≪第25回遊歩 大台ヶ原山と明日香路を訪ねての遊歩に戻る≫











≪参考文献資料≫






長谷寺



桜井市にある真言宗豊山(ぶざん)派の総本山。山号は豊山神楽院。古くは泊瀬寺、初瀬寺と
もしるし、豊山寺、長谷山寺ともよばれた。西国三十三所観音霊場第8番札所(→ 巡礼)。

720〜727年(養老4〜神亀4)ごろの創建。大和川原寺の僧道明が、良弁の弟子の徳道らをひき
い、十一面観音立像(→ 観音)を中心として開いたものと推考されている。また、まず道明
が西の岡に本(もと)長谷寺をきずき、ついで徳道が東の岡に観音像と観音堂(後長谷寺)をき
ずいたとする説もある。

はじめ東大寺の末寺で、10世紀末には興福寺の支配下にはいった。観音霊場として信仰をあ
つめ、平安時代には藤原道長ら貴族の長谷参詣(さんけい)が流行した。その隆盛ぶりは「源
氏物語」や「枕草子」などにもうかがえる。

平安時代から戦国期までに何度も火災にあって一時衰退したが、豊臣秀吉による紀伊根来
(ねごろ)寺の焼き打ち(→ 根来衆)ののち、秀吉の弟の秀長の周旋で根来寺の専誉(せんよ)
がむかえられると、新義真言宗の根本道場として再生した。のち密教、唯識の学問寺として
も世に聞こえた。

江戸時代には徳川氏の保護をうけ、17世紀半ばには、本堂(観音堂)、登廊、鐘楼などが再建
された。千仏多宝仏塔(法華説相図)銅板は白鳳期(645〜710)の千本仏として著名であり、
「法華経」28巻などとともに国宝に、本尊の十一面観音は戦国期の木像で重要文化財に指定
されるなど、多くの国宝や重要文化財がある。なお、本尊の観音は高さが9m以上もある日本
最大といわれる木像で、霊験をもって知られる。その同木分身を本尊としたとつたえる長谷
寺、新長谷寺が各地にある。


大台ヶ原山



おおだいがはらざん 紀伊山地の東部、三重・奈良両県境につらなる台高山脈の主峰。日出
ヶ岳(標高1695m)・三津河落山(さんづこうちさん:標高1654m)などのピークとその南西側に
ひろがる牛石ヶ原・正木ヶ原などの高原状の平坦面をふくめた総称。

年降水量が5000mmをこす日本屈指の多雨地帯で、草原にはヒメザサ・イトザサがしげり、ト
ウヒ・シラビソ・コメツガなどの針葉樹林の下はスギゴケなど350種ものコケ類がおおう。
ニホンカモシカ・シカ・サルなどの動物も多い。

明日香村



明日香村 あすかむら 奈良県の中央部にある、高市郡(たかいちぐん)の村。奈良盆地の南
東部に位置する都市近郊農村。南部の竜門山地(りゅうもんさんち)を発した飛鳥川(あすか
がわ)が北西にながれる。その流域と橿原市の一部にかけては、古く「飛鳥」とよばれ飛鳥
文化の中心地であった。その遺跡や文化財が密集し、観光が村の重要な産業である。1956年
(昭和31)高市村、飛鳥村、阪合村(さかあいむら)が合併して成立、村名表記を「明日香」と
した。面積は24.08km2。人口は6912人(2002年)。

 村域には高松塚古墳、石舞台古墳、キトラ古墳など、国指定の特別史跡や史跡だけでも19
カ所あり、古代史ファンや日本の原風景をもとめておとずれる観光客が四季を問わず列をな
す。1980年(昭和55)に国はその歴史的風土を保存し、村民の生活環境を整備するため、「明
日香村における歴史的風土の保存および生活環境の整備等に関する特別措置法」、いわゆる
「明日香村特別措置法(明日香保存法)」を10年間の時限立法として制定、村全体を風致地区
に指定した。その後も延長して整備計画がすすめられ、景観保全のための村民の努力がつづ
けられている。

南西部の檜前(ひのくま)は飛鳥文化の担い手となった渡来人の居住地であった。7世紀初頭
の推古天皇の豊浦宮(とゆらのみや)以後、天武天皇の飛鳥浄御原宮にいたる約100年間、天
香具山(あまのかぐやま。→ 大和三山)から南方に「飛鳥」を冠する宮が集中的にいとなま
れた。その間、一時、難波宮や近江大津宮への遷都(せんと)があったものの、飛鳥は古代政
治の中枢となった。また飛鳥寺や川原寺、豊浦寺、大官大寺など多くの寺院が建立された。

しかし694年(持統8)に藤原京、710年(和銅3)に平城京への遷都がおこなわれて、飛鳥古京は
しだいにわすれられた。寺院などは荒廃し、亀石や猿石など、多くの奇妙な形の石造物は、
用途不明のまま伝説を生んだ。今なお正確な跡地がわからない宮や寺もあり、地道な発掘調
査が現在もつづけられている。最近の調査では、最古の銅銭である富本銭がみつかった飛鳥
池遺跡、酒船石の近くに亀形水槽などの祭祀(さいし)に関係するとみられる施設があった酒
船石遺跡、薬園なども付属していたとされる飛鳥京の庭園遺構などが発見されている。飛鳥
池遺跡の地には、2001年(平成13)9月に県立万葉文化館がオープンしている。

高松塚古墳



高松塚古墳 たかまつづかこふん 奈良県高市郡明日香村にある直径約20m、高さ約5mの円
墳で装飾古墳。1972年(昭和47)村史編纂事業として発掘調査を実施。墳丘下中央に凝灰岩製
の石棺式石室がきずかれ、終末期古墳特有の構造から7世紀末〜8世紀初頭のものと推定され
る。石室内部の壁面すべてにしっくいがぬられ、その上に壁画がえがかれていた。

のこっていた壁画は東壁の青竜、西壁の白虎(びゃっこ)、北壁の玄武の四神のうちの3神ほ
か、日輪、月輪、男性4人と女性4人のそれぞれの群像、朱線と金箔(きんぱく)でえがかれた
天井の星宿がある。南壁は後世の盗掘によってはがれていたが、おそらく残りの四神朱雀
(すざく)がえがかれていたとされる。石室からは棺を装飾する金具や白銅製海獣葡萄(ぶど
う)鏡・銀製大刀外装具・ガラス玉・琥珀(こはく)玉などが出土している。人骨も残存し、
鑑定によって成人男性と判明した。この人骨や築造時期、副葬品などから古墳の被葬者がだ
れであるか論議をよんだが、現在も確定していない。

壁画図案により中国・朝鮮半島の装飾古墳と密接な関係があることが証明された点で、高松
塚古墳の発見は戦後日本の考古学上、最大級のものとなった。また絵画史・美術史・服飾史
など多方面にも大きな影響をあたえた。現在、隣接してつくられた復元古墳が一般に公開さ
れ、古墳は科学的な保存処置のもとに、密閉されている。


亀虎(きとら)古墳



 った盗人が古墳の中でカメ(亀)とトラ(虎)をみたから亀虎(きとら)とよばれるようになっ
たという説などがある。

1983年(昭和58)にファイバー・スコープによって内部調査がおこなわれ、小型の石室内壁面
に玄武(げんぶ)像、すなわちカメにヘビがまきついた姿をした北方鎮護の神が描かれている
ことが判明した。しかし、直後の機械故障で調査は中止となった。その後、95年(平成7)の
阪神・淡路大震災で壁面の損傷が心配されたため、98年に明日香村、奈良国立文化財研究所
(現、奈良文化財研究所)などが超高感度カメラ(CCD)を使用して、内部撮影をおこなった。

その結果、北壁に玄武像、西壁に白虎(びゃっこ)像、東壁に青竜像、さらに天井には星宿図
(天文図)が描かれていることが確認された。白虎像など四神の極彩色絵画や星宿図は、1972
年(昭和47)に発見された、キトラ古墳の北約1kmにある高松塚古墳とならぶ大発見だった。
また2001年(平成13)の撮影では、南壁から南方鎮護の朱雀(すざく)像が発見され、つづいて
青竜像のある東壁下隅には東アジア最古といわれる十二支(→ 十干十二支)の獣頭人身像が
描かれているのが確認された。この獣頭人身像は武人のような衣装を着たトラ(寅)の顔と考
えられ、朱線がほかにもみられることから、東南西北の4壁にはそれぞれ3体ずつ計12体の十
二支像が描かれていた可能性がある。十二支は方位や時刻をあらわす動物たちであり、4壁
がそれぞれ春夏秋冬を意味し、天井にある星宿図の星の運行とも関連している。

星宿図は高松塚古墳のものより精密に描かれており、中央に北極五星を配し、太陽の運行を
あらわす黄道や28の星座が四方に7つずつ描かれている。これらの宇宙観は古代中国の陰陽
五行説の影響をうけたもので、日本では天体の運行や方位から吉凶を占うことが7世紀後半
に盛んになったといわれる。→ 陰陽道


橘寺の創建と変遷


当寺は、聖徳太子様効賄姓誌執派なった所で、当時ここにはぎ賄わ舘枇報お欽明天皇の別官があった。太子は、託晒皇一汁の彬鋼の燈」日命(後の三一代用明天皇)と穴穂部間人皇女を父母とされて、西暦五七二年この地にお生れになりだ拗銘掩厩戸皇子、豊聡耳皇子などと申し上げた。太子は大変深く仏法をご信仰になり、自ら仏典の講義をされ注釈を加えられたのが三経義疏で、現在も保存されている。三三代推古天皇一四年秋七月(西暦六〇六)に、天皇の仰せにより、勝鬘経を三日間にわたりご講讃になった。その時、大きな蓮の花が庭にー mも降り積もり(蓮華塚)、南の山に千の仏頭が現れ光明を放ち盆頭山)、太子の冠から日月星の光が輝き金光石)、杯聽霊翫出来事が起こったので、天皇は驚かれて、この地にぉ寺を建てるよう太子に命ぜられた。そこで御殿を改造して造られたのが橘 樹寺で、聖徳太子建立七力大寺のーつに数えられた。当初は東西八丁(八七0m)南北六丁(六五0m)の寺地に、金堂、講堂、五重塔を始め六六棟の堂舎が建ち並んでいた。天武天皇九年(西暦六八一 )尼房失火の為十房焼いた記録があり(日本書紀)、当時尼寺であったのか。光明皇后より丈六の釈迦三尊、淳和天皇が薬師三尊をご寄贈になり、不断法華転読及び法華八講が修法せしめられた。法隆寺の金堂日記の中に「橘寺より小仏四九体、永暦二年(西暦一〇七八)十月八日迎え奉った」と記されており、玉虫厨子を移したのもこのころか。近衛天皇久安四年(西暦一 一四八)五月十五日雷火のため五重塔焼失。六十年後鎌倉時代文治年間三重塔再建、「元興寺より四方仏を迎え奉った」などの記録あり。後柏原天皇氷正三年(西暦一五〇六)、多武峯の兵により焼かれ全く昔日の面影を無くしてしまい、江戸時代には正堂、念仏堂共に大破し僧舎一棟のみと記されている。現在の堂は、元治元年(西暦一八六四)多くの人々のカにより再建実現したものである。昔は法相宗であったが、江戸中期より天台宗になり比叡山延暦寺の直末で仏頭山上官皇院橘寺、別名菩提寺とも言われている。


石舞台古墳


 石舞台古墳 盛り土をうしなっているため、花崗岩(かこうがん)の巨石をくんだ横穴式石
室が露出している古墳。7世紀前半の築造。蘇我馬子の墓といわれるが、確証はない。W.P.
 

岡寺


★創建の伝説と義淵僧正!

六六三年(天智天皇二)、草壁
皇子のお住みになっていた岡の宮を仏教道場に改め、当時
の仏教の指導者であった義淵僧正に下賜され、創建一千三
百有余年の歴史を持っている。このため本尊や義淵僧正像
など国宝、重文七件ほか多数の宝物がある。
義淵僧正は奈良東大寺の基を開いた良弁僧正や菩薩と仰
がれた行基、その他奈良時代の仏教を興隆した多くの先駆
者の師として知られている。また『扶桑略記』(平安時代
の史書)によると、義淵僧正の父母は子宝を観音に祈った。
その結果生まれたのが義淵。この有り難い話を聞かれた天
智天皇は岡の宮で義淵を草壁皇子と共にお育てになった。
りゆうがいし
★厄除け信仰と龍盤鴦!義淵僧正は優れた法力の持主でも
あった。そのころ、この寺の近くに農地を荒らす悪龍がい
た。義淵僧正はその悪龍を法力によって小池に封じ込め、
りゆうがい
大石で蓋(ふた)をした。この伝説が岡寺の正式名称「龍蓋
じ                                 りゆうがいいけ
寺」の原点になっており、本堂前に「龍蓋池」が今もある。
こうした伝説は「災いを取り除く」信仰に発展、密教の普及
と共に鎌倉時代には「二月(現在三月)初午の日に必ず岡寺に
参詣した」という『水鏡』の記録もあるほどで、それまでの観
音信仰に厄除け信仰が加わり、日本最初の厄除け霊場が形成さ
れた。
★西国札所と周券(龍盤脊)・観音さまの御名を呼べば観音さま
は三十三の化身により衆生を救済されるとの信仰をもとに、西
国三十三所観音霊場巡りが盛んになってから約一千年の歴史が
ある。岡寺はその前から観音霊場として栄え、創建以来「熱檮
千三百有余年」、常に大衆の幸せを願ってきた。



飛鳥寺



あすかでら 奈良県高市郡明日香村にある、蘇我馬子が創建した日本最古の本格的寺院。蘇
我氏の氏寺で法興寺・元興(がんごう)寺・本(もと)元興寺ともいい、現在は新義真言宗の安
居(あんご)院と称している。593年(推古元)には塔の心礎に仏舎利をおさめ、596年ごろひと
まず完成をみた。飛鳥寺式とよばれる伽藍配置は1塔を中心に東・西・中の3金堂がとりまく
もので、高句麗の清岩里廃寺に類する形式だが、瓦の文様には百済系が多い。606年に鞍作
止利がつくった釈迦如来像(飛鳥大仏)が安置され、これは顔の上部と右手指の3本が当時の
ものといわれる。

645年(大化元)乙巳の変(いっしのへん)の直後に中大兄皇子(天智天皇)がたてこもり(→ 大
化の改新)、672年(天武元)壬申の乱では政府軍の営所となるなど、軍事施設としてもつかわ
れた。蘇我氏の衰退で寺の庇護者をうしなうが、680年には「有功」の寺として大寺(官立寺
院)と同等の国家保護をうけることとなった。718年(養老2)本部が平城京内にうつって元興
寺と号したため、本元興寺といわれた。1196年(建久7)旧地にのこった金堂と塔が落雷で焼
失して以後、急速にすたれた。再建はされず、現在は1826年(文政9)建立の安居院と補修を
重ねた飛鳥大仏だけがのこる。1966年(昭和41)に国の史跡に指定された。