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Summer in2010
My Sankou Memo


   ≪真夏の鳥海山・
 濃霧と強風の中を歩く≫







 山行日   2010年8月1日(日)〜2日(月)・3日(火)  2泊3日
 山行先   鳥海山(標高 山域 山形秋田県境 2,236m 山域 秋田山形県境)
メンバー   金川 勝夫 金川 和美
 天 候   1日 曇りのち雨 2日 濃霧 強風 3日 晴れ


 7月31日(土)

 《行 程》
  渋谷マークシティ(渋谷駅)(22:30発)=国際観光高速バス⇒酒田行

 ≪山行記≫

 31日、渋谷発坂田行きの、午後10時30分の高速バスに乗り込む。車内は夏休みと言うこともあり、ほぼ満席で、それぞれ乗客は、リクライニングシートを倒し、早くも安眠体制を取っている。しかし、この夜行高速バスを幾度となく利用しているが、実に乗客はマナーが良く私語も交わすことなく旅路に思いを馳せ眠りに着いているのには感心させられるところだ。それと何と言っても交通費が格段に安く、早朝目的地に到着できるのが、実に嬉しいことで、当日一日計画が立てられるから効率的である。

 今年の夏の山行は、お花畑と眺望抜群の秋田富士、山形富士とも称される鳥海山へ行くこととした。この鳥海山には、かれこれ10年前になるだろうか。その当時は「歩登寿(ポトス)」と言うグループ名で、山を愛する仲間10名と5月の連休に行きの鳥海山をアタックしたが、登山開始から約、1時間30分で、ホワイトアウトになり、方向不明で遭えなく敗退した苦い経験がある。その時からまた、何時か鳥海山へ登りたいと思っていたのだが、こうして今回実現をしたと言うことだ。私は席に着くなり睡眠薬代わりのワインを取り出し、それをおつまみのチーズと共にチビチビと飲み干す。

 バスはもう一つの発着所、十条駅前を過ぎ車内は灯りが絞られ本格的なSleeping thymeに入り、私もワインの酔いが回り瞼が閉じ眠りに着こうとしたのだが、前方で車掌がケイタイで業務連絡のためであろうかコソコソと話をしているのが耳障りで、思わず「オイ、静かにしたらドナイヤネン。眠れネエゾ・・・!!!」と一寸ドスのある声で文句を付けたら「誠に申し訳ご座いません。」と車掌が低姿勢で平謝りをしていた。 (^^;)

 8月 1日(日)


 《行 程》

  
 酒田庄交バスターミナル(7:00着・8:03発)=バス⇒鉾立(9:18着・9:40発)⇒賽の河原(10:30)⇒御浜小屋(11:30) 宿泊)

 ≪山行記≫

 高速バスは、順調に早朝7時、酒田庄交バスターミナルに到着した。ザックを受け取り先ずは少し離れている酒田駅へ向かいここでトイレ、洗面を済ませた後、サッパリして、駅前のうどん屋に行き朝食を採り、駅前のバス停から鳥海山の登山口鉾立行きのバスに乗り込む。今年は梅雨明けから毎日猛暑が続きこの山形、酒田でも朝から暑い陽射しが容赦なく照らし汗をかいていたので、バスはクーラーが効いており実に気持がよい。バスは酒田市街を抜けやがて山形米「ど真ん中」の田園地帯に入り、稲穂が風になびきそれが陽に映えとても綺麗だ。

 そしてバスは鳥海山の麓を段々と高度を増し幾度となくカーブを繰り返し樹林帯を走って行く。やがて以前に来て宿泊した「大平山荘」の前を通過する。この「大平山荘」では、雪の鳥海山をホワイトアウトで敗退した後、何しろ時間があるものだから延々5時間位宴会モードとなり、裸踊り、落語等々ともう、飲めや歌えの大騒ぎをしたのであった。それも今は懐かしい想い出だ。
〈遠くを見る目〉・・・!!! (^^)
バスはその「大平山荘」から程なく終点、鉾立へ到着した。ここでしっかりと登山支度をし、イザや行かん。鳥海山登山の出発である。この鉾立付近はお天気も良く夏の陽射しが、照り付け少し歩くと汗をかいてしまうそんな夏の陽気である。とにかくここからの鳥海山の登山は一般コースだけに観光客、ハイカーが実に多く各、グループが山頂目指し整備された石畳をそれぞれ楽しそうに話をしながら登って行く。

 登るに連れ段々とガスが湧いてきて、お負けに風も強くなり、視界が余りきかなくなってきた。そして蒸し暑かった登山口の鉾立と違い肌寒く改めて山の天気の急変に驚く。それにしても実に登山客が多くこの信仰の山、鳥海山の人気に感心させられる。登山道は先ほどの歩きやすかった石畳と違い狭くゴロゴロとした岩が、点在しており斜度も結構きつくなってきた。そんな登山道を過ぎると賽の河原に到達した。ここは奇岩がゴロゴロとした平らなところで、そのネーミングもやはり、信仰の山らしく賽の河原とは、言い得て実に妙だ。その賽の河原から30分ばかり急登を上り詰めると今夜のお宿御浜小屋に11時30分に到着した。

 予定ではここで昼食を取り、鳥海湖を中心として散策をする予定であったが、お天気は益々悪くなり濃霧と強風のために歩くのが困難な状態なので、散策はあきらめ持参した缶ビールを飲みながら昼食タイムとした。そして高速バスで余り眠れなかったためか。缶ビールの酔いも手伝い2時間ばかり昼寝をした。小屋には山頂をあきらめたハイカーが続々と到着し、思い思いに休んでいる。そのグループの中には、今日の早朝福島市をバスで発ち鉾立に着きこの御浜小屋で昼食タイムを採った後、また、鉾立からバスに乗り、福島へ戻る中高年30人のグループがいるが、何と実に元気の良いものだが、果たしてそんな神風登山では、体力的にも大いに心配になるところだ。

 小屋の外は相変わらず濃霧に包まれ強風が吹き荒れている。やがて夕食タイムとなり、宿泊客の前に料理の入った使い捨てのトレイが並びそれとご飯と味噌汁が、これも使い捨てのお椀に盛られて置かれた。その料理の味は、こんな山小屋にしては味が良くとても美味しく食べられた。そんな夕食を採った後、濃霧と強風の中小屋から少し離れたトイレに行きまだ時間は早いのだが毛布にくるまり眠りに着いた。  (-.-)Zzz

 8月 2日(月)

 《行 程》
 御浜小屋=30分⇒御田ヶ原=30分⇒七五三掛=1時間30分⇒新山=文珠岳⇒伏拝岳(8:50)⇒河原宿小屋(12:30)⇒滝の小屋(14:17)⇒車道(14:47)⇒鳥海山荘 宿泊 (-.-)Zzz

 ≪山行記≫

 6時に朝食を取り雨具を着て外に出た。幸にも雨は降っていないがかなりの強風と視界を遮る濃霧で折角の景色も見えないのが非常に残念である。山頂から下山してきたハイカーに聞くととにかく、山頂は濃霧のために視界が効かずお負けに強風で体が浮いてきそうになり、怖い思いをして、やっとの思いで下山をしてきたとのことだ。それで予定を変更して山頂には行かず途中から下山することとした。

 そんな濃霧と強風の中、御浜小屋を後にし、まだ早朝だけに全身の筋肉が硬く重い足取りで、時たま強風に押されながらヨロヨロと歩いて行く。そして小屋から30分も歩いただろうか。お天気ならば愛らしい高山植物が咲き誇る御田ヶ原の平坦な所を歩く。そんな高山植物も濃霧のために何も見えずただ淡々と歩いて行くだけだ。そして最初のピーク点、七五三掛(しめかけ)に到着した。ここで小休止をしてから更に30分ばかり歩を進めたが、何故か先ほど見たような所を歩いているではないか。何とまた、元来た道に戻ってしまい何てことはない濃霧のために道を間違えてしまったのだった。そしてまた、先ほどの七五三掛に再び来てから、今度はルートをよく確かめ歩を進める。

 それから岩稜帯の文珠岳、そして山頂との分岐点伏拝岳(ふしおがみだけ)に着く。鳥海山の山頂新山は、ここから1時間位歩いたところだが、誠に残念ながら山頂はパスして、ここから急下降のアザミ坂を降りるのだ。この分岐で休んでいた山頂を目指す4名の若者達と別れを告気合いを入れてげ下山開始だ。このコースは一般ハイカーは足を踏み入れないコースで、岩場の岩稜帯が続く急降下の大きな岩がゴロゴロする、膝がガクガクと笑いそうな登山道だ。もう、岩場の下りの苦手な私にとって、全く泣けてくるつらい下りだ。

 そんな嫌な下りもやがて終わりとなりやや平坦なところに出た。ここら辺りから岩に黄色のペンキで塗った方向を示す矢印が目立つようになってきた。その黄色い矢印を辿り歩いて行くとその矢印ブッツリとが消え雪渓に飛び出た。この雪渓からどうやって歩いて良いかとにかく雪渓の白さと濃霧の白さが混濁し10m先の視界が効かずサッパリ方向が掴めない。和美が正式ルートを探すべく彷徨するがまるでルートが途絶えて分からない。この視界が効かないまま雪渓に突入したらそれこそホワイトアウトで、身動きできず、方向不明で遭難ということにもなりかねないので慎重に行動しなければならない。

 ルートが分からないときには仕方がないから、今来た道を登り返し、山頂の小屋に泊まるしかないと覚悟を決めていた。そして探すこと約、40分、再再度和美がルートを探しにかなり戻りやがて「ルートが分かったよ。」と遠くから声だけが聞こえてきた。「助かった。」どうやら黄色いペンキの矢印が、二つコースがあり、かなり上部に付けられたもう一つのコースが、正しいコースであった。やっとその正式コースを見つけ雪渓の上に張られたロープを頼りに雪渓を横断し、少し歩いて今度はかなり幅の広い雪渓を横断して、岩稜帯を下って行く。先ほどのあせった気持もすっかり和み、見ればここら辺りはニッコウキスゲの大群落で、大げさに言えば黄色い絨毯を敷き詰めたような見事な光景だ。 ヤッホー  (^o^)

 そしてやっと目標地点の一つ「河原宿小屋」に到着し、ここで御浜小屋で作って頂いたおむすびを頬張り、烏龍茶を飲んで満足し、更に歩きにくい岩ゴロゴロの登山道を下って行く。しかし、私はもうこの岩稜帯の下りですっかりと疲れてしまいギブアップ。幸にも河原宿小屋でタクシー会社の宣伝で、「この先滝の小屋から歩いて車道に出たところで、タクシーが呼べますから疲れた方はどうぞご利用ください。」と書いてあったので、本当ならばまだこれから3時間は歩かなければならないのだが、分岐で滝の小屋へ行きここでタクシー会社の電話番号を小屋番さんに聞いて電話をかける。

 そして車道に出てから綺麗なトイレ休憩所で、汗臭い衣服を脱ぎ着替てサッパリとし、程なく来たタクシーに乗り込み、今夜のお宿「鳥海山荘」の玄関に降り立った。その部屋は広々としており山荘と名付けられているが、まるでホテルのような綺麗な配置に改めて無事に着いた喜びをかみしめる。そして何はともあれ温泉だとばかり浴衣に着替えタオルを肩に浴場へ行く。茶褐色の温泉は肌に優しく長時間歩いき疲れた足腰の筋肉を優しくほぐしてくれるそんな心地よい温泉だ。そんな温泉にゆっくりとは入り、夕食は豪華なお料理で、生ビールをゴクゴクと息もつかずに飲んでしまった。最悪、雪渓でルートが分からなかったら、今頃はモウ、疲労困憊で倒れていたかも知れないと思うとこの生ビールのうまさは実にうまい。それとまるでミルクを固めたようなふんわりとした歯ごたえ、その甘味、大きさ、今がシーズンの「岩ガキ」の美味はもうたまらない美味しさだ。「アーー、生きていて良かった。」そんな感動の瞬間だ。  (^_^)

 8月 3日(火)

 《行 程》
 鳥海山荘=バス⇒酒田駅⇒酒田海鮮市場(昼食)⇒酒田駅(14:20・15:52)=特急電車⇒新潟駅(16:32・18:00着・16:43・17:06発)=新幹線⇒東京駅(19:0・19:12着)

 ≪山行記≫

 スリルとアクシデントの鳥海山の山行も無事に終わり、今日はまた、猛暑の東京へ帰る日だ。山荘のバスで酒田駅まで行き、ザックをコインロッカーに預け酒田市街を今日の第1のお目当て「海鮮市場」目指し強い陽射しの中歩いて行く。それにしても人が歩いておらず、まるで街に活気が無くもの悲しさを感じる。しかし、そんな街でも市役所は立派な高層ビルには、驚いてしまった。歩いて40分、やっとお目当ての「海鮮市場」に辿り着いた。早速昨日山荘で食べた岩垣をお土産にするためじっくりと品物を吟味し、一つ、600円の岩垣を奮発して、8個も頼んでしまった。それから2階へ行きここでも岩垣を2個も注文し、生ビールを飲みながら食べる。更に海鮮丼定食、1000円を注文し食べる。その海の幸の実に多いこと、イクラ、鮭、タコ、赤マグロの刺身、エビ等々がもう押すな押すなとばかり狭い丼の中にひしめき合っているではないか。思わず唾液がタラタラと流れニコニコしながらそれらに箸を付ける。こんなに盛りだくさんで金、1000円とはさすがは有名な海鮮市場だけのことはある。

 そんな満足をした昼食を採り、帰途はタクシーに乗り酒田駅に着き、新潟行きの電車に乗り込む。 こうして今回の夏の鳥海山の山旅は、アクシデントに見舞われたが、無事に下山できて何よりであった。今度また、眺望抜群なこの鳥海山へトライすると和美と心に決め電車に揺られ一路、東京へ向かった。



《鳥海山DATA》


標高2,236m
位置北緯39度05分57秒
東経140度02分56秒
所在地山形県飽海郡遊佐町・酒田市
秋田県由利本荘市・にかほ市
山系出羽山地
種類成層火山

概要

山体は山形県の飽海郡遊佐町・酒田市と秋田県の由利本荘市・にかほ市の4市町に跨がるが、山頂は飽海郡遊佐町に位置し、山形県の最高峰である。(山頂が飽海郡となった理由は 歴史 を参照のこと。)

東北地方では燧ヶ岳(標高2,356m)に次いで2番目に標高が高く、中腹には秋田県の最高地点(標高1,775m)がある。山頂からは、北方に白神山地や岩手山、南方に佐渡島、東方に太平洋を臨むことができる。

全体としては玄武岩ないし安山岩(SiO2 51〜62%)の溶岩からなる富士山型の成層火山であるが、北側から西側にかけては側火山や火口、さらには河川による侵食で、複雑な山容を示している。新旧2つの二重式火山が複合したもので、侵食の進んだ「西鳥海」と新しい溶岩地形をもつ「東鳥海」とからなり、それぞれに中央火口丘と外輪山がある。

紀元前466年には大規模な山体崩壊を起こし、岩石や土砂が現在のにかほ市に堆積して象潟の原型を形成している[2]。1801年の噴火では死者8名の記録があり[3]、生じた溶岩ドームは東鳥海山の新山として現在も残っている。1974年3月から5月にかけては新山の東側火口および荒神ヶ岳の割れ目から噴煙を噴出した。

山の南側には夏、「心」の字の形に雪が残る「心字雪渓」がある。山頂付近には夏場も溶けない万年雪(小氷河と表現されることがある)が存在することや、氷河の痕跡として特徴的なカール地形が存在することから、かつて氷河が形成されていたという説がある。このため、山麓の市町村では「氷河」を冠した特産品が見受けられる。

鳥海山の固有種としてはチョウカイアザミやチョウカイフスマがある。

鳥海山の峰々

東鳥海

中央火口丘
新山(しんざん) 2,236m - 最高峰。別名・享和岳。
荒神ヶ岳(こうじんがたけ) 2,170m

外輪山
七高山(しちこうさん) 2,229m
行者岳(ぎょうじゃだけ) 2,159m
伏拝岳(ふしおがみだけ) 2,130m
文珠岳(もんじゅだけ) 2,005m

西鳥海

中央火口丘
扇子森(せんすもり) 1,759m
鍋森(なべもり) 1,652m

外輪山
月山森(がっさんもり) 1,650m
笙ガ岳(しょうがだけ) 1,635m

火山活動史

紀元前466年 大規模な山体崩壊を起こす。
810年 - 824年に噴火の記録あり。
840年 噴火の記録あり。
871年 噴火および溶岩流?
939年 噴火の記録あり。
1560年 噴火の記録あり。
1659年 - 1663年 噴火の記録あり。
1740年 - 1741年 噴火の記録あり。
1800年 - 1801年 マグマ水蒸気爆発、溶岩流出、新山(溶岩ドーム)形成。8名死亡。
1821年 噴火の記録あり。
1834年 噴火の記録あり。
1971年 噴火の記録あり。
1974年 水蒸気爆発、小規模な泥流。

歴史

鳥海山は海岸に近く標高の高い独立峰であることから、古くから日本海を往来する船乗りにとってもよき目印であったと考えられる。

『鳥海山史』[4]によれば、由利郡小瀧(鳥海山修験の拠点の一つ)の旧記に敏達天皇7年(578年)1月16日噴火したことが、由利郡直根村旧記に推古天皇御代の噴火と元明天皇の和銅年間(708年 〜 715年)に噴火したことが、由利郡矢島(鳥海山修験の拠点の一つ)においては元正天皇の養老元年(717年)6月8日噴火したことが伝えられている。同書では、いずれも正史の記事ではないので安易に信ずることはできないが、真実であれば鳥海山は578年から717年の約140年間ほど活動期だったのではないかと考察している。

この山は正史へ大物忌神の名で登場し、度々神階の陞叙を受けているが、正史に現れた最初の授位の記事は『続日本後紀』承和5年(838年)5月11日の条における記述である。(神階陞叙の詳細については 鳥海山大物忌神社 を参照のこと。)
大物忌神と言う神について『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』[5]では、物忌とは斎戒にして不吉不浄を忌むと言うことであり、夷乱凶変を忌み嫌って予め山の爆発を発生させる神であると大和朝廷は考えたのではないか、と考察している。『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』[6]においても国事兵乱との関係で畏敬尊崇の対象となっていたと述べ、『鳥海山史』[4]も同様の考察をしている。しかし、秋田県の郷土史家田牧久穂は、大物忌神は大和朝廷による蝦夷征服の歴史を反映し、蝦夷の怨霊を鎮める意味の神名だと述べている。

『続日本後紀』承和7年(840年)7月26日の条では大物忌神を従四位下勳五等へ陞叙しているが、同記事では陞叙の理由を、大物忌神が雲の上にて十日間に渡り鬨の声をあげた後、石の兵器を降らし、遠く南海で海賊に襲われていた遣唐使船に加護を与えて敵の撃退に神威を表したからだとしている[7]。この記事により、初めて大物忌神が出羽国の火山らしいことがわかるが、山の姿をより詳細に記述し、大物忌神が現在の鳥海山であると推定できるのは、『日本三代実録』貞観13年(871年)5月16日の条にある、下記の出羽国司の報告である。

《出羽国司の報告。従三位勳五等の大物忌神社は飽海郡の山上にある。巖石が壁立し、人が到ることは稀である。夏も冬も雪を戴き、草木は禿て無い。去る4月8日に噴火があり、土石を焼き、雷鳴のような声を上げた。山中より流れ出る河は青黒く色付いて泥水が溢れ、耐え難いほどの臭気が充満している。死んだ魚で河は塞がり、長さ10丈(約30m)の大蛇2匹が相連なって海へ流れていった。それに伴う小蛇は数知れずである。河の緑の苗は流れ損ずるものが多く、中には濁った水に浮いているものもある。古老に尋ねたところ、未曾有の異変であるが、弘仁年間(810年 〜 824年)に噴火した際は幾ばくもせず戦乱があった、とのことであった。そこで報告を受けた朝廷が陰陽寮にて占いを行ったところ、結果は全て、出羽の名神に祈祷したが後の報祭を怠り、また墓の骸骨が山水を汚しているため怒りを発して山が焼け、この様な災異が起こったのだ。もし鎮謝報祭を行わなければ戦乱が起こる、と言うものであった。そこで奉賽を行うと共に神田を汚している家墓骸骨を除去せよと国守に命じた。》

以上の記事から『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』[8]では、四時雪を戴いて草木も生えず、登山困難な高山で、しかも4月8日に噴火したとあり、出羽国飽海郡にその様な山は一つしかないので鳥海山と推定される、と述べている。また、『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』[6]では、『日本三代実録』貞観13年5月16日の条にある「長さ10丈の大蛇2匹」とは2本の泥流であろうと言われている、との説を紹介している。

その後も『日本三代実録』には、元慶8年(884年)9月29日の条において「6月26日、秋田城へ石鏃23枚が降った」との記述、仁和元年(885年)11月21日の条において「6月21日、出羽国秋田城中および飽海郡神宮寺西浜に石鏃が振った」との記述が見られるが、噴火があったのかは不明である[7]。噴火が確認できるのは『本朝世紀』天慶2年(939年)4月19日の条にある「大物忌明神の山が燃えた」との記述で、これが中世では最後の噴火の記録となり、以後数百年間は史上に噴火の記録を見ることはなくなる。

『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』では、山腹の鳥海湖に由来する説を紹介した後、鳥海彌三郎に由来するのではないかとの考察を行っている。

神の山とされた鳥海山は修験道の場となり、矢島・小滝・吹浦・蕨岡などの主要登山口に修験者が集うようになった。『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』[8]では、蕨岡が鳥海修験の一拠点となった時期は吹浦に神宮寺が置かれた頃と推測し、『鳥海山史』[4]では、吹浦・蕨岡よりも矢島方面の修験道が相当古い由緒を持っていると推測しているが、峰々の曼荼羅化や入峰方式がどの様に確立されて行ったのか、各登山口にいつから修験者が住み着いたか等については、史料が欠けており正確には分かっていない。各登山口の修験者は、連綿とした事由からお互いに反目・対立するようになって行き、江戸時代には修験者同士の争いが矢島藩と庄内藩を巻き込んだ嶺境争いに発展、江戸幕府の裁定によって山頂が飽海郡とされている。(詳しくは 蕨岡、矢島の嶺境の論争 を参照のこと。)

近世に入り、再び鳥海山の噴火が史上に現れる。『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』[5]によれば、『由利郡仁賀保旧記』に万治2年(1659年)噴火の記事が見えると言う。しかし、庄内側に記録が無いので、北面の噴火だったのかもしれないと推測している。『出羽風土略記』には元文5年(1740年)5月上旬の噴火によって山上の瑠璃の壷、不動石、硫黄谷と言われる辺りが焼けたとの記述がある。寛政12年(1800年)の冬から文政4年(1821年)に至る期間にも鳥海山は噴火しており、特に享和元年(1801年)の噴火は激烈を極め、新山(享和岳)を生成し、『文化大地震附鳥海山噴火由来』によれば火山弾によって8人の死者を出したのだと言う。

現代においても、昭和49年(1974年)3月に噴煙をあげたことから全山入山禁止となり、『山形縣神社誌』[9]によれば山頂の大物忌神社が中腹に造営した「中の宮」へ遷座している。

鳥海山は日本海に裾野を浸した秀麗な山容を持つためか、古くから山岳信仰の対象となり、山頂と、麓の吹浦(山形県遊佐町)と蕨岡(山形県遊佐町)には大物忌神社が祀られ、出羽国一宮として崇められてきた。日本海に浮かぶ酒田市の飛島には、鳥海山の山頂部が吹き飛んできて出来た、あるいは鳥海に住む鬼が神罰を受けた際に飛んだ首によって出来たという伝承があり[10]、それが島の名前の由来であるという。また、飛島に祀られた小物忌神社は鳥海山の大物忌神社と対をなしている。

鳥海山にちなんだ名称

大日本帝国海軍の重巡洋艦及び海上自衛隊の護衛艦にこの山から名前をとった「鳥海」「ちょうかい」がある。

列車の愛称名としても歴史は古く、最初は上野発東北本線・奥羽本線経由で秋田行きの急行の愛称として登場し(この列車が後の「津軽」)、その後は上野発上越線・羽越本線経由で秋田行きの急行の愛称として長く親しまれた(臨時列車には酒田発着もあった)。東北・上越新幹線開業後は上野発上越線・羽越本線・奥羽本線経由で青森行きの特急の愛称(昼行の時と夜行の時があった)となったが、この特急時代の「鳥海」は地味かつ不遇であった。