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Circle≪ゆ〜ぽぴあ≫・遊歩記


第215回遊歩

《ぶらり千葉Walk・市川歴史探訪》

 弥生、縄文時代の古墳を鑑賞し矢切の 渡しで早春の息吹を感じよう≫







  遊歩日:   2012年3月18日(日曜日) 日帰り
  遊歩先:   市川市内(linkタウンいちかわ・弘法寺・里見公園)&矢切りの渡し〜柴         又帝釈天他
  参加者:   14名 
  天 候:   曇り時々小雨


 《行 程》
 市川駅⇒「アイ・リンクタウンいちかわ・ザ・タワーズ ウエスト プレミアレジデンス」は⇒市川砂州⇒真間の継ぎ橋⇒手児奈霊神堂⇒弘法寺⇒古東海道⇒法皇塚古墳⇒里見公園(昼飯)⇒矢切りの渡し⇒柴又帝釈天 解散


 ≪遊歩記≫

 「暑さ寒さも彼岸まで」と昔から言い伝えられているが、何故か今年は何時までも寒く春の御彼岸の入りになっても一向に温かくならず、昨日17日は朝から冷たい雨が降り、今日18日の「市川歴史探訪遊歩」の実施の遂行が心配であったが、Circle《ゆ〜ぽぴあ》の守護神、Yuporadorosuに私が1ヶ月前から酒断ち((^^;))をして、晴天になるよう祈願しており、さすがはYuporadorosuその願いをききいれ今日は曇り空ながらも見事に「市川歴史探訪遊歩」が実施できたのであった。

 市川駅北口でRooNav担当者、地元にお住まいのA,SさんからコースのLectureを受け参加者14名が声出しをしRooNavを先頭に2班編制で、これから市川歴史探訪の遊歩に出発だ。私は2班でこれまた地元にお住まいのO,SさんをSupportし歩を進める。先ずは市川駅に隣接して建つTwin tower「アイ・リンクタウンいちかわ」の見学だ。

 それではこの「アイ・リンクタウンいちかわ」について少し述べてみよう。
 「アイ・リンクタウンいちかわ」は、JR市川駅南口の再開発プロジェクトです。2棟の超高層ビルと商業施設および駅前広場とペデストリアンデッキが整備されており、先に、東側の「アイ・リンクタウンいちかわ・ザ・タワーズ イースト」が竣工しました。地上37階、地下2階、高さ約130m、398戸の賃貸住宅を中心として店舗、有料老人ホーム、行政施設で構成される超高層ビルです。入居は2008年8月下旬から行われています。
 
 一方、西側の「アイ・リンクタウンいちかわ・ザ・タワーズ ウエスト プレミアレジデンス」は、 2009年1月下旬に竣工しました。 地上45階、塔屋1階、地下2階、高さ約160mです。 572戸(事業協力者住戸165戸含む)の分譲住宅と店舗、図書館、子育て支援施設で構成される超高層ビルです。入居は2009年3月下旬から行われています。
 
 「ウエスト プレミアレジデンス」の3階には、「市川駅南口図書館(愛称:駅南/エキナン)」が、2009年4月30日にオープンしています。
 「アイ・リンクタウンいちかわ」展望施設」は、2009年10月10日にオープンしました。なぜこんなにオープンが遅れたのか良く分かりません・・・
 最上階の45階が「展望ロビー」になっていますが、実際に見る「展望デッキ」は、1階上に塔屋部分を囲むように設置されています。
 46階とも言えますが、屋根がないので46階ではありません。屋上でもないし、塔屋ですね。
 入場料は無料で、休館日は毎月第1月曜、開室時間は午前9時〜午後10時(展望デッキは午後9時まで)です。

  地上高く聳える45階の「アイ・リンクタウンいちかわ・ザ・タワーズ ウエスト プレミアレジデンス」にある展望ロビーへ行くため、エレベーターへ乗り込む。実に驚いたのは14名全員が、このエレベーターに乗ることが出来たことだ。エレベーターは硝子張りになっており、あっという間に展望ロビーへ到着した。あいにくと曇り空のためその眺望は良くなく四顧を見てもただポッヤっと見えるだけだ。それにしてもイヤー、高いもので。もう、街並みが豆粒のようにただ小さく見えるだけで、きっと晴れていたら遙かかなたまで見渡せてそれは実に素晴らしい眺望であろう。この展望ロビーの長めがこれであるから、東京スカイツリーの450mからの長めたるや当に東京上空をヘリコプターに乗り見ている感じであろうか。

 そんな展望ロビーの眺望を楽しんで、これから市川市街の歴史探訪へと歩を進めた。市川駅の反対側に出て小さな商店街を過ぎ狭い道に入るとRooNav担当のA,SさんからLectureがある、「エッヘン、ここは市川砂州(サス)と言われ昔はここら辺りは浜辺になっており、砂地が盛り上がったところで、今でも徐々に大通りに行くまで高くなっており、その当時の面影を残しているところですよ。」「へー、そうですか。」とうなずき更に歩を進め大道理に出て、また、狭い道に入る。この道路の両側は小さなお店が並んでおり、昔の風情を残している商店街だ。そして真間川にかかる真間の継ぎ橋を渡り、「手児奈霊神堂」へ行く。この霊神堂で参拝を済ませ脇を見るとお地蔵様が安置されており、そこにはタワシが置かれ、そのタワシで自分の身体で弱いところを洗い清めてやるとその弱点である弱い箇所が、たちまち丈夫になるそうで、早速私はそのお地蔵様のアキレス腱のあるところを入念にタワシで洗い清めた。 (^^)

 次に足を進めたのが弘法寺(ぐほうじ)という古刹で、幅広の階段を昇って行く正面石段の下から27段目にある石が「涙石」と名付けられているとのことだ。石段は千個以上の石からなるが、この石だけ涙を流すかのように濡れ続けているとのRooNav担当A,Sさんの蘊蓄ある説明が成された。「ウーーン、さすがは歴史家、この日のために相当勉強をしたのであろう。タイシタモンヤネンナ。」 (@_@)
階段を登りつめると境内は広く立派な仁王門が。建っており、小降りの阿吽の仁王像が安置されている。境内の一隅には、伏姫桜という枝振りの良いしだれ桜が柵に囲まれ植えられており、このしだれ桜が咲く頃はきっと素晴らしい眺めであろう。

 それではこの弘法寺(ぐほうじ)について文献を紐解いてみよう。

 山号 真間山
 宗派 日蓮宗
 寺格 本山(由緒寺院)
 本尊 三宝尊
創建年 伝・737年(天平9年)
 開基 伝・行基
正式名 真間山弘法寺

 弘法寺(ぐほうじ)は、千葉県市川市真間にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は真間山。

 概要

 奈良時代、行基が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりとされる。平安時代、空海が伽藍を構えて弘法寺と改称したという。その後、天台宗に改宗した。鎌倉時代、日蓮の布教を受けて、時の住持・了性法印が法華経寺・富木常忍と問答の末やぶれ、日蓮宗に改宗した。富木常忍の子で日頂を初代の貫主とした。大檀那の千葉胤貞より寺領の寄進を受ける。室町時代、山下に真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展した。徳川家康より朱印地30石を与えられる。江戸時代、徳川光圀が来訪し茶室に遍覧亭という号を贈る。紅葉の名所として知られ、諸書に弘法寺の紅葉狩りのことが記されている。明治時代、火災のため諸堂は焼失した。その後、再建され現在に至る。境内には、日蓮の真刻と伝える大黒天を祀る大黒堂、鐘楼、仁王門、伏姫桜とよばれる枝垂桜があり、小林一茶、水原秋桜子、富安風生などの句碑がある。
現住は81世石野日英貫首(木更津市光明寺より晋山)。池上法縁五本山のひとつ。

 涙石

 正面石段の下から27段目にある石。石段は千個以上の石からなるが、この石だけ涙を流すかのように濡れ続けている。
江戸時代に、作事奉行の鈴木長頼が日光東照宮の造営のために使う石材を伊豆から船で運ぶ途中、市川の根本付近にさしかかった時に船が動かなくなり、積んでいた石を勝手に近くの弘法寺の石段に使用してしまった。長頼は幕府から責任を追及され石段で切腹。その時の無念の血と涙が染み込んでいるという伝承がある。
また、市川市には水脈が多く300以上の湧き水があり、たまたま石の一部が水脈に触れているのではないかとの説もある。

 そんな弘法寺の境内を後にして、次に向かったのが、2年前のお花見で訪れた里見公園へ行く。今は時期的に花も咲いておらず淋しい感があるが、桜が咲く頃は、池に桜の枝が垂れ下がりまるで一服の絵を見ているようで、それは実に素晴らしい桜花爛漫なる光景だ。桜の代わりに噴水で我慢してとばかりに噴水が、威勢良く放たれその池野周りで、昼食Thymeを採ることとした。私は早速、缶ビールのフルトップを抜き噴水の舞踊を見ながら喉を潤す。あちらのベンチを見ると北区のS,Mさんが、GuideHelperのK,Aさんと仲良く二人で並んで満面笑みを浮かべお神酒を飲んでいる。 「ヤヤヤ、イイコッテスナ。」 天の声「バカ、ヤクナヨ。」

 里見公園

 里見公園は国府台城跡に整備された公園です。国府台城は、『鎌倉大草紙』によれば、1478年に太田道灌が「下総国国府台」に陣取り、仮の陣地をかまえたとあり、これがはじまりとする説がある。
 国府台は標高20〜25メートルの下総台地の西のはしで、江戸川に平行して南へ張り出した大きな舌状の丘陵であり、現在の里見公園のなかに土塁状の城郭遺構が現存している。この地はその後、天文と永禄の二度にわたり、北条氏と里見氏らにより行われた合戦、いわゆる国府台合戦の舞台となっている。

 しかし、ジッとしていてビールを飲んだせいもあるのかも知れないが、風も冷たく身体が震えてくるような寒さなので、昼食Thymeもそこそこにして、矢切の渡しへと歩を進めることとした。広い江戸川の流れを見ながら堤防を歩いて行くと結構大粒の雨が降ってきたので、傘をさしO,Sさんとの愛々傘では、全く色気もないのだが、仕方なく傘をさして堤防を歩いて行く。(;_;)
そんな堤防を歩きやがてお目当ての「矢切の渡し場」へ到着した。舟は東京側へ出たばかりで、暫し待つと薄曇りの空の下、舟がこちらへとやって来た。遠くから見るとまるで小舟のようだが、近づいてみると舟は結構大きく船頭さんによると定員は33名だとのことだ。

 これから江戸川の川幅130m、水深6mの川下りならぬ、情緒豊かなる矢切の川渡しだ。船頭さんによると東京川から来る方が、艪をこぐのは疲れるとのことで、こちら千葉県側からの艪こぎの方が楽だとか。その船頭さんは白い上下の作業服を着た若い方で、しっかりと艪をこいでいた。

一、「つれて逃げてよ……」
  「ついておいでよ……」
  夕ぐれの雨が降る 矢切の渡し
  親のこころに そむいてまでも
  恋に生きたい ふたりです

二、「見すてないでね……」
  「捨てはしない……」
  北風が泣いて吹く 矢切の渡し
  噂かなしい 柴又すてて
  舟にまかせる さだめです

三、「どこへ行くのよ……」
  「知らぬ土地だよ……」
  揺れながら艪が咽ぶ 矢切の渡し
  息を殺して 身を寄せながら
  明日へ漕ぎだす 別れです

 こんな「矢切の渡し」の歌が聞こえてきそうな誠にゆったりとした時間の流れだ。

 矢切りの渡し

 矢切の地名は、江戸川の渡し舟として有名な矢切の渡しの由来でもある。江戸川をはさむ矢切と東京都葛飾区柴又を結んでおり、現在も渡し舟が運行されている。渡船の料金は大人100円、子供・自転車各50円(2010年現在)。「房総の魅力500選」に選定されているほか、柴又帝釈天界隈とともに環境省の「日本の音風景100選」に選定されている。
この渡しは江戸時代初期に江戸幕府が地元民のために設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場のうちのひとつであり、観光用途に設けられたものではない。かつては官営だったが、その後民営となり、代々個人により運営されている。
この渡しが日本全国に有名になったのは、明治時代の伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(1906年)によるところが大きい。現在、矢切にこの小説の文学碑が建立されている。 また、矢切の対岸柴又を舞台とする映画「男はつらいよ」シリーズの作中にも、しばしば登場する。
現在はほぼ観光用途のために存在するが、元が渡し舟だったため、渡し場に多少の土産物屋がある程度で、特に観光化されているわけではない。このため繁忙期や風の強い日などは、モーターで運行される。なお矢切側の公共交通機関がやや遠いため、多くの乗客は柴又側から乗船し、往復利用している。

 そんな矢切の渡し舟も程なく、東京側の船着き場に着き、我らご一行下船して、今度は、柴又帝釈天へと向かう。その途中で「寅さん会館」の見学をする。この会館には、映画の作品である「男はつらいよ」の寅さん役でおなじみの渥美清やそのstaffの面々と柴又のミニ商店街が飾られている。この「寅さん会館」も最近では、観客もめっきりと減り衰退化をしているとのこと。そのため、「寅さん会館」に代わり、今年の12月に「山田洋次記念館」がOpenするそうだ。

 映画48作品「男はつらいよ」

1-12作

 男はつらいよ
- 続・男はつらいよ
- フーテンの寅
- 新・男はつらいよ
- 望郷篇 - 純情篇 - 奮闘篇 - 寅次郎恋歌 - 柴又慕情 - 寅次郎夢枕 - 寅次郎忘れな草
- 私の寅さん

13-24作 

寅次郎恋やつれ
- 寅次郎子守唄 - 寅次郎相合い傘 - 葛飾立志篇 - 寅次郎夕焼け小焼け - 寅次郎純情詩集 - 寅次郎と殿様 - 寅次郎頑張れ! - 寅次郎わが道をゆく - 噂の寅次郎 - 翔んでる寅次郎 - 寅次郎春の夢

25-36作

 寅次郎ハイビスカスの花
- 寅次郎かもめ歌 - 浪花の恋の寅次郎 - 寅次郎紙風船 - 寅次郎あじさいの恋 - 花も嵐も寅次郎 - 旅と女と寅次郎 - 口笛を吹く寅次郎 - 夜霧にむせぶ寅次郎 - 寅次郎真実一路 - 寅次郎恋愛塾 - 柴又より愛をこめて

37-48作

・特別編 幸福の青い鳥
- 知床慕情 - 寅次郎物語 - 寅次郎サラダ記念日 - 寅次郎心の旅路 - ぼくの伯父さん - 寅次郎の休日 - 寅次郎の告白 - 寅次郎の青春 - 寅次郎の縁談 - 拝啓車寅次郎様 - 寅次郎紅の花 - ハイビスカスの花 特別篇

 そんな寅さんとお目にかかり、今度は「山本邸」の庭園を見学する。その庭園には、梅が咲いて甘い匂いを漂わせていた。そんな梅に負けてはならずとばかり、白いツバキが咲き競っている。
和洋折衷の建物は、時空を超越した歴史的変遷を見せている。邸内の見学はパスして、柴又帝釈編へ歩を進める。

この山本亭は、山本氏が使用していたものを昭和63年3月14日に葛飾区に移転され、平成3年4月から一般公開しました。山本家の住宅と工場はもともと浅草の小島町一丁目にありましたが、大正12年9月1日の関東大震災で被害を受け山本栄之介氏が当地に移り住み、取得した建物(製瓦業者の屋敷跡)を改修整備しました。大正15年から昭和2年頃2世帯東棟の玄関・廊下を改修し、西棟および蔵前廊下の新築をしました。昭和5年東棟の湯殿を火災で損傷、その頃、居宅の改修が施され、居宅棟がほぼ今日の状態と同じになりました。長屋門は昭和5〜8年に現在のものに改修されたものです。

 木造・平屋建て・寄棟・瓦葺きの屋根を載せた建物です。様式からみれば伝統的な長屋門の形態を踏襲しながら外観意匠を洋風化している点が著しい特色となっています。敷石と土台は花崗岩で造られ、外観は漆喰大壁づくりで腰壁・中間壁・コーニスの3部に大別されています。腰
壁は、南面だけ特に鉄平石乱れ張りとし、中間壁の隔部にタイルを張り全体としてコーナーストーン(隔石)に似た趣を表し、コーニスは漆喰だけで凹凸を施し、軒天井も漆喰塗りで出来ています。正面には、大扉を吊る親柱とその上に渡る冠木とを極度に太く表現し、これにより入り口の意匠を整えています。長屋門の中央通路の床は、花崗岩敷、天井は白漆喰の折り上げ形式、中央部の円形メダイヨン内に8角形電灯がついており、また、両袖の部屋の床は6角タイル敷、ステンドグラス上げ下げ式の窓などが、一層洋風的な雰囲気を醸し出しております。

 柴又帝釈天で、我らご一行は、それぞれの願いを込め参拝した。そしてこれから柴又の商店街を思い思いに見て歩くためこの帝釈天で、RooNav担当のA,Sさんに敬意を表し、解散となった。

又帝釈天

所在地 東京都葛飾区柴又七丁目10番3号
 山号 経栄山
 宗派 日蓮宗
 本尊 大曼荼羅
創建年 寛永6年(1629年)
 開基 禅那院日忠、題経院日栄
正式名 経栄山 題経寺

 柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん)は、東京都葛飾区柴又七丁目にある日蓮宗の寺院の通称である。正式名称は経栄山 題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)である。尚、「帝釈天」とは本来の意味では仏教の守護神である天部の一つを指すが、日本においてはこの柴又帝釈天を指す場合も多い。

概要

 江戸時代初期の寛永6年(1629年)に、禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。
近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』を始め、多くの文芸作品に登場し、東京近郊(当時は東京ではなかった)の名所として扱われた。20世紀後半以降は、人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるようになる。年始や庚申の日(縁日)は非常に賑わい、映画『男はつらいよ』シリーズ制作中は、観光バスの団体客が大勢訪れたこともあるが、同シリーズの終焉に伴い、参拝客、観光客が年々減少している。
「柴又帝釈天」の通称で専ら呼ばれるところから、帝釈天が当寺の本尊と思われがちだが、日蓮宗寺院としての本尊は、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)である。また、当寺が柴又七福神のうちの毘沙門天にあたることから、「帝釈天=毘沙門天」と解説する資料が散見されるが、帝釈天と毘沙門天はその起源を全く異にする別々の尊格であり、柴又七福神の毘沙門天は、帝釈天の脇に安置される多聞天(別名毘沙門天)を指すと解される。

歴史

 縁起によれば、題経寺の創建は江戸時代初期の寛永6年(1629年)で、開山は中山法華経寺(千葉県市川市)19世の禅那院日忠とされている。なお、寺の説明によれば、実際に寺を開いたのは日忠の弟子にあたる題経院日栄であるとされる。本堂右手にある釈迦堂(開山堂)に日栄の木像が安置されていることからも、この日栄という僧が実質的な開山であると思われる。
題経寺の中興の祖とされているのが9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧であり、彼は一時行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を再発見した人物であるとされている。日敬自ら記した縁起によれば、この寺には宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊があったが、長年所在不明になっていた。それが、日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から発見されたという。この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、片面には右手に剣を持った帝釈天像を表したもので、これが発見されたのが安永8年(1779年)の庚申の日であったことから、60日に一度の庚申の日が縁日となった。それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まっていったという。柴又帝釈天が著名になり、門前町が形成されるのもこの時代からと思われる。近隣に数軒ある川魚料理の老舗もおおむねこの頃(18世紀末)の創業を伝えている。

 境内

 京成電鉄柴又駅前から参道が伸びている。参道の両側には名物の草だんごや塩せんべいを売る店、老舗の川魚料理店などが軒を連ねている。参道の突き当たりに二天門が建ち、正面に帝釈堂、右に祖師堂(旧本堂)、その右手前に釈迦堂(開山堂)、本堂裏手に大客殿などが建つ。境内はさほど広くなく、建物は大部分が明治以降の建築である。二天門、帝釈堂などは彩色を施さない素木造のため一見地味に見えるが、細部には精巧な装飾彫刻が施されている。

 二天門

 明治29年(1896年)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施す。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されたものである。

 帝釈堂

 二天門を入った境内正面に位置する。手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915年)、拝殿は昭和4年(1929年)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されている。

 帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、中でも胴羽目板の法華経説話の浮き彫り10面が著名である。これは法華経に説かれる代表的な説話10話を選び視覚化したもので、大正11年(1922年)から昭和9年(1934年)にかけて、加藤寅之助ら10人の彫刻師が1面ずつ分担制作した。この羽目板の上方には十二支と天人、下方には千羽鶴が表され、高欄(縁)より下の部分には花鳥および亀を浮き彫りで表す。これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け、「彫刻ギャラリー」と称して一般公開している(「彫刻ギャラリー」と大客殿、庭園の見学は有料)。

 祖師堂(本堂)

 帝釈堂の向かって右に建つ。帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。こちらが日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅である。

 釈迦堂(開山堂)

 江戸時代末期に建立された、寺内最古の建築であり、奈良時代作という釈迦如来立像と、開山日栄、中興の祖日敬の木像を安置する。

 大客殿

 本堂裏に位置する。昭和4年(1929年)の完成で、入母屋造瓦葺、平屋建の左右に細長い建築である。東京都の選定歴史的建造物になっている。座敷4室を左右1列に配し、これらの手前には庭に面し、ガラス障子を立て込んだ廊下がある。座敷のうちもっとも奥に位置する「頂経の間」の「南天の床柱」は、日本一のものといわれ、直径30センチ、滋賀県の伊吹山にあった樹齢約1,500年の南天の自然木を使用したものである。

 邃渓園(すいけいえん)

 大客殿前に広がる池泉式庭園で、昭和40年(1965年)、向島の庭師永井楽山の設計による。庭
園への立ち入りは禁止されているが、周囲に設けられた屋根付きの廊下から見ることができる。
 私達は皆さんと別れてから、境内の商店街を歩き草団子を買い求め即、店先で食べる。甘みも抑えてあり、空きっ腹だったので中々美味しかった。そして私達と北区のS,Mさん達とで、本当に狭いカウンターだけの「焼き鳥屋」で焼き鳥をオツマミにして、生ビールを飲む。この焼き鳥が実に美味くついついお酒にも手が出て、 よか気持となった頃にK,Yさん、Y,Tさん達も現れ改めて乾杯をしたのであった。 (^_^)

 こうして市川歴史探訪遊歩も雨もさほど降らずRooNav担当のA,Sさんのお陰で、見所満載の 遊歩も無事終了となった。



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 〜〜≪オシマイ≫〜〜



 「補足・参考文献」

       市川市

   面積  57.40km2
       (境界未定部分あり)
  総人口  470,107人
       (推計人口、2012年2月1日)
 人口密度  8,190人/km2
隣接自治体  千葉県:浦安市、船橋市
       松戸市、鎌ケ谷市
       東京都:江戸川区
  市の木  黒松
  市の花  バラ
  市の鳥   ウグイス
  市の虫   スズムシ

 市川市(いちかわし)は、千葉県北西部にある人口約47万人の市。千葉市、船橋市、松戸市に次いで千葉県では人口第4位。

概要

 市川市は、江戸川および旧江戸川をはさんで東京都の隣、都心から20km圏内に位置し、首都圏のベッドタウンとして発展している。
南部は住宅地としてひらけているが、北部の傾斜地等には豊かな自然が斜面林などとして、いまだ残っている。市北部の市川、真間、新田、平田、菅野、八幡などは市の木であるクロマツも多く静かなたたずまいであり、これらの地区は、戦前は東京下町の富豪が別荘を構えたり、戦後も敷地の広い邸宅が多い高級住宅地となっている[1][2]。過去には永井荷風、幸田露伴(次女の幸田文、孫の青木玉も同居)、北原白秋など数多くの文人が好んで住み、市川に関する記述がある作品も多い。これら文人の足跡が、市民団体や市などの手で「市川文学の散歩道」として残されている。上記のようなクロマツの繁った住宅街の存在や、歴史のある町で古刹が多いこと等から千葉の鎌倉と呼ばれることもある[3]。
しかしながら、近年は大邸宅も相続等の関係で切り売りされたり、マンションや駐車場に変わってしまい少なくなっている。また、車社会となり路地が狭く入り組んでいる等、不都合ともなっている箇所も多く、人口の増加や開発も進み閑静な風情も薄れつつある。

地理

 千葉県の北西部にあり、市の西部は江戸川と旧江戸川を挟んで東京都江戸川区と接している。北部は松戸市、東部は船橋市、北東部は鎌ケ谷市と接し、南部は浦安市、東京湾と接する。市の南部は海抜2m程度の平野で、北部は海抜20m程度のなだらかな台地となっている。最高点は国府台地先、里見公園内で30.1m。最低点は福栄地先で0.1mとなっており、一部で海抜ゼロメートル地帯が広がる。
地質学において東北日本と西南日本の境目とされるフォッサマグナ東縁の柏崎千葉構造線が北西-南東走向に貫いている。
市川市と船橋市の境界付近から東京湾沿いに千葉市中央区付近まで延びる長さ約22kmの東京湾北縁断層の存在が推定されていたが、調査の結果、推定されていた位置を含め調査した範囲内には活断層は確認されなかった。(千葉県の見解)
1992年(平成4年)度の県の調査結果に加え、国の地震調査研究推進本部地震調査委員会においても、2001年(平成13年)11月に、「東京湾北縁断層は活断層ではない」との評価を公表した。
  歴史

 市川市は、縄文時代の昔より栄えた地域で、市内には堀之内貝塚、姥山貝塚、曽谷貝塚等多数の貝塚があり、その集中度は国内最大級である。また、律令時代には市域に下総国の国府が置かれた。市内の真間に手児奈という絶世の美少女がいたという伝説があり、そのうわさは遠く都にまでとどき万葉集に詠まれるほど有名で、当時は東国(関東)を代表する地域だった。
市川の地に人が住みはじめた歴史は古く、市内北部の台地上には、旧石器時代の遺跡がいくつかある(丸山遺跡、権現原遺跡、今島田遺跡等)。また、貝塚等縄文時代の遺跡は約60箇所にのぼる。さらに、弥生時代の遺跡も何箇所かある(須和田、杉ノ木台、小塚山、宮久保、国府台等)。
市川市の中でも、国府台(こうのだい)より広がる高台は、常に市川一帯の歴史を担ってきた。古墳時代初めには小集落ができた(北根、前原、鳴神山、杉ノ木台)。古墳はこのときはまだない。その後、この高台上にも多くの古墳が築かれた。法皇塚古墳(東京医科歯科大構内)、弘法寺古墳(真間山弘法寺敷地内)、明戸古墳(里見公園内)の3基の前方後円墳のほか、国府台近辺だけで約30箇所の古墳があったと推定されている(国府台古墳群)。
その後、国府台に律令制により国府が置かれ、下総国の中枢となった。10世紀には平将門の乱に巻き込まれ、12世紀には石橋山の合戦に敗れて安房国に落ち延びた源頼朝が、上総介広常と下総国府で合流して軍勢を立て直した。15世紀には太田道灌が国府台に仮陣を置き、その弟の太田資忠が国府台城を築城した。16世紀には、国府台城は、里見義堯ら里見氏と後北条氏との間で2度にわたり戦われた国府台合戦の舞台となった。
戊辰戦争の際には、江戸を脱出した大鳥圭介が率いる旧幕府陸軍が、国府台に集結した。これに土方歳三らの新撰組も合流した。1箇月ほどで大鳥・土方らは宇都宮を経て日光へ向かったが、その後、別の旧幕府軍(撤兵隊)と官軍の戦いが、この台地下の市川から船橋にかけて戦われた(市川・船橋戦争)。
幕末、国府台地区は勝海舟によって国会議事堂の選定地として考慮に入れられたこともある。
また、1875年(明治8年)には、教育機関の最高学府として国府台大学校計画(この計画は岩倉使節団 に随行して欧米諸国の大学校を調査してきた田中不二麿を中心に「欧米二通ズ真ノ高等大学校」の実現を目指して計画されたもので、現在の東京大学とは別の教育機関として構想されたものだった。)が持ち上がり、具体的な案もまとまり、土地の買収も進められていたが諸事情により実現しなかった。
さらに1885年(明治18年)には都心からのアクセスがよく、渡河訓練をはじめ、各種訓練に適した立地に恵まれていたことから、大学校用地跡に陸軍教導団が置かれた。教導団は1899年(明治32年)に廃止されたが、その後、陸軍の野砲兵連隊・国府台陸軍病院などが置かれ、市川は軍都として栄えた。
終戦後、陸軍の広大な土地は、国立国際医療研究センター国府台病院(旧・国府台陸軍病院)、国府台スポーツセンター、東京医科歯科大学、千葉商科大学、和洋女子大学、筑波大学附属聴覚特別支援学校、千葉県立国府台高等学校、市川市立第一中学校、千葉県血清研究所の各施設に変わった。

 国府台以外の地区についていえば、中山地区は、中山法華経寺の門前町として発展した。行徳地区は成田街道の宿場町として、また江戸川水運の中心地として発展した。また、近世における行徳地区の製塩業は有名である。

  市川の由来

 市川の名前の由来は、現在の江戸川が当時東国一の川であったことから一の川が訛ったとする説、江戸川の河岸に川舟が集まり定期的に市が開かれていたことに由来するという説の2つが有力である。ちなみに市川の地名が初めて登場するのは『義経記』。石橋山の戦いで敗れ安房で再起した源頼朝が、軍勢を率いて下総の松戸庄市河に達するという記述がある。