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   Circle≪ゆ〜ぽぴあ≫・遊歩記
         第219回遊歩
如月の一日・立川駅から古刹を巡り国宝を拝み根川緑道で清流を眺めよう








  遊歩日:   2015年2月14日(第2土曜日)
  遊歩先:   諏訪神社・八幡神社跡と大ケヤキ・普済寺・青柳段丘
          根川緑道・根川貝殻坂橋・矢川緑道
  天 候    晴れ
  参加者    9名


 《行 程》
 ◎JR立川駅(10:35)⇒諏訪神社(11:00)⇒八幡神社跡と大ケヤキ(11:10)⇒普済寺(11:30)⇒青柳段丘…残堀川…(11:40)⇒根川緑道(昼食Thyme・11:40〜12:27)⇒根川貝殻坂橋(13:00)⇒甲州街道(13:10)⇒矢川緑地(13:30)⇒西国立駅(14:05)⇒立川⇒三鷹

 ≪遊歩記≫

 参加者9名が勢揃いし、立川駅南口にて、RooNav担当のA,Sさんのコースの説明を受け、恒例の参加者の声出しを済ませ、RooNav担当、そしてSub担当のO,Sを先頭に2班編制で、根川緑道遊歩がstart開始となった。それにしてもこの立川駅周辺の再開発は、見事なもので、古の面影は全く感じられず、すっかりと大都会という雰囲気に様変わりしてしまった。立川駅南口のデッキを歩き、やがてエスカレーターで降下し、強風が吹く立川の市街地を歩く。この立川駅周辺は、どちらかと言えば北口の方が、開けており、人通りもそれだけに賑わっている。

 そして車の往来が激しい車道から、静かな住宅街の狭い脇道に入り、我らご一行は、一列縦隊で、談笑しながら歩を進める。立川駅から15分も歩いただろうか。第1の目的地「諏訪神社」へ到達した。この「諏訪神社」の境内は広く、陽だまりでは二、三の人達がスケッチをしている。その境内の一隅には、何と珍しく相撲の土俵が、造られているではないか。「諏訪神社」の社に向かいお互い思いを込め「諏訪神社」の社に二礼、二拍手、一拝をし、祈念する。

 それではこの「諏訪神社」について、略述しておこう。

  「諏訪神社」

 全国に約25,000社あり、長野県の諏訪湖近くの諏訪大社(旧称:諏訪神社)を総本社とする。また、諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰(すわしんこう)という。諏訪信仰は日本全国に広まっており、特に北条氏の所領に多い。鹿児島県では祭神名の建御名方命から「南方神社(みなみかたじんじゃ)」としているものもある。
諏訪大社の祭神は諏訪大明神ともいわれる建御名方神とその妃・八坂刀売神で、他の諏訪神社もこの2神を主祭神とするほか、「諏訪大神」と総称することもある。諏訪大社より祭神を勧請する際には薙鎌に神霊が移され、各神社ではこれを神体としている。また、中世には狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業を守護する神社としても崇拝を受ける。これらは諏訪大社の山神としての性格を表している。
諏訪大社では6年に一度、御柱と呼ばれる4本の杭を立てる御柱祭が行われるが、全国の諏訪神社でも同様の祭が行われる。
岡田荘司らによると、祭神で全国の神社を分類すれば、諏訪信仰に分類される神社は全国6位(2,616社)であるという。

 立川諏訪神社は、立川市柴崎町にある神社です。立川諏訪神社は、信州諏訪大社を勧請して弘仁2年(811)に創建、柴崎の鎮守だったといいます。明治四十年十一月二十七日八幡神社を合祀し、次いで明治四十三年二月十二日、浅間神社を合祀したといいます。
祭日 例祭日8月27・28日、8月下旬 の例大祭には、氏子による相撲と獅子舞(市無形民俗文化財)が奉納される。明治時代に、 境内東側に移築された八幡神社本殿は、市の有形文化財に指定されている。

 そんな由緒ある「諏訪神社」を参拝し、住宅街を更に歩を進める。そして第2の目的地「八幡神社跡と大ケヤキ」へ到達した。この大ケヤキは、樹齢約700年といわれる八幡神社大ケヤキ。諏訪神社で見てき  た八幡神社の本殿は、かつてこの大ケヤキから約30mほど北に  あった。そこには八幡神社跡と刻まれた石碑が立っているが、
この大ケヤキはその参道にあったものだと伝えられる。現在の大ケヤキは、幾星霜の風雪にさらされ、大ケヤキの面影は無く、幹も5mあたりで、枯れてしまいその先が無く、お負けに地面から少し上部の当たりで、空洞となっており、何だか見ていても哀れさを感じさせる痛々しいケヤキの木であった。

 そんな大ケヤキを見て、更に10分ばかり歩き、やがて第3の目的地「普済寺」へ到達した。この「普済寺」で、先ず驚いたのは、巨大な石灯篭である。高さ5mは、有にあるだろうか。実に堂々たる佇まいに圧倒されてしまう。その巨大なる石灯篭の前で、デジカメで記念写真を撮ることとした。その広い境内を進んで行くと線香の香りと共に蝋梅の香りがプーンと匂って来た。脳裏に「春は名のみの風の寒さよ。・・・!!!」と早春賦」の一節が思い浮かぶ。境内を進んで行くと更にまた驚いたのは、巨大な梵鐘である。私はその梵鐘が建っているその梵鐘台の階段を昇り、その梵鐘を間近で三田が、その巨大なる梵鐘にただただ圧倒されるばかりだ。きっとこの梵鐘の音は、近隣の街々に響き渡ることであろう。

 それではこの「普済寺」について、略述しておこう。

 「普済寺」

 概要

  臨済宗建長寺派の玄武山普済寺は、武士団・立川氏によって、一族の菩提寺として、 文和2年(1353)に開山された。立川市内では唯一の国宝。六面石幢(せきとう)重要文化 財の普済寺開山物外(もつがい)和尚坐像のほか,首塚付近から出土した板碑群など,数多 くの文化財を有する。本堂前には,立川氏の館跡とされる高さ約2m、長さ約40mの土塁が残 されている。

 歴史

 この寺は、文和年間(1352年 - 1356年)地頭立河宗恒の開基、物外可什の開山により創建されたと伝えられる。この寺にある場所は武蔵七党の一族である立河氏の居館があったところであり、この寺ははじめ外の場所にあったが立河氏が衰退した後に今の場所へ移されたと見られている。なお、1363年(貞治2年)から1400年(応永7年)までこの寺で「五部大乗経」が刊行されている。江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられている。

 文化財・ 国宝

 石幢

 緑泥片岩製の石幢(せきどう)。延文6年(1361年)の造立。普済寺境内のコンクリート製の覆堂内に保存される。幢の原義は仏堂を荘厳する「はた」の一種で、方形または多角形(六角、八角など)の笠の各辺から布を垂らしたものである。この形を模して石で造立したものを石幢という。普済寺の石幢は六角形の基台石上に板石6枚を組み合わせた六面石幢で、上部には笠石を乗せ、凝灰岩製の受花と後世のものと考えられている宝珠が重ねられている。総高は204.5センチ、6面の板石は各166x42センチ。各板石には四天王(持国天、増長天。広目天、多聞天)及び金剛力士(仁王)像が薄肉彫りされている。広目天像の向かって右脇に「延文六年辛丑七月六日施財性了立道円刻」の銘がある。「性了立道円刻」は「性了」が造立し、「道円」が刻んだとの意で、性了は当寺の物外可什像(1995年焼失)の像内銘にもその名が見え、開山物外可什の関係者(弟子か)とみられる。道円については石幢の四天王像と金剛力士像を刻んだ者とみられるが、詳細は不明である。

 考古資料部門の国宝としては最も制作年代の新しいものである。立川市歴史民俗資料館にはこの石幢の原寸大のレプリカが展示されている。

 重要文化財

 重要文化財の木造物外禅師坐像(1370年・応安3年作)があったが、1995年4月4日の火災で本堂とともに焼失した。

 所在地

 東京都立川市柴崎町4-20-46

 そして普済寺境内の裏手に回り、コンクリート製の覆堂内に保存される。国宝、室町時代に造られたという「緑泥片岩製の石幢」を拝観してから、ここでT,Hさん、Y,Hさんのご両人とお別れをする。そして階段を下り右手に残堀川が流れる 遊歩道を歩いて行く。この時間になると風も収まり、暖かな陽射しが照り付け、残堀川に沿い桜の木が植えられており、実にのどかなる雰囲気である。

 残堀川

 水系 一級水系多摩川
 種別 一級河川
 延長 14.5 km
 水源の標高 -- m
  平均流量 -- m3/s
  流域面積 34.7 km2
    水源 狭山池(瑞穂町箱根ヶ崎)
    河口 ・合流先 多摩川(立川市柴崎町)
    流域 東京都

 残堀川(ざんぼりがわ)は、東京都を流れる多摩川水系の一級河川である。

 地勢

 狭山丘陵西端付近にある狭山池(東京都西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎)に源を発し、立川断層に沿って南東に流れ、武蔵村山市の旧日産村山工場の敷地に突きあたってから南に流れを変える。ここから下流は河道付替工事による人工の流路である。立川市一番町付近で玉川上水を乗り越え、国営昭和記念公園の西辺に添いながら昭島市に入る。東向きに曲がって同公園の敷地に入り立川市域に再び入る。公園内で再び南に向きを変え、立川市富士見町3丁目でほぼ直角に曲がり、立川市柴崎町で多摩川に合流する。
地形は狭山丘陵と立川崖線を越える部分を除いてほぼ平坦である。

 流域の自治体

 東京都
 西多摩郡瑞穂町、武蔵村山市、立川市、昭島市、立川市

 歴史

 元々は狭山丘陵の小河川の水を集めて南東に流れ、矢川に注いでいたと考えられている。
1654年(承応3年)玉川上水開通の際繋げられ、さらに孤立していた狭山池まで掘割で繋げた。その後1893年(明治26年)から1908年(明治41年)にかけて玉川上水の下を通って立川市富士見町へ至る工事が施され、上水から切り離された。富士見町から先は段丘沿いに流れていた根川 (立川市)に注いでいた。
そして1963年(昭和38年)氾濫対策として、玉川上水を越える形に変え、1982年(昭和57年)「残堀川流域整備計画」が策定され、その計画に沿って河川改修工事が施工された。
しかしそれ以降は年間を通じて、降雨時およびその直後を除くと水流の殆ど見られない「瀬切れ」を頻繁におこすようになり、場所によってはその名の如く「堀だけが残る川」となってしまった。

 理由としては、水源である狭山池自体の流出量減少に加えて、都市化による雨水の浸透の減少、下水道の普及による河川への排水の減少なども原因の一因ではないかと考えられたが、一定時期(短期的)を境に河川の瀬切れが起こった事(瀬切れが起こった時期に残堀川流域の地域に大きな都市化=舗装インフラの激増や下水インフラの激増などは特に顕著に無かった為)を考慮すると、表層(ローム層)を流れていた河道を、河川改修工事により礫層まで掘り下げたため、伏流(地下を流れる)しやすくなった工事のずさんさが、一番の原因[1]だと考えられる。
その後の2007年6月東京都は不透水層の設置等の瀬切れ対策を含んだ河川整備計画を発表した。

 そんな残堀川の遊歩道を歩きやがて「青柳段丘」と言われる箇所へ到達する。府中崖線沿いに位置する青柳段丘。ここは、段丘の崖面がはっきり見える場所で、木製の 階段が整備されている。付近は、日当たりがよく湧き水も豊富。段丘の上には縄文時代の大和田遺跡も発掘されており、集落を営むのに好適な場所であったことがうかがえる。ここには滾々と湧き水が噴出しており、この水が、これから先の根川緑道へと流れ込んでいる。

 そんな湧き水を見て、更に歩を進め今日の核心部と言われる「良く整備された根川緑道」のスタート地点とも言われる場所に来た。

 「根川緑道」

 美しい小川の遊歩道と多摩川の岸辺、湧水の緑地を辿る水辺散策ウォーキング
立川市を縦に貫く多摩都市モノレール線と多摩川が交差する市南部周辺には、小川に沿って整備された緑豊かな遊歩道がある。その近隣には古い旧道や川渡しの跡、また湧水に育まれた緑地など、貴重な史跡や自然が多く残されている。今回は、立川市南部を横切る根川緑道を中心に、自然と歴史に触れながら美しい水辺を辿るウォーキングコースをご紹介する。浄化水の川、自然水の川、湧水の川の違いも見比べながら、春から秋にかけての爽やかな季節の中を、ぜひ歩いてみよう。
 
   全長   約4.5キロ top
 所要時間   約2時間
  Access :  電車 多摩都市モノレール線で柴崎体育館駅下車
  Access :  車 国道20号で日野橋交差点から新奥多摩街道に入り約3分
 おすすめ
 シーズン
        4月の桜開花や、7〜9月の夏のシーズンがおすすめ

  根川緑道 A・Bゾーン    生き物が棲む清流で水遊びも楽しめる親水エリア

 多摩都市モノレール線の柴崎体育館駅から柴崎橋のスロープを下りると、モノレール下の車道と交差するように根川緑道が東西に伸びている。ここは川、公園、歩道の要素を一つにまとめた美しい水辺の散策道。初めて来た人は、柴崎橋より西側に延びている遊歩道を辿り、ぜひ湧水口から散策を始めてみよう。
根川緑道のスタート地点は、残堀川遊歩道と交わる緑道西端の入口。ここには湧水口があり、湧き出した水が小川となって流れ始め、その小川に沿って遊歩道が造られている。遊歩道には草木がバランスよく配置され、小川は細くなったり広くなったり、途中で池になったりと形を変えながら延び、その上に小さな木の橋や飛び石のような遊び心のある橋があちこちに架かっている。清らかな水辺には魚や水鳥が多く棲んでおり、小川が育む小さな森や小さな湖は、まるでおとぎ話の世界を垣間見るかのようにかわいらしい風景だ。

 これからの四月桜の時期には、水の流れと桜が調和して、本当に素晴らしい眺望であろう。また、是非とも桜のシーズンには、訪れたいものだと思いを巡らせ歩を進め時間的にも昼食Thymeに良い時間なので、根川緑道に据え付けられたベンチに腰掛け昼食を採ることとした。私は早速、ブッチュッと音を立て缶ビールのプルトップを抜き冷えた缶ビールを飲む。いつもながらこの冷えた缶ビールの喉ごしのうまさだ。おつまみには次から次へと参加者の女性から、色々な物が、配られて来て事欠かない。そんな缶ビールを飲んでから、おにぎりを頬ばり、粗末なる昼食Thymeを終了する。

 我ら昼食を食べすっかりと満腹となり、足取りも軽く桜の木々が、川面に垂れている根川緑道を歩いて行く。途中では、根側の清流に泳ぐ大きな鯉に餌をやるRooNav担当のA,Sさんが、やや腰をかがめそんな鯉を目を細めてみている。そんな姿は実にあどけなくきっと幼い頃を思い出し、童心に返っているのであろう。そして根川緑道の終点とも言われる地点「根川貝殻坂橋」へ到達した。当初の計画では、ここから引き返し、モノレール柴崎体育館駅でモノレールに乗り、立川駅へと行く計画であったが、RooNav担当のA,Sさんの配慮によりここから先の矢川緑地を歩き、南武線西国立駅へ行くとのことだ。

 「根川貝殻坂橋」

 根川に架かる木造の吊橋で、橋のシンボルは貝殻。青柳段丘を多摩川の河原に向かって下 る坂は、化石の貝が出るので貝殻坂と呼ばれていたことから名付けられた。

「矢川緑地保全地域」と「矢川弁財天」

 〜地域の人々に守られてきた自然環境〜
JR南武線の「西国立」駅を降りて、線路に沿って南方面へ向かうと、「みのわ通り」という大きな通りに出る。この通りは、以前は「緑川」という川で、昭和35年に埋め立てられるまでは、両脇は土手になっていたという。この通りを甲州街道方面に向かって進んで行くと、左手にこんもりとした森が見えてくる。この緑豊かな地域が「矢川緑地」一帯で、1977年(昭和52年)には東京都の「保全地域」として指定されている。
1960年代中頃には、戦後の「高度成長期」に伴った「都市計画」の一環として、この「矢川緑地」一帯に「団地化」の話が持ち上がったことがあるという。その際に、近隣の「みのわ地区」の主婦ら10数人が「反対運動」に立ち上がり、都庁などに掛け合って、自然環境を守り抜いたという。

 「矢川緑地」の約6300坪ある敷地内には、「東京都の名湧水57選」の一つである「矢川」が流れ、「湿地帯」「樹林帯」そして「サンクチュアリ」(自然保護区)の3つの地域には、多くの動植物が生息しており、人と自然が共存できるように、散策路や木道が整備されている。

 この豊かな自然環境を守って来られたのが「矢川ふれあいボランティア」と呼ばれる地域住民の方々で、現在は常時4〜6名のメンバーが、月に2〜3回集まって、緑地内の整備に努めておられる。皆さん、自然を愛するというだけあって、森林ボランティアの資格を有する方や、植物や野鳥に造詣が深い方など、各々「得意分野」を持っておられるという。
メンバーが心がけているのは、「整備された公園ではない、ありのままの自然環境」で、そのために雑草などは敢えて抜かないでおくことも多いという。また、川沿いに立ててあった「立ち入り禁止」などの看板は全て撤去して、子どもたちには、進んで動植物に触れてもらっているそうだ。

 「矢川緑地」にある「湿地帯」では、初夏〜秋の始め頃まで、蒲(がま)の群生が見事な眺めを作っている。そのユニークな形状の花穂の中には、10〜35万個もの綿毛の付いた種子が詰まっていて、冬になると一斉に飛散するという。以前はその綿毛が「蒲団(ふとん)の綿」として使われていた為に、「蒲団」には「蒲」の文字が使われている。また「古事記」の「因幡(いなば)の白兎」の話にあるように、花粉には止血効果があるために、生薬としても用いられている。
こうした逸話を教えて下さったのは「たちかわまちの案内人」(平成19年発足)のメンバーらで、彼らの活動は立川の歴史、文化、自然などをテーマにした観光まち歩きの案内など、多岐に渡っている。

 激しく車が往来する甲州街道を渡り、少し迷いながら矢川緑地へと歩を進める。こちらは根川緑道と比較し、余り規模も広くなく自然のままという感じである。余り整備されすぎても自然本来の姿が、損なわれるので帰ってこの方が良いかも知れません。そんな根川緑地の極一部を少し散策し、また車道に戻り、そこから15分位歩きやがて南武線西国立駅へ到達した。ここで今日の「根川緑道遊歩」も見所満載で、RooNav担当のA,Sさんに謝意を表し、私の一丁締めで終了したのだった。  (^_^)

 「ポポポン、ポポポン、ポポポンポン」

 〜〜≪オシマイ≫〜〜