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   Circle≪ゆ〜ぽぴあ≫・遊歩記

         第218回遊歩

  〜江ノ電完乗ぶらり旅〜
≪如月の一日・江ノ電駅周辺の名刹と
   名所途中下車の旅・・・!!!


.






  遊歩日:   2015年2月1日(第1日曜日)
  遊歩先:    小動神社・七里ガ浜・稲村ヶ崎・極楽寺・鎌倉大仏・鶴岡八幡宮 
  天 候:    晴
  参加者:    8名

 《行 程》

 新宿 → 藤沢 乗り換え回数:0回 所要時間:57分 料金:590円
 ●新宿{09:56発小田急小田原線快速急行 藤沢行}⇒■藤沢(10:53着)

 藤沢駅(11:10)=江ノ電乗車⇒腰越(11:25)⇒小動神社(11:33)⇒鎌倉高校前(12:00)=江ノ電⇒稲村ヶ崎駅(12:08)⇒稲村ヶ崎viewpoint(12:20)⇒稲村ヶ崎駅(12:47)=江ノ電⇒極楽寺駅(12:50)⇒極楽寺参拝(12:53)⇒五陵神社(13:10)⇒長谷寺前(13:17)⇒レストラン(13:30・昼食休憩)⇒鎌倉大仏(14:20)=徒歩⇒鶴岡八幡宮(15:30)⇒解散


 ≪遊歩記≫

 江ノ電藤沢駅にて、RooNav担当、K,Mさんのルート説明を受け参加者8名が、極彩色に彩られたメルフェンチックな2両編成の江ノ電に乗り込む。車内は日曜日だけに観光客でほぼ満員だ。私は江ノ電を始発の藤沢駅から乗るのは初めてで、それだけに興味津々で窓外を見ると車道の直ぐそばを走ったり、住宅の軒先すれすれという感じで、江ノ電が走って行く。何だかまるで遊園地を走るおとぎの国の電車と言う感じで、それだけに人気が高いのであろうか。  (^_^)

 そんな思いで、右側の窓外を見ていると去年9月に行った江の島が遠く見え、また、七里ヶ浜の長く続く砂浜に小さな波飛沫を立てて、薄青い海にキラキラと如月の陽光が射すのどかなる光景が見えてきた。そして藤沢駅から20分も乗ったであろうか。六つ目の腰越駅で、第1番目の目的地へ行くため、我ら8名は下車した。

 日曜日なので、県道片瀬鎌倉線(国道134号)を走る車が多くまた、歩道も狭いため、落ち着いて、海辺も見ていられないのが、少々難点である。狭い歩道を我ら一列縦隊で、やがて第1の目的地「小動神社」へ到着した。ここで参拝を済ませ突端の小動岬へ歩を進める。ここからは、薄青い海に江ノ島が小さく浮かんで見える。ふと、空を見上げるとピーショロショロピーピーと鳴きながら、三羽のトンビが円く絵を描き、私達が美味しい餌でもくれるのでは無かろうと期待にみち悠々と大空を飛んでいる。そんなトンビに向かって、S,Yさんが、お菓子を空中高く放るとそれに向かいトンビが、パックと見事Catchして「ご馳走様」と急回転し飛んで言ってしまった。 (^^)

 そんな小動神社を後にして、鎌倉高校前駅へ行き、再び江ノ電に乗車する。そして七里ヶ浜駅を過ぎ稲村ヶ崎駅で下車する。そこから県道片瀬鎌倉線(国道134号)の七里ヶ浜の海岸線を歩き名勝「稲村ヶ崎」へ行く。ここは 現在は鎌倉海浜公園として整備されていて、園内には逗子開成中学校ボート部七里ヶ浜沖遭難事件(1910年)の慰霊碑(『真白き富士の根』の歌詞を刻む)、コッホ博士記念碑などもある。サーフィンのメッカとして有名であると同時に、海水浴場としても使用されてきたが、近年、砂の流出が進み、2003年(平成15年)からは海水浴場としての使用は行われなくなった。

この稲村ヶ崎の高台からの眺望は抜群で、薄青い海に江の島が浮かび、その大空の向こうに遠く真っ白な富士山が見える。当に絶景のviewpointだ。  (^o^)

 そんな稲村ヶ崎の絶景のviewpointを眺め、再び稲村ヶ崎駅へ向かい江ノ電に乗車する。そして乗ったと思ったら、一駅で直ぐに降りて、極楽寺へ歩を進める。今まで歩いていた湘南の海辺は、陽光がキラキラと海辺を照らし、2月とは思われないほど温かく陽気に満ち満ちていたが、これからの極楽寺までの車道は、陽も射さず切通となっているため薄暗く陰気に満ちているようだ。この陰陽の対比がまた、自然の摂理であろうや。その途中で、和美が「極楽茶屋」の看板を目にし、そこに「名物シラス丼」の文字を目にしたから、もう、イケマヘン。「ワーイ、シラス丼を食べるんや。・・・シラス、シラス」ともう、頭はすっかりと童心に返り、「シラス丼」で一杯だ。「全く極楽トンボデンナ。」 最も場所が極楽寺デンガナ。
 「ちゃんと、オチガツイテマンネンな・・・!!!」 (^_^)

 和美のそんな「シラス丼」のCallに煽られたのか。RooNav担当K,Mさんが、極楽寺を拝観せずに行こうとするので、「オヤオヤ、何のために来たのか。ワカリマヘンガナ。見てユキマショウヤ。」と慌てて引き留め、極楽寺の境内に入り、由緒ある古刹極楽寺を拝観する。境内には白梅が二分咲きになっており、寒くても森羅万象は、確実に春の息吹を伝えていると思うと嬉しくなってしまった。・・・  (^_^)

 極楽寺を拝観し、次の場所へ行くため歩を進め、その途中お目当ての「極楽茶屋」を探してみるのだが、一向に見当たらず、和美はもう、ガッカリである。すると傍にいたS,Mさんが「極楽茶屋は、極楽寺の境内に隣接して建っているのですよ。」と慰め半分で説明する。「早く言ってオクレンヤス。・・・!!!!」それでよっぽど引き返そうと思ったが、これから鎌倉市内に入れば、いくらでも「シラス丼」を食べさせる食堂が有ると思うので、「極楽茶屋」は、あっさりpassして次の五陵神社へ行き参拝を済ませ少し歩いて行くと長谷寺の大駐車場へ到達した。ここでトイレ休憩を済ませ、長谷寺へ行くのかと思ったら、この長谷寺を拝観するには、要に1時間はかかるので、RooNav担当のK,Mさんの判断でpassするとのことだ。

 それから市街地へ入ると両側にお土産屋、食堂、物産販売店等々が建ち並ぶ繁華街に来たので、みんなが「しらす丼」を食べさせる食堂が無いかとキョロキョロしながら探している。きっと皆さん、「極楽茶屋」で、しらす丼が食べられなかった和美に敬意を表し、探してくれているのであろうか。その厚意に報いるが如く、「しらす丼」をMenuに掲げているレストランが目に入り、そこへ一同、入店する。そして私はお目当ての「しらす丼」金、1080円と地ビール750円を注文する。その「しらす丼」のは美味しくこれでやっと和美も満足したようだ。

 そんな「しらす丼」の昼食を済ませ、今度は「鎌倉大仏」を拝観するため賑やかな街並みを抜け高徳院へ向かう。ここは四季を通じて参拝者で賑わっており、今日も大勢の善男善女で境内は込んでいる。そして幾星霜風雪に耐え鎮座している大仏像の荘厳なる御姿に深く頭を垂れ参拝する。・・・!!!  (^@-)

 そんな大仏像を拝観し、RooNav担当k,M三の予定では、再び江ノ電に乗り、「鶴岡八幡宮」へ詣でる予定であったが「歩く会なので、歩きましょうよ。」と言うみんなの意見により、ここから「鶴岡八幡宮」まで歩くこととした。繁華街を暫し歩きやがてその「鶴岡八幡宮」へ来てみるとここもまた、四季を通じて多くの善男善女で賑わっており、今日も大勢の参拝者で、境内は賑やかだ。そして61段の石段を昇りながら、県の天然記念物に指定され、鶴岡八幡宮のシンボルとして親しまれていた。樹齢800年とも1000年余ともいわれていたこの大イチョウが、平成22年(2010年)3月10日4時40分頃に、強風のために大銀杏は根元から倒れた。倒れた大銀杏は3つに切断され、3月15日、根元から高さ4メートルまでが、7メートル離れた場所に移植されたと言う、このイチョウが現在どこまで生長しているかと覗いてみたら、しっかりと短いながらもその生命力を発揮して、生長しているこの姿に驚異と感動を覚えた。

 「鶴岡八幡宮」の本殿で、二礼、二拍手、一拝して、参拝を済ませ、我ら8人、ここで解散となり、私と和美は、皆さんと別行動で、以前立ち寄った中華料理の店「紅虎」で、生ビールを飲み、温かい海鮮ラーメンを食べ、そして鎌倉駅から湘南ラインに乗り、よか気持でコックリ、コックリと電車で舟をこぎながら帰途に着いた。    ワーイ


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 〜〜≪オシマイ≫〜〜








≪遊歩先の紹介≫



[1]  江ノ島電鉄(江ノ電)

  鉄道事業

 東京から一時間弱という距離ながら、単線でローカル線の雰囲気を満喫でき(日中12分間隔運転なので適度な利便性は確保)、なおかつ、沿線が「若々しく明るいイメージの湘南」と、「かつて幕府があった古都鎌倉」であり、著名な観光名所や名勝が古来から多数存在し、さらに江ノ電自体の車両と沿線風景が特徴的で被写体になりやすいところから、テレビドラマやグラビア写真の撮影に利用されることが非常に多いため(「江ノ電を題材とした作品」の節も、その認知度は日本国内のみならず、国外でも相応にある。
社名の「江ノ島電鉄」で呼ばれることは、小田急江ノ島線・JR東海道線・JR横須賀線の乗り換え放送で「江ノ島電鉄線」と案内される以外にはほとんどなく、会社自身も専ら「江ノ電」と呼んでいる(グッズその他で「えのでん」と平仮名書きすることすらある)。
地下鉄・モノレール・新交通システムをのぞいて、通常の乗降スペースすべてに上屋(屋根)が掛かっているのは、日本で唯一、江ノ島電鉄だけである。
2009年10月14日より京福電気鉄道(嵐電)と営業面での提携をすることになった。これは、京福が開業100年、江ノ電が全通100年を翌年に迎えるのを記念し、同じ古都を走る路面区間を持つ鉄道会社同志ということで始まったもので、日本国内の鉄道会社同士がこの様な姉妹関係を締結するのは初めてのことである。両社は1980年代より広告宣伝では既にバーター契約を結んではいたが、今回はもっと踏み込んだ関係となり、両社ともそれぞれ相手側の車両色に塗装した記念の企画車両(江ノ電側は「嵐電号」を、嵐電側は「江ノ電号」)を当分の間運行する。なお、あくまでも営業的な提携に過ぎず、資金面や業務的な提携ではなく、姉妹提携という形をとっている。
2010年3月31日初電より全通110周年を記念して、鉄道係員(駅係員・乗務員)の制服を一新した。黒に近い濃紺の上下に、上衣袖部に江ノ電カラー(緑と黄色)のラインが入り、襟部にも同様のバイピングが入る、最近の他社局の鉄道係員の制服に共通する上品なスタイル。これにより、同社の鉄道係員とバス会社係員の制服が完全に分かれた。ちなみに、一般職はシングル、助役以上はダブルで、さらに管理職には袖部に金色線条2本が入る。女性用もほぼ同じスタイルだが、ベストが付く。制帽は、一般職は単色・主任は銀線一本、助役級は太細金線1本ずつ、駅長(乗務区長)は細い金線2本に太い金線1本。なお、駅の運転取扱者には、他社局と同様に臙脂または赤色の羅紗ラインの上に前述の銀線または金線が入る。

 2013年4月23日に台湾鉄路管理局と観光連携協定を締結し、同年5月1日から台湾鉄路管理局平渓線との共同送客として、江ノ島電鉄に使用済みの平渓線の一日乗車券「平渓線一日周遊券」を、台湾鉄路管理局台北駅および瑞芳駅に使用済みの江ノ島電鉄線の一日乗車券「のりおりくん」を持ち込むと、相手方の一日乗車券が無償で提供されるサービスを開始している。これをふまえ、翌2014年7月には台湾観光協会や江ノ島電鉄など4者が観光促進協定に調印した。

 路線

  34分 運賃300円 藤沢から鎌倉 14駅

▲藤沢⇒○石上⇒○柳小路⇒○鵠沼⇒○湘南海岸公園⇒○江ノ島⇒○腰越⇒○鎌倉高校前⇒○七里ケ浜⇒○稲村ケ崎⇒○極楽寺⇒○長谷⇒○由比ケ浜⇒○和田塚⇒鎌倉

 江ノ島電鉄線:鎌倉駅 - 藤沢駅 営業キロ10.0km 駅数15 信号所1
後述の併用軌道区間だけでなく、わずか10kmほどの短い路線でありながら以下のような特徴的な要素が多数詰まっている。

駅ビル2階にある高架駅(藤沢駅)
高架(藤沢駅 - 石上駅間)
近代的な鉄橋(鵠沼駅 - 湘南海岸公園駅間など)
半径28mの急カーブ(竜口寺前・1067mm以上の軌間としては日本最急)
道路と同一平面を共用するものとしては鉄道線唯一の鉄道道路併用橋
建築限界ぎりぎりにある民家(腰越附近)
湘南海岸沿い(腰越駅 - 稲村ヶ崎駅間)
一世紀が経つレンガ積みのトンネル(極楽寺駅 - 長谷駅間)
分岐器は手動転てつ操作

 保安要員としての車掌の乗務

本線上での増解結作業
改札窓口における改札鋏の使用
硬券の取り扱い(入場券)
ホーム長不足によるドアカット扱い(腰越駅)

 構内踏切

 単線ながら高頻度運転を実現する列車交換のための信号所
電車の二人三脚連接車
路面電車並みの低い表定速度(約18km/h)


 [2]  稲村ヶ崎(いなむらがさき)

 稲村ヶ崎は、神奈川県鎌倉市南西部にある岬で、由比ヶ浜と七里ヶ浜の間にあたる。通常、「稲村ヶ崎」の表記は歴史的用法や国の史跡の名称に使用し、住居表示などでは稲村ガ崎と表記される。

 稲村ヶ崎駅から坂を下って徒歩5分程度のところに所在する
地名の由来は、稲穂を重ねたように見えるためだと言われている。古来良質な砂鉄が採取できることで知られ、古代にはこの地で製鉄がおこなわれていたと考えられる。

 歴史

 奈良時代の鎌倉には「見越しの崎」あるいは「御輿の崎」「神輿の崎」と呼ばれる地名があったことが知られており、万葉集に、
鎌倉の 見越しの崎の 岩崩(いわくえ)の 君が悔ゆべき 心は持たじ
? 万葉集 巻14-3365
と詠まれている。この地名がどこを指すかについては、長谷の甘縄神社裏山という説と稲村ヶ崎という説があり、確定していない。しかし、岩崩の名所として知られていたならば、稲村ヶ崎説が有力となる。

 中世

 鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)5月に上野国(群馬県)新田荘を本拠とする新田義貞が挙兵し、分倍河原の戦いと関戸の戦いで北条氏の軍に勝利して鎌倉にせまった(鎌倉の戦い)。5月18日、新田軍は極楽寺口より攻撃を加え、21日には義貞みずから稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしたが、当時の波打ち際は切り立った崖となっており、石が高く、道が狭小なため軍勢が稲村ヶ崎を越えられなかった。そこで、義貞が潮が引くのを念じて剣を投じると、その後潮が引いて干潟となったので岬の南から鎌倉に攻め入ったという伝説が『太平記』に記されている。ただし、近年において天文計算により、稲村ヶ崎の潮が引いたのは18日のことであったことが明らかになり、『太平記』の日付には誤りがあると考えられている。

 近世以降

 幕末には外国船監視のための台場が置かれ、長州藩が防衛にあたった。
1928年(昭和3年)、県道片瀬鎌倉線(後の国道134号)の開削工事が行われ稲村ヶ崎の丘陵が分断されて切り通しが開かれた。また、第二次世界大戦中には伏龍隊の地下基地があった。

 1960年代から付近の丘陵地が大規模住宅地として開発され、1969年には旧大字極楽寺から分離され、稲村ガ崎一-五丁目として住居表示が実施された。

 現代

 現在は鎌倉海浜公園として整備されていて、園内には逗子開成中学校ボート部七里ヶ浜沖遭難事件(1910年)の慰霊碑(『真白き富士の根』の歌詞を刻む)、コッホ博士記念碑などもある。サーフィンのメッカとして有名であると同時に、海水浴場としても使用されてきたが、近年、砂の流出が進み、2003年(平成15年)からは海水浴場としての使用は行われなくなった。

 史跡指定

 1333年(元弘3年5月)の新田義貞の鎌倉幕府攻めの際、通行困難だったが義貞徒渉の際には干潟となって容易に進軍できたという伝説より、「稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)」として、 1934年(昭和9年)3月13日、国の史跡に指定された。



 [3]極楽寺

 所在地 神奈川県鎌倉市極楽寺三丁目6-7
  山号 霊鷲山
  宗派 真言律宗
  本尊 釈迦如来
 創建年 正元元年(1259年)
  開山 忍性
  開基 北条重時
 正式名 霊鷲山 感応院 極楽律寺
 札所等 鎌倉三十三観音霊場 22番
     鎌倉二十四地蔵20・21番
     鎌倉十三仏12番(大日如来)
     東国花の寺百ヶ寺 鎌倉1番
 文化財 五輪塔(忍性塔)・木造釈迦如来立像ほか(国の重要文化財)


 極楽寺は、神奈川県鎌倉市極楽寺にある真言律宗の寺院である。山号は霊鷲山(りょうじゅさん)。詳名を「霊鷲山感応院極楽律寺」と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は北条重時、開山は忍性である。
鎌倉市の西部、鎌倉七口の1つである極楽寺坂切通しの近くにある、鎌倉では珍しい真言律宗の寺院である。僧忍性が実質的な開祖である。中世には子院49箇院を有する大寺院であった。また周辺の町名でもある。

 歴史

 永禄4年(1561年)成立の『極楽寺縁起』によれば、当寺はもと深沢(現・鎌倉市西部)にあった念仏系の寺院(開山は正永和尚)を、正元元年(1259年)、北条重時が当時地獄谷と呼ばれていた現在地に移したものであるという。ここに極楽寺が建てられたのは、現実には死骸が遺棄されたり、行き場を失った者たちが集まったりする「地獄」ともいうべき場所になっていたためとの指摘がある[1]。北条重時は、北条義時(鎌倉幕府2代執権)の三男で、北条泰時(3代執権)の弟にあたる。重時は六波羅探題として17年間にわたり京都の最高責任者を務めた後に鎌倉に戻り、宝治元年(1247年)から鎌倉幕府の連署として5代執権北条時頼を補佐した。康元元年(1256年)には剃髪して仏門に入り、観覚と号している。弘長元年(1261年)に重時が没した後は、その子の北条長時(鎌倉幕府6代執権)ならびに北条業時が父の遺志を継いで、極楽寺の伽藍を整備したという。なお、『新編相模国風土記稿』には、寺の元の所在地を藤沢(神奈川県藤沢市)としている。また、『極楽寺由緒沿革書』という別の縁起には永久年間(1113 - 1118年)、僧勝覚の創建とするなど、寺の起源には諸説あって必ずしも明らかでない。重時は「極楽寺殿」と称され、その系統は極楽寺流と呼ばれた。
史書『吾妻鏡』には、弘長元年(1261年)4月、北条重時が時の将軍・宗尊親王を「極楽寺新造山荘」に招き、笠懸(馬上から的を射る競技)を行ったとの記事があり、この時点での極楽寺の存在と重時との関係が確認できる。重時は同じ弘長元年の11月に没した。

 忍性の入寺

 極楽寺の実質的な開祖である忍性が当寺に入寺したのは文永4年(1267年)のこととされている(『忍性菩薩行状略頌』)。極楽寺の古絵図を見ると、往時の境内には施薬院、療病院、薬湯寮などの施設があり、医療・福祉施設としての役割も果たしていたことがわかる。

 『吾妻鏡』によると、重時の3回忌法要は、弘長3年(1263年)極楽寺において西山浄土宗の僧である宗観房[2]を導師として行われている。このことから、弘長3年の時点では極楽寺は浄土教系の寺院であり、忍性の入寺(文永4年・1267年)によって真言律宗に改宗したとする説がある。しかしながら、寺に伝わる仏具(五鈷鈴)に建長7年(1255年)の年記とともに「極楽律寺」の文字が見えることから、忍性の入寺以前に真言律宗寺院化していたと見る意見もある。

 極楽寺は忍性の入寺から10年も経たない建治元年(1275年)に焼失するが、忍性自身によって再建された。最盛期の極楽寺には七堂伽藍に49箇院の子院が立ち並んでいたという。

 荒廃と復興

 徳治3年(1308年)にも火災で焼失。修復費用獲得のため、鎌倉幕府公認の下、正和4年(1315年)ごろ元へ交易船(寺社造営料唐船)が派遣され、極楽寺の僧侶円琳坊が同乗している。

 元弘3年(1333年)には後醍醐天皇の綸旨を得て寺領を安堵されるが、同年から翌年にかけて鎌倉幕府滅亡に伴う戦乱に巻き込まれ、損害を受けた。その後も度重なる火災により焼失と復興を繰り返す。

 寺は応永32年(1425年)にも火災で焼失。永禄年間(1558 - 1570年)に当時の住職性善が中興するが、元亀2年(1571年)にも火災に遭っている。天正19年(1591年)には徳川家康より九貫五百文の朱印地が与えられた。

 近世に入り、寛永10年(1633年)に極楽寺を訪れた沢庵宗彭は、当時の寺の様子について「壁は落ち、屋根は破れ、棟木はたわんでいる」と描写しており(『沢庵和尚鎌倉巡礼記』)、江戸時代初期には荒廃が進んでいたことがわかる。その後、明暦2年(1656年)には当時の住職恵性が再度中興した。天明5年(1785年)には、極楽寺の檀家と称名寺(現・横浜市金沢区にある真言律宗寺院)から、本山の西大寺に「後住決定願」という文書(もんじょ)が提出されている。これは、本山に対して、極楽寺の次の住職を派遣してほしいと願うものであり、当時の極楽寺が無住であったことが伺われる。

 近代に入り、関東大震災(1923年)では本堂が倒壊するなどの大きな被害に遭った。現存の伽藍は山門が文久3年(1863年)の建立であるほか、近代の再興である。

 境内

 江ノ島電鉄極楽寺駅近くに茅葺きの山門があり、桜並木の参道を進んだ先には本堂、大師堂、転法輪殿(宝物館)、茶屋などが建つ。本堂前には忍性が薬作りに使ったとされる石鉢と石臼がある。本堂裏(西)には鎌倉市立稲村ヶ崎小学校があるが、同校の校地が往時の極楽寺の中心伽藍のあった場所であるとされている。小学校の西側のグラウンドのさらに西には極楽寺の奥の院(墓地)があり、忍性塔と呼ばれる大型の五輪塔をはじめ、多くの石塔が立つ。

 楽寺絵図』によれば最盛期には現在の極楽寺や小学校の建つ谷一帯が極楽寺の境内であった。そして現在江ノ電が走っている極楽寺川沿いの谷にはハンセン病患者など病者・貧者救済の施設があったと思われる。

 本堂 - 須弥壇中央に不動明王坐像、向かって右に薬師如来坐像、左に文殊菩薩坐像を    安置。堂内向かって右奥には忍性像、左奥には興正菩薩(叡尊)像を安置する。

    堂内は平素は非公開で、4月7日-9日のみ入堂できる。上記の諸仏のうち、文殊菩    薩像は鎌倉時代の作である。

忍性塔 - 極楽寺奥の院の墓地にある、高さ357センチメートルの大型の石造五輪塔。塔自     体には銘記がないが、納置品から嘉元3年(1303年)頃の建塔とわかる。平素は     非公開で、公開は4月8日のみ。

五輪塔−(伝・忍公塔) - 忍性塔の向かって右方の墓地内に立つ石造五輪塔(非公開)。     かつては北条重時の墓塔とされ、昭和2年(1927年)4月8日、国の史跡に指定     された。しかし、昭和36年(1961年)の集中豪雨で塔が倒れた際の復旧工事に     伴い、塔内から納置品が発見され、この石塔は極楽寺3世善願坊順忍と比丘尼     禅忍の供養塔であることが判明した。これに伴い「北条重時墓」としての史跡     指定は昭和37年(1962年)に解除された。
     他に忍性塔の周囲には延慶3年(1310年)銘の五輪塔(重要文化財)や、北条     重時の墓塔と伝える宝篋印塔などがある。

 文化財
史跡
極楽寺境内・忍性墓

1927年、寺の西方にある「忍性墓」が国の史跡に指定された。2008年、中世の遺構や地形を良好に残す旧境内中心部が追加指定され、指定名称が「極楽寺境内・忍性墓」に改められた。同年中に、さらに追加指定をした。

 重要文化財

  極楽寺忍性塔
  極楽寺五輪塔 - 高さ193cm。延慶3年(1310年)8月銘。
木造釈迦如来立像 - 極楽寺の本尊。台座内に永仁5年(1297年)の銘がある。京都・清凉          寺の「三国伝来の霊像」と称される釈迦像を模した「清凉寺式釈迦          如来像」と呼ばれる様式の像である。縄目状の頭髪や、胸部を露出          せずに首のあたりまで被う衣の付け方、同心円状の衣文などに特色          がある。秘仏で4月7日-9日のみ開扉される。
          木造十大弟子立像 10躯 - 文永5年(1268年)の銘がある。

木造釈迦如来坐像 - 鎌倉時代。両手を胸前に挙げ転法輪印(説法印)を結ぶ、図像的に          珍しい釈迦像で、変化に富んだ衣文や理知的な表情に時代の特色が          現れている。近世の史料に本像は仏師善慶の作とあるが、善慶の銘          のある兵庫県正福寺の薬師如来坐像とは作風が異なること、忍性が          極楽寺に入寺したのは善慶の没後であることなどから、本像は善慶          でなく息子の善春の作とする説もある。

木造不動明王坐像 - 寺の創建より古い平安時代末期の作。本来極楽寺にあった像ではな          く、島根県の勝達寺から大正5年(1916年)に移されたもの。
          密教法具(五鈷鈴、五鈷杵、独鈷杵) - 五鈷鈴に建長7年(1255年)          の銘がある。

  忍性塔納置品 - 嘉元3年(1303年)

  札所

 鎌倉三十三観音霊場 22番如意輪観世音菩薩
鎌倉二十四地蔵尊 20番導地蔵と21番月影地蔵
東国花の寺百ヶ寺 鎌倉1番 サクラ



 [4]  長谷寺


 所在地 神奈川県鎌倉市長谷3-11-2
  山号 海光山
  宗派 浄土宗系単立
  本尊 十一面観音
 創建年 伝・天平8年(736年)
  開山 伝・徳道
  開基 伝・藤原房前
 正式名 海光山 慈照院 長谷寺
  別称 長谷観音
 札所等 坂東三十三観音4番
     鎌倉三十三観音霊場4番
     鎌倉江の島七福神(大黒天)
 文化財 梵鐘・十一面観音懸仏6面(重文)


 長谷寺は、神奈川県鎌倉市にある浄土宗系統の単立寺院。山号を海光山、院号を慈照院と称し、長谷観音と通称される。本尊は十一面観音、開山は僧侶の徳道とされる。坂東三十三箇所観音霊場の第四番札所である。

 伝承では長谷寺の創建は奈良時代とされているが、中世以前の沿革は明確でなく、創建の正確な時期や経緯についても解明されていない。
寺伝によれば、天平8年(736年)、大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基でもある徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたという。すなわち、養老5年(721年)に徳道は楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体(本)を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう1体(末)を祈請の上で海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとされる。

 当寺の梵鐘には文永元年(1264年)、当時の住職真光の勧進により鋳物師物部季重が造った旨の銘文があり、この頃には長谷寺が存在していたことと、当時は「新長谷寺」と呼ばれていたことがわかる。鎌倉時代にさかのぼる遺物としては他に弘長2年(1262年)および徳治3年(1308年)銘の板碑、嘉暦元年(1326年)銘の懸仏(かけぼとけ)などがある。

 近世の地誌『新編鎌倉志』や、寺に伝わる『相州鎌倉海光山長谷寺事実』などによると、歴代の権力者が長谷寺の伽藍や本尊の修造を行っている。康永元年(1342年)には足利尊氏が伽藍と諸像の修復を行なった。明徳3年(1392年)には、足利義満が観音像の光背を修復し、行基の作という伝承のある像を前立(まえだち)として安置した。天文16年(1547年)に、北条氏康の寄進を受け、天正19年(1591年)、徳川家康から朱印状を受ける。慶長12年(1607年)、堂塔伽藍を改修し、正保2年(1645年)にも、酒井忠勝が堂宇を改修している。

 長谷寺は江戸時代の初め、慶長12年(1607年)の徳川家康による伽藍修復を期に浄土宗に改宗した。当時の住持玉誉春宗を中興開山としている。太平洋戦争終戦直後に、金戒光明寺、知恩院という浄土宗の二大本山が浄土宗から独立した混乱期に、浄土宗から独立し単立となった]。

 境内

 観音堂等の主要な堂宇は海を見晴らす山腹に建てられている。諸堂は関東大震災で倒壊後の再建である。長谷寺は文人とゆかりが深く、境内には高浜虚子の句碑、久米正雄の胸像などがある。高山樗牛は明治34年(1901年)、ここに住んだことがあり、その記念碑もある。

 観音堂 - 長谷観音と呼ばれる十一面観音立像を安置する。奈良の長谷寺の観音像と同      じ、右手に数珠と錫杖、左手に水瓶を持つ長谷寺式の像容である。

阿弥陀堂 - 観音堂の右手に位置し、厄除阿弥陀と呼ばれ、鎌倉六阿弥陀(高徳院の「鎌      倉大仏」、光触寺の「頬焼阿弥陀」、の他光明寺、浄光明寺、宝戒寺の各阿      弥陀如来像等)に数えられる阿弥陀如来坐像を安置する。同像は長谷にあっ      た誓願寺(廃寺)の旧仏で、源頼朝が造立した像という伝承があるが、実際      の制作は室町時代とされる。

 大黒堂 - 観音堂の左手に位置し、鎌倉江ノ島七福神の1つに数えられる大黒天像を祀る。      応永19年(1412年)作の大黒天像は宝物館に移され、現在は新しい大黒天像      が祀られている。

 宝物館 - 大黒堂の右に入口がある。第1展示室には梵鐘(重要文化財)、十一面観音懸      仏(重要文化財)等、大黒堂2階の第2展示室には観音三十三応現身像等を収      蔵する。

  経蔵 - 輪蔵と呼ばれる様式。

 地蔵堂 - 観音堂などの建つ山腹へ上る参道の途中に建つ。

 弁天堂 - 山門を入って右手に位置し、空海(弘法大師)が刻んだという伝承をもつ弁      才天像(宝物館に収蔵)を祀る。堂の近くには弁天窟がある。

  本堂 - 山門に入る前の右手に、寺務所と軒続きにある。平成になって完成した。純      木造(台湾檜)。専ら壇徒の法要に使用され、非公開。

かきがら稲荷 - 鐘楼脇にある。漂着した際に、長谷観音像に付着した蛎殻を祀っている        という伝承がある。
高浜虚子句碑 - 大黒堂前に立つ石造観音像の台座が句碑になっている。

久米正雄胸像 - 大黒堂前にある。久米の3回忌にペンクラブによって設置された。

高山樗牛住居碑 - 山門を入って左手に立つ。明治期の思想家高山樗牛は病没する直前の         明治34年(1901年)頃、長谷寺境内に住んだことがあり、1959年にこ         れを記念する碑が建てられた。
 文化財

 重要文化財

梵鐘 文永元年(1264年)銘
十一面観音懸仏 6面
懸仏(かけぼとけ)は、神の憑代(よりしろ)としての円鏡の上に本地仏としての仏像を表した「御正体」(みしょうたい)の一種で、銅製などの円板に立体的な仏像を取り付けたものを指す。長谷寺には重要文化財指定の懸仏が6面あり、うち3面にはそれぞれ嘉暦元年(1326年)、元徳2年(1330年)、元徳3年(1331年)の銘がある。6面のうち、嘉暦元年銘のものは鎌倉国宝館に、元徳2年銘のものを含む2面は奈良国立博物館にそれぞれ寄託されており、元徳3年銘のものを含む残り3面が長谷寺宝物館にある。

 その他

 木造十一面観音立像(本尊)

像高9.18メートルの巨像で、木造の仏像としては日本有数のもの(なお、日本最大の木造仏像は、福岡市博多区の東長寺に1992年に完成した像高10.8メートルの福岡大仏といわれている)。後世の修復が多く、造立年代は定かでないが、室町時代頃の作と推定されている。昭和39年(1964年)の調査により文明17年(1485年)の修理銘札が見出され、延宝5年(1677年)にも修理が行われたことがわかっている。元の光背は関東大震災による被害の後取り外された。現在ある光背はアルミ製で、平成3年(1991年)、西村公朝の監修で造られたものである左手に水瓶、右手に数珠と地蔵菩薩の持つ錫杖を持ち、方形の磐石の上に立つ、いわゆる「長谷寺式十一面観音(長谷型観音)」様式を採る。左小指を立てているのも、本像の特徴。

所在地[

 神奈川県鎌倉市長谷3-11-2

 交通
 鉄道

 江ノ島電鉄(江ノ電)長谷駅から徒歩5分
バス(鎌倉駅・大船駅から、「長谷観音」下車徒歩3分)


 [5]  鎌倉大仏

 高徳院(こうとくいん)は、神奈川県鎌倉市長谷(はせ)にある浄土宗の寺院。本尊は「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として知られる阿弥陀如来像(国宝)。山号は大異山。詳しくは大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)という。開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳である。
2004年(平成16年)2月27日、境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定された。なお、大仏の造立経緯や、大仏殿の倒壊時期については諸説ある(後述)。
現在の住職は慶應義塾大学教授でもある佐藤孝雄。

 歴史

 高徳院は、鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代の正徳年間(1711年 - 1716年)に江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてからである。

 『吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)、深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、5年後の寛元元年(1243年)に開眼供養が行われたという記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は、仁治3年(1242年)、完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。一方、『吾妻鏡』には、建長4年(1252年)から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もある。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し、この1252年から造立の開始された大仏が、現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である。なお、前述の1243年に開眼供養された木造の大仏と、1252年から造り始められた銅造の大仏との関係については、木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説とがあったが、後者の説が定説となっている[1]。
『吾妻鏡』によると、大仏造立の勧進は浄光なる僧が行ったとされているが、この浄光については、他の事跡がほとんど知られていない。大仏が一僧侶の力で造立されたと考えるのは不合理で、造像には鎌倉幕府が関与していると見られるが、『吾妻鏡』は銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記しておらず、幕府と浄光の関係、造立の趣意などは未詳である。
鎌倉時代末期には鎌倉幕府の有力者・北条(金沢)貞顕が息子貞将(六波羅探題)に宛てた書状の中で、関東大仏造営料を