Circle《ゆーぽぴあ》in2010に戻る

《次のページへ》







>


Circle≪ゆ〜ぽぴあ≫・遊歩記


   第100回記念遊歩
  ≪早春の椿咲く伊豆大島と
     御神火温泉を訪ねて≫








 遊歩日:   2010年2月27日(土)〜〜28日(日) 1泊2日
 遊歩先:   伊豆大島{島内周遊散策}
 温 泉:   御神火温泉
 天 候:   27日 強風小雨 28日 大雨
 参加者:   5名



 <行 程>

 2月27日(土)
 浜松町=徒歩10分⇒竹芝桟橋(8:20発)〜ジェットホイル〜大島岡田港(11:10着)=ペンションすばる送迎マイクロバス⇒ペンション「すばる」(休憩)=送迎マイクロバス⇒火山博物館見学=徒歩⇒御神火温泉⇒ペンション「すばる」 宿泊  (-.-)Zzz


 ≪遊歩記≫

 この「大島遊歩」の日にちの天気予報によると二日間とも雨で、お負けに低気圧が通過するという最悪のお天気だ。その天気予報が、ピッタリと当たって27日の朝は雨が間断なく降っている。これでは今日の予定である三原山登山は明日に回し、今日は島内観光と言うことになりそうだ。そんな懸念を胸に朝、5時に起床して、NHKのラジオをかけていたら何と地震速報が流れ沖縄県の海域で、震度5の地震が発生したと盛んに自信情報を流しているではないか。どうも今日は雨と地震、それに輪をかけた低気圧の通過と旅立ちにはさい先が悪い状況だ。

 そして雨の中タクシーに乗り吉祥寺駅へ向かい集合場所の浜松町駅に着くと早くも3人のyuupolerが待っており、「お早うございます。」と挨拶を済ませ竹芝桟橋へ行く。8時ジャスト出発の館山経由の大島元町港の後に私達が乗る8時20分発の久里浜経由大島元町港が定時に出発をするとのアナウンスがあり、改札口へと向かう。幸にも雨は余り降っておらずこの分だと今日は三原山登山が出来るかも知れないとそんな安易な考えで、一同ジェットホイルに乗り込む。船内は約、80パーセントの乗船率でそこそこ込んでいた。

 私は大島には過去2回行っているが、いずれも前日の夜の11時頃竹芝桟橋を出船し、翌朝大島元町港の沖合で、待機してそれから夜明と共に元町港に下船した。そんな記憶があったためにこの「大島遊歩」を計画した際には、2泊することを考慮に入れていたのであったが、和美が今はジェットホイルで大島までわずか2時間で行かれると教えてくれた。本当に昔のことを思えば実に隔世の感があり、便利になったものである。
着席しシートベルトをしっかり着け早速缶ビールを皆さんにお配りをして、4年前の八丈島以来の船旅の安全を祈願し乾杯をする。思い起こせばあの八丈島の船旅では、10名のyuupolerのほとんどが三宅島を離れたとたんに波が酷くなり、船は揺れるに揺れて、その為に船酔いとなってしまった。中でも和美は最悪でもう七転八倒の難行苦行となり、嘔吐が酷く顔面蒼白ともう、生きた心地がしなかったようだ。それに比して今日はジェットホイルなので水面から浮上して行くために揺れはほとんど無いようなので、まず心配はないであろう。

 グビグビト缶ビールを飲み、愛用のプレクストークポケットで、小説「龍馬伝」を聞きながらウトウトとしていたら、やけに船が揺れてきたので、隣を見るともう、和美が備え付けのゲーゲー袋を口に当てて船酔いで苦しそうに顔面蒼白となり喘いでいるではないか。イヤー、またしても今日も船酔いになってしまったかとこの先が案じられた。そんなジェットホイルは進むに連れて、揺れも激しくついに船内放送で「波が強くなってしまったので浮上が出来ず着水をして進みますから船の揺れが酷くなるかも知れませんが、お客様には一つしばらくの間我慢をしてください。」と言うではないか。それを聞いた和美はもう、泣き出しそうになり、背を丸め苦しさに絶えているようである。

 このジェットホイルは浮上しないと船が、小さいだけに波にもまれて、その揺れは半端ではない。まるでジェットホイルでなく上下動の幅が狭い遊園地のジェットコースターのようで、船内のお客さんも船酔いで大分苦しそうにジッと絶えている。私は缶ビールを二本も飲んでいるので、船酔いなのか、アルコールで酔っているのか定かでなくボンヤリとした頭で、早く港に着かないと和美が絶えることが出来ず大変だと心配をする。

 「お客様、大変船が揺れて申し訳ご座いませんが、後、30分で岡田港」に到着します。と船内放送があり、窓外を見ると大島がドデカク見えてきた。アレ、大島元町港では無く大島岡田港に着くのかと疑問に思う。これは後で分かったことだが、元町港は、岬に囲まれて無く風当たりが強いので、その点、岡田港は、岬に囲まれているために岬が風を防いでくれるから風の強いときはいつも岡田港に上下船するとのことであった。
 そんな船内放送にホッとしたのか和美も懸命に頑張っているようである。私も胃の当たりが大分気持ちが悪くなってきて、聊かこの先が不安になってきたが、ようやく一息つき安心した。

 そして約、定時より40分遅れで大島岡田港へと着岸し、一同、ホッとして下船する。雨は降っていないが風はかなり強くこれでは三原山登山は、無理なので明日に回すこととした。しかし、例え風が強くなくとも和美は船酔いでそんな気力はすっかりと失せており、早くペンションへ行って休みたいと言う始末である。そんな私達の心情を思い図ったのか「金川さんご一同様、ペンションすばるからお迎えに来ております。」とアナウンスがあり、ターミナルの出口へ行くとペンション「すばる」のマスターが出迎えていた。そのマスターの話によると波が強かったために竹芝桟橋発館山経由8時のジェットホイルは、波が強く途中で引き返したので、私達がどちらに乗っているのかが心配になり慌てて岡田港へその様子を見に出迎えに来たとのことだ。ソリャア、そうであろう。もしも私達5人がキャンセルしたら大赤字になるのであるから、即、そろばんを弾き心配になり出迎えに来たのであろう。

 そんなマスターの運転するマイクロバスで、先ずはペンション「すばる」へと向かい広々とした和室で、昼食を採りながら足腰を伸ばし一休みをする。そしてマスターの運転するマイクロバスにて、「火山博物館」へ行く。この火山博物館は、昭和61年の三原山大噴火の様子がリアルに再現されており、世界中の火山の知識が得られ地球のエネルギー、火山のことが学べる所だ。白亜の広々とした館内には、真っ赤に火柱を上げる大噴火の様子、逃げ惑う島民の様子等々が写真でリアルに紹介されており、改めて火山爆発の威力を思い知る。この伊豆七島では、三宅島がやはり、大噴火を起こし、全島民が避難を余儀なくされたが、最近島内の生活も許されてはいるが、まだ噴煙がたなびきガスマスクの着用が義務づけられているようだ。

 そしてそんな火山の様子を見学し、今度は歩いて御神火温泉へと向かう。この御神火温泉には、温泉、温泉プール、レストランがあり、島民の憩いの場として、賑わいを見せている。そんな温泉で今日はもう、何もすることがないので、サウナ、寝湯、打たせ湯、超音波風呂、大風呂等々とゆっくりと入ることとした。それにしても館内は人が少なく淋しいものである。そして温泉に入りサッパリとし、隣接する「大島温泉・浜の湯」の露天風呂を覗きに行く。この露天風呂は水着着用で、混浴となっており、特に夕陽がとても綺麗だとのことだ。明日、朝風呂に入りに来ようと営業次官を聴いたら何と午後の1時30分からで、さすがは町営、実にのんびりとしたものだ。

 そしてソテツの街路樹が植栽されている大島のメイン通りをブラブラと歩きペンション「すばる」へ向かう。このペンション「すばる」は、日本チャリティ協会の休養ホームの指定旅館で、今日は私達5人の他に数名の若いグループが宿泊しており、彼らは洋室に泊まっているようだ。いつもなら温泉に入りその後、渇いた喉をビール等で潤すのだが、夕食には海の幸がどっさりと出ると言うことだから、アルコールをジッと我慢の子で、テレビを見たりし、夕食時間までお腹を空かして暫し待つこととした。

 やがてお待ちかね6時の夕食タイムとなり、マスターが次々とお料理を運んできた。そんなご馳走のメインは、何と言っても刺身の舟盛り、アワビのステーキで、これは当に絶品、そんなご馳走を食べながら冷えたビール、持ち込みの山県の銘酒「住吉」のピッチも速く食べるほどに、飲むほどに口も滑らかとなる。特にお酒が入ると一段とS,Mさんのテンションも上がり誠に多弁になって時事(ジジー)放談に花が咲く。そんな話に夢中になり気がついたら住吉の一升瓶がスッカリ空となってしまった。それでそれを契機に明日のお天気を願い床を取り寝ることとした。 (-.-)Zzz


 〈行 程〉

 2月28日(日)
 「すばる」=レンタカー⇒島内周遊散策(民俗資料館・大島公園椿祭り)⇒大島岡田港(5:35発)〜ジェットホイル〜竹芝桟橋(17:35着)=徒歩・10分⇒浜松町 解散  (^o^)


 ≪遊歩記≫

 気分良く起床し、シャワーを浴びて、窓を開いたらジャーン、何と激しく大粒の雨がたたきつけるように降っているではないか。全く昨日より更に最悪のお天気となり、これでは三原山登山も中止をする他はないとガッカリする。そしてテレビのスイッチを入れたら、南米のチリー沖で震度8の大地震があり、その地震の影響で、日本にも津浪の影響があるとのことで、盛んに警戒警報の放送をしているではないか。アジャーア、もしかしたら帰りのジェットホイルの出船にも影響があるのではと大いに心配されるところだ。

 朝の洋食を済ませ外に出てみるが、一向に雨脚は衰えず大粒の雨が間断なく降っている。全く今回の遊歩は最悪となり、《ゆーぽぴあ》の守護神、Yuporadorosuも我らには見方をしてくれなかったようだ。マア、嘆いていても仕方がないので、既にレンタカーを借りているから、雨の中観光見物とレンタカーを走らせることとした。そのドライバーは、昨日の時事(ジジー)放談の主役、S,Mさんだ。先ずは「大島町郷土資料館」へと向かう。この「大島町郷土資料館」は、「大島の自然を愛し、祖先の残した貴重な文化遺産を少しでも多く残したい。そして後世にも引き続きたい。これが主旨で大島をとりまく自然環境をご理解し、島の文化や、厳しい条件の中で必死に生き抜いている先人達の姿を思い起こして頂きたい。」こんな願いで設立したとのことだ。 館内には大島での生活用具や大島の自然等が説明文と共に展示されている。

 そんな「大島町郷土資料館」を見学し、今度は今回の三原山登山と共に第2の目的であった大島公園の椿祭に行く。幸にも雨は大分小降りとなり、歩いていてもそんなに気にならないほどだ。この大島公園は、自然の地形を利用した園内には500種1万本と言われる椿が植えられ、日本一の模範林との評判を得ている。また、隣接する「動物園」には、たくさんの小動物がおり、可愛く愛嬌を振りまいている。
 駐車場には大島桜が満開で、それが小雨に濡れとても綺麗だ。

 園内の建物に入ると色とりどりの椿の花が、花瓶に生けられ実にその種類の多いのには驚いた。大島の椿の原形は、藪椿が主流で、それが変化して色々な種類に種別れをしたとのことだ。更に公園へと足を向けると「あんこ〜、あんこ椿はあんこ椿はああ〜恋の花〜〜。」と都はるみの歌がスピーカーから大きく流れそれに併せて、足取りも軽く鼻歌交じりで我がyuupolerは歩いて行く。そして椿の温室へ入り、その椿の種類の多さに驚また、絢爛豪華な椿の花にただただ見とれるばかりだ。

 そんな今が盛りと花開く椿を見ることが出来、今回天候には恵まれなかったが、そんな椿の花が鑑賞できて、これで大満足である。そして大島公園を後にして、波布の港が一望できる展望台へ行く。ここは高台だけに突風が強く吹きサッと見ただけでまた、レンタカーを走らせ三原山へと向かう。その途中で島内有線放送が流れ「南米チリー自信の影響で、午後の船の運行は全く未定です。」と放送しているではないか。その放送を聞き私達は最悪船が出なかったらもう一泊大島へ泊まるようになってしまうのではと内心穏やかではない気持となり、三原山へのドライブは中止し、早めに岡田港へ行き待機をすることとした。

 岡田港の前にあるレストランで実に美味しくない豚のショウガ焼定食を食べターミナルで暫し待っていたら「午後2時過ぎに運行状況が分かりますからお客様はもうしばらくお待ちください。」と放送が流れ複雑な気持ちで待つこととした。それから約、30分後、再度放送が流れ「3時20分のジョットホイルは定時に竹芝桟橋まで出船します。」と誠に有りがたいお達しであった。

 そうして時間が来たので缶ビールを買い込みジェットホイルに乗り込む。船内は余り乗客もおらず空いており、帰り船は揺れも全くなくジェットホイルは浮上し、快適に波飛沫を上げて進んで行く。和美も来たときとは違い船酔いもなく安心して乗っているようだ。それから約、2時間後ジェットホイルは予定通りに竹芝桟橋に着いた。

 こうして今回の第100回記念大島遊歩は、行きも帰りも当にジシンカジョウの船旅であった。マア、見事なる色とりどりの椿の花が見られたことが唯一の慰めであったろうか。これがまた、年月を経ると懐かしく思い出されることであろう。



  「大島データ」



 伊豆大島

 伊豆諸島北部に位置する伊豆諸島最大の島。本州で最も近い伊豆半島からは南東方約25kmに位置する。大島と名のつく島は日本各地にあるが国土地理院では伊豆大島と表記する。面積は91.06km2。行政区域は、東京都大島町である。大島は伊豆大島火山と呼ばれる水深300〜400mほどの海底からそびえる活火山の陸上部分であって、山頂火口のある三原山は1777年ごろの安永の大噴火の際にカルデラ内に出来た中央火口丘である。


  三原山

構造

外輪山の直径は2,500-3,200 mで山腹には数多くの側火山が存在し、火山壁の高さは600-700 mである。また、火口の中央付近には1950年から翌年にかけて噴火で生じた三原新山と呼ばれる火口丘がある。溶岩原は砂漠と呼ばれ、山の北東の泉津地区に広がる溶岩原は裏砂漠、その下方のものは奥山砂漠と呼ばれる。もともと島自体が海底火山が成長して出来た島(火山島)であるため、伊豆大島自体が巨大な三原山ということになる。

歴史

約2万年前から現在まで、100年ないし200年毎に合計百数十回の大噴火が起きたと考えられている。古くから島民は噴火と火山をそれぞれ御神火、御神火様と呼び、敬ってきた[1]。古代の火山活動については六国史などに記述があるが、伊豆諸島の中で三原山の噴火と断定できるものはない。

島内の元町地区にある薬師堂の祈祷札には、天文21年9月19日(1552年10月17日)に「御原ヨリ神火」が出たという記録がある。近世の大噴火としては、天和4年(1684年)から元禄3年(1690年)にかけての噴火と安永6年(1777年)の噴火が挙げられ、どちらも溶岩が火口壁を越えて流出するほどで、御救米が下されたという。

近年では1950年から翌年の噴火と1986年(昭和61年)11月21日の大噴火が有名である。前者では新たに三原新山ができて、火口の北東に位置し標高754mでそれまで最高峰だった剣ガ峰を抜いた。後者では全島の約1万人の島民が避難し、翌12月19日から23日まで島を離れている。この時東海汽船は、全ての定期航路を運休させて全船舶を大島に向かわせ、避難民を輸送した(既に出港していた船も大島に引き返したという)。

火口周辺は立ち入り禁止だったが、1996年(平成8年)11月10日に解除された。