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   Circle≪ゆ〜ぽぴあ≫・遊歩記


           第211回遊歩
 ≪北高尾の一峰・初夏のひと時歴史に                      思いを巡らせて歩こう・・・!!!









  遊歩日:   2014年7月13日(第2日曜日) 日帰り
  遊歩先:    八王子城山(標高 445m)
  参加者:    9名
  天 候:    薄曇り

 《行 程》

 ■高尾北口バス停1番乗場(10:02発)=バス⇒八王子城跡(10:22着)コレヨリ徒歩
八王子城跡入口⇒八王子城跡管理棟⇒金子曲輪⇒本丸跡(昼食)
下山は往路を戻る。

 ≪遊歩記≫

 参加者9名が、八王子城跡バス停で下車し少し歩き、八王子城跡管理棟で、トイレを済ませ山自宅をしてから、恒例の声出しをして、RooNav担当のO,Aさんを先頭に二班編制で、薄曇りの三伏の七月空の下、城跡目指しイザ、出発だ。八王子城山遊歩の参加者9名のうち、何と女性が6名で、男性が3名というCircle《ゆ〜ぽぴあ》のBeautiful Womanが勢揃いした遊歩となった。「チャー、カナリキツイネ。 (^^;) 」

 この八王子城山は、高尾山主脈にある小仏城山と並んで、古からの歴史的変遷を重ねてきた城跡の一つである。このように二つの城山は、歴史の面影を残す山で、普段は単に低山として、歩いてしまうが、こうした城跡の歴史を辿ってみるのもまた、興味を引くものがある。 私は過去、八王子城山から二度、そして高尾山表主脈の堂所山から二度この北高尾主脈を歩いたことがあるが、マア、兎に角、アップダウンがものすごく登山の時間もかかり、眺望も余り良いとは言えず、言わば余り歩きたくないコースだ。以前、単独で京王高尾山口駅から、城山、景信山、堂所山と歩きアップダウンの峰々をヘトヘトになって、最後のGaul点、八王子城山で缶ビールのフルトップを開け渇いた喉に流し込んだことがあった。そして更に疲労困憊の足取り重く高尾駅まで8時間位歩き通してしまった。

 今日は薄曇りの天気で、直射日光の照り付けもなく歩くことが出来幸である。山道の両側には年輪を刻んだ巨木が現れまた、草が鬱蒼と繁茂し、低山ながらその光景は立派なる山容を成している。ゆっくりとした足取りで、徐々に傾斜が増す山道を我ら9名遅れるyuupolerもおらず快適に歩き行く。しかしながらいくら低山でも梅雨時のこの時期は、かなり蒸し暑くそれだけに背中は汗でビッショリとなり、思わず昼食時の缶ビールが、脳裏を過ぎる。途中休憩で一本立てて一息つく。そして狭い階段を昇るとやがて八王子城山の本丸跡に到着した。そこからまた、階段を下ると木像作りの古い舞台、社等がひっそりと建っている。

 そして広場にベンチが備えられた展望の良い所で、今日のお目当て、昼食Thymeとなった。私と和美が座ったベンチには、先客の高齢者が、一人、美味しそうに缶ビールを少しずつ実に味わい深く飲みながら、お弁当に箸を付けている。そんな所作を見て、私などはビールは息もつかずゴクゴクゴクと一気に飲むのだが、良くもビールをそんなにゆっくりと飲めるものだと何故か感心してしまった。当然、私も缶ビールのプルトップを抜きそれこそ一気に渇いた喉にゴクゴクと流し込む。そんな缶ビールが空になったら、今度はおつまみのチクワを食べながら、レモン缶酎ハイのプルトップを抜きこれもまた、ゴクゴクと飲む。最近私は缶ビールと缶酎ハイをダブルで持参するようになり、お陰で、下りの足取りが実に軽いものである。

 そして午後になると最近雷雲が発生し、ゲリラ雷雨がものすごいので、早めに昼食Thymeを切り上げ、下山開始となった。下山はビール、酎ハイのお陰で、気分も高揚しスタコラサッサトあっという間に下山し、八王子城山管理棟で、トイレ休憩をして、丁度良くバスの発車時間に間に合ったので、それに乗り込み高尾駅に向かった。

 
〜〜[オシマイ]〜〜


 ≪遊歩先の紹介≫ 


「小仏城山」

 高尾山系表主脈の一峰で、東京都と神奈川の境にあり、山頂には、電波中継塔があります。戦国時代以前には小規模な山城でだったそうで、それが山名の由来になっているそうです。672mのこの山は南小仏山、南峠、毛無山などとも呼ばれる。
往古関所の有ったのはこの山で、今の小仏峠ではない。
昔の甲州街道は、この城山から東に蹴出した尾根を絡んで此処へ登り底沢へ降ったものなのである。天正年中、高尾山の僧徒がここへ関を置いたのを後に峠へ移し、更に寛永12年(徳川幕府が峠より引下ろして駒木野宿に設けたのである。


 「八王子城山」

 八王子城(はちおうじじょう)は、日本の16世紀に、当時の武蔵国(東京都八王子市元八王子町)に存在していた城である。

 城郭構造 山城  築城主 北条氏照
  築城年 1587年(天正15年)頃
  廃城年 1590年(天正18年)
  遺構 石垣、曲輪、御主殿跡
指定文化財 国の史跡
 再建造物 石垣・虎口・引き橋


 概要

 北条氏の本城である小田原城の支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点であった。延喜13年(913年)に華厳菩薩妙行が山頂で修行中に牛頭天王と8人の王子が現れた因縁で延喜16年(916年)、この城の山頂に八王子権現を祀ったことから、八王子城と名付けられた。

 八王子城は標高445m(比高約240m)の深沢山(現在の城山)に築城されており、典型的な中世山城である。縄張りは、北浅川・南浅川に囲まれた東西約3km・南北約2〜3kmの広大な範囲に及び、山の尾根や谷など複雑な地形を利用し、いくつかの地区に分けられていた。地区は、山頂に置かれた本丸、松木・小宮曲輪など何段もの曲輪を配置した要害地区、城山川沿いの山腹に御主殿と呼ぶ館を構えてその東側にアシダ曲輪で防衛している居館地区、城山川に沿った麓に城下町を形成した根小屋地区、などで構成されていた。
周辺にはいくつもの砦を配し、それらを結ぶ連絡道の要所には、深い堀切や竪堀、兵舎を建てるための曲輪などが造成されていた。特に、居館地区の南側尾根にある太鼓曲輪は、5つの深い堀切で区切られ、南側を石垣で固めるなど、容易に尾根を越えられない構造となっていた。城全体が余りに広大であったため、落城時には未完成であったと言う説もある。

 城下町には、武家屋敷のある中宿、刀剣鍛冶職人の居住区である鍛冶屋村に加え、滝山城下から移転した商業地区の八日市・横山・八幡三宿があった。また出城には、搦手の防衛線を形成する浄福寺城(案下城)、小田野城の他、初沢城などがあった。
なお、八王子市文化財課が管理する現在の「八王子城跡」としての範囲には、太鼓曲輪尾根の南斜面を含む南部のエリアなどが含まれておらず、各所に霊園や私有地も入り組んでいるため、史跡としては実際よりかなり狭い範囲に限定されている。このため、住宅地の側にも多くの遺構を確認することができる。

 歴史

 北条氏康の三男・氏照が1571年(元亀2年)頃より築城し、1587年(天正15年)頃に本拠とした。 氏照は当初、大石氏の滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐国(現在の山梨県)・武田信玄軍に攻められ、その際に滝山城の防衛の限界を感じ、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築を行い、本拠を滝山城から移した。滝山城は広大かつ多くの角馬出や内枡形を備えた近世的な平山城であったが、山城である八王子城に移ったことで氏照は時代に逆行したとも言われている。しかし、八王子城は一般的な山城のような尾根と堀切を利用した縦深防御に加えて、侵入してくる敵に対しいたる所から側射をかける仕組みになっている。織豊系城郭と比較するとかなり独特ではあるが、より近世的な戦術を志向している。

 八王子城合戦

 小田原征伐の一環として1590年(天正18年)7月24日(旧暦6月23日)、八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には、城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民・婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠ったに過ぎなかった。
豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)・北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、一時攻撃の足が止まった。その後、絡め手側別働隊の奇襲が成功し、その日のうちに城を落とした。氏照正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。

 八王子城攻防戦を含む、この小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は当主・北条氏政とともに切腹した。その後新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。