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    Circle≪ゆ〜ぽぴあ≫・遊歩記
         第223回遊歩
 「ぶらり東京Walk・深川遊歩」
≪下町情緒あふれる門前町と回遊式林泉庭園を訪ねる食べ歩き遊歩・・!!!










  遊歩日:   2015年4月18日(第3土曜日)
  遊歩先:    富岡八幡宮・法乗院・深川江戸史料館・清澄庭園・清澄
          公園
  天 候:    晴れ
  参加者:    5名  
  執筆者:    S,Y

 《行 程》

 ◎地下鉄門前仲町駅=徒歩5分⇒富岡八幡宮(横綱力士碑、大関碑)=5分⇒⇒法乗院=20分⇒深川江戸史料館=10分⇒清澄庭園⇒清澄公園⇒門前仲町 解散


 ≪ 遊歩記≫

 門前仲町駅10時集合で始まりました。参加者一人、お見えにならないので、電話して確認したら、日付を間違えましとのことでした。

 深川八幡宮の中を散策し、横綱、大関の碑をながめ担当が気がゆるんでしまい、深川不動堂を飛ばしてしまいました。次に法乗院で、閻魔様を拝み賽銭をいれたら、ありがたい説法がながれだし、びっくりしたら、いろいろな説法バージョンがあり、賽銭を入れるとはじまります。初めは、並み額を入れたんですが、途中から一円に変えました。尚、御開帳は、1日16日です。次の霊厳寺にて、松平定信のお墓にお参りしてから、深川江戸資料館に行きました。

 「深川江戸史料館」の館内は江戸時代の下町風景を再現したもので、説明を聞いて入り口にあった、たいほうの等身大のパネルに触れて、中に入らずにお昼の深川丼を食べてから、清澄庭園の散策を楽しみ、食い意地のはった鯉にさわったりして遊び、奥にあった八重桜にみとれてきました。となりにある公園にある江戸火の見櫓風時計台を見て、少し早かった藤棚の下で、休憩をしました。咲いたらきれいだねって話ながら、ゆっくり元の門前中町駅に帰り、2時頃解散しました。

 なんかパッとしない散歩になりましたが、帰り道に、ここを芭蕉が歩いていますなんて、書いてある案内板を見つけ、ああそうなんだなんて思ったりして。以上が散歩コースでした。もんじゃは、好き嫌いがあるので、はずしました。新大橋を渡ると月島から築地、銀座にでますが、行きませんでした。



≪遊歩先の紹介≫


 「富岡八幡宮」

 主祭神 品陀和気命他八柱  社格等 旧府社、別表神社
  創建 寛永4年(1627年)  例祭 8月15日
主な神事 粟島神社献針祭、七渡神社例祭、富士浅間神社例祭他

 概要

 建久年間に源頼朝が勧請した富岡八幡宮(横浜市金沢区富岡)の直系分社である。大相撲発祥の地。氏子区域は、江東区の深川地域中南部と中央区の日本橋箱崎町および新川である。

 歴史

 歌川広重『名所江戸百景』より「深川八幡山開き」。春に半月の間「山開き」として永代寺の庭園を一般公開したという。1624年(寛永4年)、長盛法師が神託により砂州であった当地を干拓し、永代島に八幡宮を建立したことが創建とされるが、横浜市の富岡八幡宮の八幡宮明細帳(1893年(明治26年))では、江戸時代初期に行なわれた深川の干拓が難航したため、波除八幡の異名をもつ富岡八幡宮を分霊したとの記録が残る。創建当時は「永代八幡」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより60,508坪の社有地があった。八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受け、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれた。広く美麗な庭園は人気の名所であったという。なお、長盛法師は同じ地に別当寺院として永代寺も建立している。当社の周囲には門前町(現在の門前仲町)が形成され、干拓地が沖合いに延びるにつれ商業地としても重要視された。

 「深川不動尊」

  山号 成田山  宗派 真言宗智山派  本尊 不動明王
 創建年 元禄16年(1703年)  正式名 成田山 東京別院 深川不動堂
  別称 深川不動尊  札所等 関東三十六不動20番  文化財 旧本堂(江東区有形文化財)ほか
 成田山 東京別院 深川不動堂(なりたさん とうきょうべついん ふかがわふどうどう)は、東京都江東区富岡にある真言宗智山派成田山新勝寺の東京別院。通称は深川不動尊、深川不動堂と言われる。

 歴史

 江戸時代のはじめ、歌舞伎役者の市川團十郎が不動明王が登場する芝居を打ったことなどにより、成田山の不動明王を拝観したいという気運が江戸っ子たちのあいだで高まった。これを受けて、元禄16年(1703年)、1回目の成田不動の「出開帳」(現代風にいえば「秘仏特別公開」)が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれた。これが深川不動堂の始まりである。江戸における成田不動の出開帳は安政3年(1856年)まで、江戸時代を通じて12回行われたが、そのうち1回を除いて深川永代寺が会場となった[1]。
永代寺は明治維新後、神仏分離令により廃寺となり、旧境内は深川公園となった。しかし不動尊信仰は止むことがなく、明治11年(1878年)に現在の場所に成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として存続することが東京府により認められた。境内地は、深川公園の一部を永久かつ無償で借用することが認められたものである。明治14年(1881年)に本堂が完成。その後本堂は関東大震災・東京大空襲と二度にわたって焼失したが、本尊は焼失を免れた。永代寺は門前にあった塔頭・吉祥院が明治29年(1896年)に再興され、名跡を継いだ。なお、地名「門前仲町」は「永代寺の門前町」という意味である。

 「深川江戸史料館」

  深川江戸資料館(ふかがわえどしりょうかん)は、江東区立の江戸時代に関する資料等を収集、保存及び展示している資料館。公益財団法人江東区文化コミュニティ財団が指定管理者として、管理・運営している。江戸時代(天保年間頃)の深川佐賀町の街並みを再現した展示のほか、劇場、ホールを備えた文化施設。小劇場(定員300人)、レクホール(定員120人)は一般にも貸し出している。

 「清澄庭園」

 所在地 東京都江東区清澄3-3-9  分類 回遊式庭園
  面積 81,091.27m2  設備・遊具 集会場(涼亭・大正記念館)、児童遊園
 清澄庭園は、東京都江東区清澄にある都立庭園。池の周囲に築山や名石を配置した回遊式林泉庭園で、東京都指定名勝に指定されている。

 歴史

この地には元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる。享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推定されている。
1878年(明治11年)、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。1880年(明治13年)に竣工し、深川親睦園と命名された。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、1891年(明治24年)に回遊式築山林泉庭園としての完成を見た。なお、1889年(明治22年)には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられている。
 その後、1923年(大正12年)に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受けて邸宅も焼失したが、図らずも近隣住民の避難場所となり多くの人命が救われた。それを受けて1924年(大正13年)、三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。市は大正記念館の移築(1929年5月竣工)や深川図書館の新館舎建設(同年6月竣工)など整備を進め、1932年(昭和7年)7月24日に清澄庭園として開園した。1973年(昭和48年)に東京都は残る西半分の敷地を購入。翌年から整備を開始し、1977年(昭和52年)に開放公園(清澄公園)として追加開園した。

 見所

 中島を持つ広い池が中心にあり、ツツジとサツキの植えられた「つつじ山」や池の端を歩けるように石を配置した「磯渡り」などがある。また、園内には岩崎家が全国から集めたという名石が無数に置かれている。また池には人に慣れた多数のカメがいて、餌をあげたりと楽しめる。

 「大正記念館」

 大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿。戦災で失われ、貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建された。集会施設として利用可能。