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 Circle《ゆ〜ぽぴあ》 遊歩記


  第290回遊歩
 『〜新年遊歩2021〜』

 正月の一日・築地本願寺に詣で
一年の健康と幸を祈念し佃公園で 隅田川を眺め昼食を食べよう


    








    遊歩日:   2021年1月29日(金)
   遊歩先:   築地魚河岸・築地本願寺・聖路加ガーデン・佃公園                  石川島灯台跡
   天 候:   晴れ
   参加者:   7名

  
《行 程》

 ◎JR新橋銀座口⇒浜離宮恩賜庭園(閉苑のため散策不可)⇒「築地魚河岸・東京都中央卸売市場(休憩Thyme)⇒築地本願寺(参拝)⇒聖路加ガーデン⇒佃公園石川灯台跡(昼食Thyme)⇒住吉神社参拝⇒月島地下鉄駅  解散

 
≪遊歩記≫

  新型Corona virus感染防止のため東京では、第2の小規模の「緊急事態宣言」が、発令されている最中、Circle《ゆ〜ぽぴあ》の世話人として、遊歩を実施するのに聊か、躊躇したが、今回のコースは、新型Corona virus感染防止の言わゆる三密には、相当しないので、実施することとなった。そして「緊急事態宣言」発令中なので、事前に調べたところ、築地市場の魚河岸の場外の広場での飲食は中止となっていたので、誠に残念であるが、昼食Thymeは、佃公園にて取ることとした。

 今回の参加者7名の日頃の行いが、良いためか。前日の28日は、何と東京でも行き場振っていた極寒の一日であったが、今日、29日(金)は、少々、風が冷たいものの射す陽光は、温かくそんなに寒さを感じさせない誠に遊歩日和で、担当者としては、ホッと、胸を撫で下ろす場面だ。参加者7人が、新橋駅銀座口に集結し、担当である私が、コースの説明を行い、そして恒例の参加者の声出しを済ませ和美を先頭に先ずは第1の目的地、浜離宮恩賜御苑園へと歩を進めた。その浜離宮恩賜御苑には、和美がiPhoneのnavigationを使用して、ナビちゃんの言うように歩いて行くのだが、どうもナビチャンに嫌われたようで、smoothに行くことが出来ずK,Mさんの助言を得て、何とか浜離宮恩賜御苑の正門に辿り着いた。「ガーーーン」何と浜離宮恩賜御苑の正門の大扉は堅く閉まっているではないか。私が普段散歩をしている神代植物園もこの「緊急事態宣言」の最中は、やはりclauseになっていた。この浜離宮恩賜御苑も東京都の管理の元にあるので、コロナ小池おばちゃんの鶴の一声で、closeとしたのであろう。私も事前に魚河岸のことは、調べたのだが、この浜離宮恩賜御苑のことは、考えも及ばなかったのだ。真冬の浜離宮恩賜御苑の散策も誠に風情があって、良いのだがこれもまた、仕方が無いことだ。

 それでどんな様子か築地始業魚河岸へとりあえず行くこととした。長い歴史を持つ築地市場、魚河岸の場内の専門業者を対象とした市場は、豊洲に移ってしまったため、築地市場としては、一般客を対象とした場外の海産物を販売する所が現在、営業している。そのため以前のような築地、魚河岸の盛況さは、乏しくまた、新型Corona virus感染情勢の最中も合間って、それと第2回目の「緊急事態宣言」の発令のため自粛モードになっているのだろう。せめて一休みして行こうと場外の3階の休憩コーナーへ行き、静かに自前の缶ビール、焼酎のお湯割を男性諸氏は飲み休憩を取った。その間、和美は階下に降りて行き、今日の夕食のおかずを買い求めに行った。マア、買い物となると一段と張り切ってしまうので、無理からぬ事だ。そして休憩後、1階の海産物の販売コーナーを見て歩く。普段であれば大勢の人達が、買い物で、賑わっているのであろうが、新型Corona virus感染情勢の最中、仕方が無いことなのか。

 そして築地市場の近くにある「築地本願寺」へ歩を進めた。その浄土真宗の築地本願寺は、木造の建物を想像していたのだが、何と鉄筋コンクリートで、建築された広壮なる建物である。その本堂に入るとお香の匂いが立ちこめられ自然と清々しい気持ちになる。拝殿の前に立ちどこの神社、仏閣でもそうであるが、先ずは新型Corona virusの早期収束を祈念する。そして健康で日々生活できることを併せて念じる。

 そして築地本願寺を後にして、高層ビルが立ち並ぶ都心の静かなる街を歩き、名誉院長で知られた日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年(明治44年)10月4日 - 2017年(平成29年)7月18日)聖路加病院の建物に沿って造られた聖路加ガーデンを通り、川幅の広い隅田川に掛かる橋を渡り佃公園石川島灯台跡へと歩を進めた。その佃公に来るとプーーンと誠にこおばしい匂いがする。その臭いの元は、佃島の名物である佃煮を販売している店が三軒建ち並んでいるのだ。私達は、その匂いに誘われて、一軒の佃煮屋へ行き様々な佃煮をお土産に買い求めた。この佃島、石川島は、歴史的変遷を辿ると興味部会ものがある。(遊歩先の紹介参照)

 そして私達一同は、満々と水を湛える隅田川を眺めながら各自が持参したお弁当を昼食としていただく。勿論、私が持参した焼酎のお湯割を皆さんにお配りして喉を潤して貰った。射す陽光も誠に温かくポカポカとして、焼酎のお湯割を飲んだためか。居眠りをが、出そうなのどかな雰囲気だ。足下を見ると「ネエ、ナニカチョウダイネポッポポッポ」と四羽の鳩が私達の食べ物をおねだりしてチョコチョコと歩いている。そんな愛らしい姿に思わずお弁当のご飯を分けて上げる。するとその鳩君達が、実に美味しそうに食べている。この平和なる光景は、新型Corona virus感染情勢の最中を忘れさせてくれるひと時である。

 この佃公園は、桜の並木が、隅田川に沿って植栽されており、桜が咲く頃は、きっと見事な眺めであろう。そして暫しの昼食Thymeを取り、帰途に住吉神社に詣で月島駅へと向かった。


〜〜≪オシマイ≫〜〜






「遊歩先の紹介」




浜離宮恩賜庭園


 潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式です。
旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園、旧安田庭園なども昔は潮入の池でした。しかし現在、実際に海水が出入りしているのは、ここだけです。
 この地は、寛永年間(1624〜1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相 の松平綱重。承応3年(1654年)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得ました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣) が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。

 以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。
明治維新ののちは皇室の離宮となり、名前も浜離宮となりました。その後、関東大震災や戦災によって、御茶屋など貴重な建造物が焼失したり樹木が損傷し、往 時の面影はなくなりましたが、昭和20年(1945年)11月3日、東京都に下賜され、整備のうえ昭和21年(1946年)4月有料公開されるに至りました。なお、国の文化財保護法に 基づき、昭和23年(1948年)12月には国の名勝及び史跡に、同27年(1952年)11月には周囲の水面を含め、国の特別名勝及び特別史跡に指定されました。

 開園年月日  昭和21年(1946年)4月1日
  開園面積   250,215.72平方メートル(平成30年4月1日現在) 
  主な植物   クロマツ、タブノキ、トウカエデ、サトザクラ、サルスベリ、モミジ、         ケヤキ、エノキ、ハゼノキ、ウメ、ツバキ、ハナショウブ、アジサイ、


「築地魚河岸・東京中央卸市場」


 築地魚河岸は、東京都の築地市場の豊洲への移転に伴い、中央区が築地の食の文化を未来に残すために「専門街」として魚(魚市場)や野菜(青果市場)などに店舗を構えるプロを集めて市場を開業しました。
築地魚河岸は小田橋棟と海幸橋棟に2棟あります。1階は販売購入街となっていて、2階フロアは店舗の事務所、3階フロアが広場と飲食フロアとなっています。


「築地本願寺」


 築地本願寺(つきじほんがんじ)は、東京都中央区築地三丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院。東京都内における代表的な寺院の一つで、京都市にある西本願寺の直轄寺院である。本尊は聖徳太子手彫と伝承される阿弥陀如来立像。 
1924年武蔵野女学院(現武蔵野大学)の高楠順次郎によって寺内に開設された。 
住職は門主の大谷光淳が兼ねる。事務執行機関として宗務長(旧:輪番)1人、副宗務長2人で構成され、初代宗務長は浄土真宗本願寺派前総長の不二川公勝。 

  所在地 東京都中央区築地三丁目15番1号
   宗派 浄土真宗本願寺派
   本尊 阿弥陀如来
  創建年 元和3年(1617年)  開基 准如  文化財 本堂(重要文化財)



「佃公園・石川島灯台跡」


 高層ビルの立ち並ぶ佃島の一画に建つ不思議な建物は、復元された石川島灯台です。この
灯台は、慶応2年(1866)、石川島人足寄場奉行清水純畸(しみずじゅんき)が隅田川や品川
沖を往来する船舶航行のために築かせた常夜灯で、六角二層の堂々たる灯台でした。純畸
は、寄場の油絞りの益金を割き、人足の手で寄場の南端に築かせました。近在漁師はこの
灯台の完成をとても喜んだといわれています。 
人足寄場とは、江戸時代に設けられた犯罪者の更生を目的とした収容施設のことです。寛

 政元年(1789)火付盗賊改方長官長谷川平蔵宣以(のぶため)が老中松平定信に提案し、
寛政2年(1790)に設置され明治維新まで続きました。長谷川平蔵は池波正太郎の時代小
説「鬼平犯科帳」の主人公「鬼平」としてよく知られています。無宿者や軽罪人を収容し、
生活指導や職業訓練を施して自立を支援するなど、再犯を防ぐための取り組みは、当時と
しては画期的なことでした。

 佃島は摂津国西成郡田村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁師達が幕府の許可を得て開いた
漁村です。正保元年(1644)現在の地に百間四方の土地を埋立て営造し、故郷摂津国の住
吉神社をこの地に勧請し、島名を佃島と命名しました。 
徳川家康が天正10年(1582)、堺見物の最中、本能寺の変が伝えられ、急遽間道を抜け大
坂に向かいましたが、出水のため途方にくれている家康一行に、佃村の庄屋孫衛門が舟を
出して助けたため、家康と佃島漁民の間に固い絆が結ばれることになりました。その後、
家康が江戸開府にあたり、佃村の漁師に対する恩賞として幕府の御菜御用を命じ、老中安
藤対馬守を通して出府を促し、慶長18年(1613)には「網引御免証文」を与え、江戸近海
で特権的に漁が出来るようになりました。
佃煮(つくだに)といえば、この東京都中央区佃島を発祥とされる海産物の煮物のことで
すが、佃公園近くには今でも江戸時代から続く老舗の佃煮屋が数軒営業しています。
さて、間もなく桜の季節がやってきます。佃公園周辺の水辺は、中央区トップクラスの桜
の名所で、満開になればかなりの見ごたえがあります。桜の花は隅田川の川面の青によく
映えます。通路も広く足場も良く、ベビーカーや車椅子での通行も可能になっています。
ゆっくりと桜を楽しみたい方は、一度は出かけてみてください。
桜を堪能したら、佃煮をお土産に買って、おなかが減ったら月島でもんじゃ焼きを食べて
みましょう。食べず嫌いな人も多いもんじゃ焼きですが、本場月島のもんじゃはうまさも
本物です。