
  遊歩先:   弁天沼・岩殿観音・物見山
         地球観測センター
  参加者:   13名
  天 候:   晴天の強風

<行 程>

●池袋{09:15発・東武東上線急行(小川町行)(急行)}⇒■高坂(10:05着)駅西口=コレヨリ徒歩⇒弁天沼⇒岩殿観音⇒物見山⇒地球観測センター⇒岩殿観音⇒弁天沼⇒高坂駅⇒池袋 解散


 ≪遊歩記≫

 参加者13名が、「関東百選の駅」の一つである三角屋根の高坂駅に降り立ち、恒例の声出しを済ませRooNavのK,Mさんを先頭に3班編制で出発をした。私は第1班でおなじみのO,SさんをSupportして高坂駅から真っ直ぐ伸びた広い車道沿いのこれまた広い歩道を談笑しながら歩いて行く。それにしても今日は何という冷たい突風が吹いているのであろうか。昨日の6日は朝から冷たい突風が吹いていたが、天気予報ではこの強風は明日7日は吹き止み温かな日になると言っていたのだが、その天気予報も見事に外れまあ、冷たい突風が容赦なく私達善男善女(ホンマカイナ・・ (^^;) )のyuupolerに「ゴー、ゴー、ゴーー、風が鳴いている。ゴー、ゴー、ゴー、ゴ、ゴ、ゴ」とばかりに吹き付けてくる。これじゃあ、我が身体も風と共に去りぬで、エデンの東の方へ吹っ飛ばされそうだ。
(随分と古いネタだなー。 (-_-;) )

 この広い歩道は「彫刻の道」と呼ばれブロンズ像が点在しており、早速そのブロンズ像勿論、裸婦像を触覚を生かして、じっくりと芸術作品を鑑賞する。豊かな胸のふくらみ、ムッチリとした臀部等は実にリアルに刻まれており、触る手も震えが来るようである。しかし、白杖を着いているyuupolerが、触っているから良いもののこれが白杖無しでいい年をしたおじさんが触っていたら周囲の人は、奇異な目で見ていることであろう。場合によったら警察へ通報されるかも知れないな。(そんなバカなーー)  (;_;)

 何しろ風が強い者だからあの重いバス停のポールが2本もゴロリンと倒れている。それをみた我がCircle《ゆーぽぴあ》のBeautiful Woman達ソレッと賭より、エイヤットばかりになんなく持ち上げてしっかと立たせ元の状態にしてしまった。ウーーン、おそるべきこの早業、それに引き替えCircle《ゆーぽぴあ》の男性群は、ただおしゃべりをしながら傍観しているだけである。何というこの違い、Circle《ゆーぽぴあ》のお世話人として、この落差の大きさにただ唖然とするだけだ。
 (コノーー、そうゆうおまえもただ見ていただけだろう。)  m(__)m

 そして関越自動車道の陸橋を過ぎドンドンと突風が吹く中を背を丸めて歩いて行くのだが、どうも第1番の目的地「弁天沼」が見あたらないようである。RooNavのK,Mさんを中心に先頭の女性軍が、Root huntingに懸命であるが、目指す弁天沼は影も形も見えてこない。きっとCircle《ゆーぽぴあ》の女性があまりにも眉目秀麗なものだから、焼きもちを焼いて、弁天様も意地悪をして、姿を現さないのであろうか。 (^^;)
 それからバス停で人に聞いてみたのであるが、どうも要領を得ないので、仕方なく元来た道を戻ることにした。そして反対側の歩道を程なく歩いて行くと先に行っていたH,Mさんが、「岩殿観音」の標識を見つけ車道を左に曲がりホッとし歩いて行く。

 そこからは真っ直ぐに伸びた道を淡々と歩いて行く。右手に広大な高坂ゴルフ場の敷地を見て、左手に畑地や田んぼののどかな風景を見て進むと「ありました。ありました。」第1の目的地「弁天沼・または鳴き知らずの池」が結構澄んだ水を湛えさざ波を立てて、赤い欄干の小さな橋が渡された、可愛い豆粒ほどの島を真ん中にし「イヤー、ようこそ、ヤットお目に掛かりましたね。」とばかりに私達を歓迎してくれた。一同、弁天沼の傍にある休息所で一休みをする。私はその合間に弁天沼の可愛い小島へ行くと何と生き弁天様が笑みを浮かべ迎えてくれた。・・・!!! ? だれ、だれ、だれってば  (^_^)v
この小島には弁天様が祀られているが、弁天様と池の関係、おそらく水に関係があるのだろうが、どうなっているのかまたまた、疑問が湧いてきた。そんな生き弁天とツーショットの写真を撮って休息所に戻ると何しろ寒いから早く岩殿観音へ行こうと言うことで、早々にそこを引き上げた。

 そして歩を進めて行くと車道が、細かい模様の車道となり、仁王門まで参道がまっすぐのびている。かつての門前町を彷彿させる家並みが続いている。
山門である仁王門には、左右立派な金剛力士像、仁王様が安置されている。
それではこの仁王様について、少し話をしよう。

 金剛力士(こんごうりきし)は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。サンスクリットではVajradharaという。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には仁王(本来は二王と書く)の名で親しまれている。
原語は「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」の意。日本では寺
院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば見かける。像容は上半身裸形で、
筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情に表わす
ものが多い。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を
表わしている。

 そんな仁王像を拝観し、急な石段を上り詰めると歴史的変遷を重ね風雪に耐え堂々と神々しく立っている風格ある本道があり、そこでガーーンと銅鑼を鳴らし、深々と頭を垂れて、「早く左足が元の状態になるように」と参拝する。そして一同、参拝を済ませ境内の片隅を拝借し、時間的にも丁度お昼時なので、ここで昼食タイムとした。早速、山県の銘酒「住吉」の栓を抜き、女性にはワインを一本進呈し、チクワと共に皆さんにお渡しをして、強風で冷えた身体を内から温める。ウーン、キューンとお酒が身体にしみ込み実に甘露だ。

 そんなRelax thymeを暫し過ごした後、RooNavのK,Mさんの提案で、風が強いのと結構皆さん、舗装道路を歩いてきたので、疲れているからこの先の笛吹峠から武蔵嵐山駅のコースを変更して、また、高坂駅へ戻ることとした。結構皆さん、お神酒が入っているので、ご機嫌さんとなり、声も高らかに
話をしている。そこで頃合いは吉人見て、腰を上げることとした。折角この由緒ある「岩殿観音」へ来たのだから境内を散策することとした。先ず驚いたのが樹齢700年という大イチョウの巨木だ。根っこがまるでタコの足のように張り巡らされその幹周りも太く樹木の気が満ち満ちているという感じで、その幹を触っているだけで、パワーを貰ったような感じがする。それから本堂の裏の岩壁にはめ込まれている八十八体の石仏をお参りした。これを拝むと四国八十八箇所の巡礼をしたと同じ御利益があるとのことだ。言わばこの石仏群は四国八十八箇所の出店とも言われるものだ。

 そして境内の裏手にある新しい階段を上がり、車道を横断して、物見山の登山開始となる。するとわずかな登りで標高136mの山頂に到達した。U,Yさんが「このぐらいの登りであれば何てことはないね。」と下山家の面目躍如たるお言葉であった。そんな山頂を極めた後、戦争記念館に立ち寄ったが、しっかりとそんな戦争のことは熟知している面々だったので、そこはパスして、車道の坂を下り「地球観測センター」へ向かった。この建物は実に大きく素晴らしいものだ。こんな箱物を建てては、税金を無駄に使っているという言わば象徴的な建物だ。そんな館内に入ると大したものは展示されておらず何故か宇宙食たる物が売られていたのには驚いた。そんなセンターで一休みをして、一路、今来た道をまた、岩殿観音まで戻り、そして弁天沼を通過してまた、ブロンズ像のある「彫刻の道」を歩き高坂駅に到着した。

 そして有志だけで久しぶりに池袋の西口にある「養老の滝」を見物し、それぞれの帰途に着いた。

          「オシマイ」


  『参考データ』


  [第10番 巌殿山 正法寺(岩殿観音)]

宗派:  真言宗智山派
本尊:  千手観世音菩薩
開基:  逸海上人
創立:  養老二年(718年)
住所:  埼玉県東松山市岩殿1229
電話:  0493-34-4156

詠歌:  後の世の 道を比企見の 観世音 この世を共に 助け給へや


  [坂東三十三観音について]


坂東三十三観音の歴史

 花山法皇とのゆかり
 坂東札所のうち約十カ所に及ぶ霊場の『縁起』が花山法皇が巡って来られ、札所に指定されたと記している。たとえば永禄三年(1560)に書かれた『杉本寺縁起』には「永延二年戌子の春、忝も法皇御順礼の勅命有て、当山を以て坂東第一番と定め御順礼有り、夫より今に至るまで貴賎の順礼絶せずとなり」と記されている。
 
 また、沙門亮盛が江戸時代に著わした『坂東観音霊場記』には花山法皇が大和長谷寺に詣で、暁に祈念しておられると、香衣の老僧があらわれ、「我れ坂東八州に於て身を三十三所に現ず。其の能く霊場を知るは河州石河寺の仏眼上人なり。彼と倶に坂東巡礼を始行してあまねく道俗男女を導くべし」とのお告げをうけたとも書かれている。
 
 これらの資料からいえることは、坂東札所は花山法皇によって巡られたのをその嚆矢としていることであり、その伝承を少なくとも江戸時代までは信じていたということである。しかし、史実のうえでは花山法皇が関東に下向されたとは信じ難いのであって、これはあくまでも西国札所の場合と同じように、札所の権威づけを意図したものといえよう。
 また、この考え方のうちに坂東札所そのものが、どこまでも西国札所に倣って行われたものであることが示されているともいえる。いわゆる西国札所の地方移植の一つが坂東札所なのである。

 源頼朝・実朝の信仰
 西国三十三観音巡礼の信仰が坂東に及び、やがて札所が形成されていったのはいつの頃であったろうか。いま、その経過を明らかにする史料はないが、直接の契機は鎌倉幕府の成立と将軍家の深い観音信仰にあったといわれている。すなわち頼朝が将軍であった頃、その気運が起こり、実朝のときに機が熟して制定されたのではあるまいかというのである。
 
 坂東札所が第一番を鎌倉の杉本寺とし、鎌倉・相模それに武蔵に札所の多いこと(これは戦乱によって退転した武相の寺院を保護しようとした頼朝の政策を反映しているが)、そして安房の郡古寺を打ち納めとしているなど、鎌倉居住者に巡拝の経路が好都合になっているなど、鎌倉期成立説に妥当性を与えている。この時代、三浦半島あたりから上総や安房へ通ずる海上交通は発達していたので、容易にこの順路は考えられる。
 さて、頼朝がきわめて熱心な観音信者であったことは、『吾妻鏡』によって知られる。これは伝説ではあるが、伊豆横道の三十三カ所の創始者に頼朝が擬せられていることは、頼朝が札所信仰に全く無関心な人であったならばつくられない話であろう。また、実朝もしばしば岩殿寺などへ参詣しており、元禄頃の記録には「実朝公坂東三十三番札所建立」と明記されている。
 
 そして、この時期における坂東札所の創始を側面から促したのは、関東武士たちが平家追討などで西上した折、直接に西国札所を見聞し、信心を探めたことにあるといわれている。さらにいえば関東武士・土豪の間に、この頃、熊野参詣が行われており、巡礼への気分が高まっていたことも一因といえる。なお、浄土教の関東伝播に対し天台・真言寺院の自衛策の一環として、観音信仰が鼓吹されたのにも由るという。
 
 もちろん、この頃すでに関東の地にそれだけの観音霊場が開かれていたので、その組織化が可能であった。では誰が、いつ、どこで三十三カ所の霊場に連帯意識をもたせたのであろうか。建久三年(1192)後白河法皇の四十九日の法要を鎌倉の南御堂で頼朝が行った時に、武相の僧侶百名が招かれた。そのうちに杉本寺・岩殿寺・勝福寺・光明寺・慈光寺・浅草寺、いわゆるのちに坂東札所となった寺から合計二十一名が集まっている。あるいはこの時に観音系寺院による札所制定への協議がもたれたかも知れぬ。それに積極的に協力したのが杉本寺の浄台房・慈光寺の別当厳耀・弘明寺の僧長栄であったと推考されている。それも頼朝の意図を充分汲んでのことであったろう。
 
 ここで注意したいのは、関東八カ国に散在する三十三カ所の観音霊場を巡拝する者にとって、まず全行程が障害なく巡ることができるという保証である。それには各国が強力な支配者によって統制されていることが必要であり、国から国への旅を無条件で許してくれる政治態勢が不可欠である。その意味からしても、坂東札所は鎌倉幕府の成立をみてはじめて可能なことであったといえるのではなかろうか。

 僧成弁の巡礼
 源実朝の没後、わずか十五年後のこと、天福二年(1234)に坂東札所が実際に巡られていたことを示す確実な史料がある。それは福島県東白河郡八槻村の都々古別神社に残る観音像造立についての「墨書銘」であり、坂東札所の歴史を知るうえで貴重なものである。それによると僧、多分、山伏であったろうが成弁なる者が三十三カ所を巡礼中、常陸八溝山観音堂に三百力日参籠、別当の求めに応じて観音像を彫造したというのである。
 
 八溝山観音堂は坂東第二十一番の札所であるから、これによって坂東札所は少なくとも天福二年以前に成立しており、修行僧たちによって巡られていたことが知られる。しかし、参籠三百日とあることなどから苦行が予想され、一般の人々の参加はまだ見られず、幕府関係の上級武士か僧侶に限られて巡られていたもののようである。嘉禄三年から弘安三年(1227〜80)にかけて岩殿寺・星谷寺・浅草寺の興隆に尽くした沙弥西願もこの坂東札所信仰を鼓吹した僧侶の一人であろうといわれている。

 一般人の参加
 やがて室町時代になると一般庶民の参加が目立ってくる。足利市の鑁阿寺に残されている「巡礼札」には「文明五年六月廿六日、相州西郡済五郎兵衛三郎、坂東三十三所巡礼」とか「文明九年閏正月六日、武州足立郡芝蕨村、坂東三十三所巡礼・仙助三郎助二郎彦二郎」などとあり、この頃になってようやく関東在住の一般人が坂東巡礼に出たことが知られる。

 また、中尊寺、西方寺などに残る延徳四年、大永七年、天文四年の「巡礼札」によって遠く奥州の地からも坂東札所を打った人がいたことがわかる。そして天文六年(1537)の『東勝寺鼠物語』には「谷汲にて札を納め、又、四国遍路、坂東巡礼などして諸国を修行仕ける」とあって、山地方の札所という地方性からの脱却も見られる。なお、室町時代の「狂言」に「是より直に西国、坂東八カ国を巡って霊場を拝まうと思ふが何とあらふ」とあるなど、すでに坂東は西国と比肩するほどの札所になっていたようである。
 
 室町末期には西国、秩父と合わせての「百観音札所」巡礼が行われるようになると、坂東札所も一段と賑わいを増し、江戸時代の盛況へと移っていった。
 ところで坂東札所は番付通り巡ると道程に無駄の多い配置となっている。江戸時代の人、十返舍一九の『金草鞋』には「西国巡礼は第一より順に巡はれども、坂東はいろいろ入組み、順に巡はることなり難し」とある。だから江戸時代の『道中記』には「江戸より此ばんどう札所をまはるには、一ばん浅草、二ばんぐみょう寺、三番に杉本寺へ参るべし」などと指示するようになっている。江戸時代では当然のことながら、それ以前においても、順番にかまわず巡る場合が多かったのではなかろうか。しかし、番付は制定以来一カ所も変更がなかったようである。
 
 江戸時代の明和三年、沙門円宗の著『秩父縁起霊験円通伝』に「坂東は武蔵、相模、安房、上総など八州にわたる。其の行路堪へ難し」とあるように全行程三百三十里(約1,300キロ)の巡拝は容易のものではない。だから信心の浅い者たちへの吸引カは弱かったかも知れぬが、真撃な巡礼者には、その恵まれた自然の景観、関東育ちのご本尊さま、すべてが魅力であったと思われるし、今日でもその状態は充分に保たれている。
 

  [地球観測センター] 

 センターの展示室には、さまざまな展示や体験施設が設置されている。地球観測体験のコーナーでは、宇宙から見る地球の疑似体験ができる。
 美しい地球も近づくと傷ついた地球の姿が見え、環境保護の大切さが実感できる。