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 Circle≪ゆ〜ぽぴあ≫・遊歩記

   第274回遊歩

≪水無月の一日・皇居一周5キロを歩き
 令和の新元号今世を繁栄を願おう≫











    遊歩日:    2019年6月9日(日)
    遊歩先:    昭和館・しょうけい館・和田倉噴水公園・二重橋・三菱1号館・JPタワー他
    参加者:   総参加者 15名
     天 候:   晴れ
 遊歩記執筆者:   K.M
  写真提供者:   浜のK,K

 《行 程》

 @ 都営新宿線新宿駅→九段下駅下車4番出口徒歩→昭和館
   昭和館:戦中・戦後の国民の暮らしに係る資料・情報を収集、保存、展示し、その労苦を次の世代に伝える   国立の施設です。(常設展示室のみ有料・65歳以上270円 大人300円 身障者・付き添いを含む無料)

 A 徒歩→しょうけい館
   しょうけい館:戦傷病者とその家族が戦中・戦後に体験したさまざまな労苦について証言・歴史的資料・書   籍・情報を収集、保存、展示し次世代の人々にその労苦を知る機会を提供する国立の施設です。(入館無    料) 

 B 昼食 九段下駅周辺のファミレス 駅そばの日高屋など〈各自支払い50分〉

 C 徒歩→清水門→竹橋→平川門→気象庁前→大手門→和田倉噴水公園→坂下門→二重橋〈14時前後・守衛の    交代式〉→丸の内中通り→三菱1号館→JPタワー〈屋上庭園散策・東京駅構内を屋上から鑑賞〉

 D 徒歩→東京駅:解散(15時過ぎ)→帰路

  
≪遊歩記≫

 6月9日(日)は、昭和を訪ねてという命題で昭和館としょうけい館を見学した。参加者は15人と予想より多かった。昭和に生れて育ち平成を生き抜き、令和において完結することが予想される方々であるから、それなりに興味を抱いたのであろうと推測される。
 JR新宿駅南口改札外で待ち合わせ、9時30分の定刻に2人が現れない。昭和と違って携帯電話という便利なものが開発されたおかげで連絡がすぐにつき、「忘れてた、今、自宅にいる」とのことで集合している15人で行動を開始した。都営新宿線に乗り九段下駅下車、4番口を出ると目の前に「昭和館」と大きな表示があるので迷うことなく入館できた。

 前もって入館予約をしていたので見学前に施設、展示概要などについて担当者から説明が行われた。昭和館は戦中・戦後の暮らしに係る資料・情報を収集、保存、展示して当時の労苦を次の世代に伝える国の施設だ。常設展示は有料だが、身障者は付き添いを含めて無料なので、今回は全員無料となった。
 7階と6階が常設展示場。7階の@家族の別れでは、成人男子国民皆兵の原則に基づく徴兵検査、召集令状、幟や旗に送られていわゆる赤紙による出征兵士となり、母や妻は無事を祈り千人針を贈る場面。A家族への想いでは、戦地と家族結ぶ手紙のやり取りに見る兵士たちの覚悟と気高さには、涙ぐまずにはいられないつらさがあった。何故に命を的にしなければならなかったのか、そこには非情な時代背景が存在した。

B昭和10年頃の家庭では、戦後の引っ越し続きの暮らしから始まった自分の体験から判断すると裕福に暮らしていた様子が見られる。C統制下の暮らしでは、戦後しばらく居候していた祖母の家にあった陶製のアイロンや湯たんぽなどを思い出した。D戦中の学童・学徒では、一世代上の人たちが学童疎開の話しをしていたことを思い出す。
E銃後の備えと空襲では、小学校低学年の時、教師から銃後の備えという言葉を聞いた。戦争で銃を取って戦っている兵士の後ろで、支える国民の務めとはとか言っていたのを思い出した。空襲警報のサイレンと赤く点滅する警報ランプの不気味さ、防空壕での破裂音と振動の空襲体験は、それだけで済ませてしまいたいもので実体験はしたくない事だ。

  空襲で焼け落ちる志村四小の写真は、板橋区郷土博物館にもあり、東京都復興記念館で見た記憶もある。現住所の近くにある小学校が空襲で焼け落ちていたのは驚きであり、今はマンション地帯であるが、当時は工場地帯であったから巻き沿いということもあるだろう。空襲被害地図には、かつて住んでいた日立市も掲載されており艦砲射撃すさまじさを聞かされたことを思い出した。
 F終戦では、6階に降りる踊場の所で終戦の玉音放送が聞けた。ニュース映画、ドラマ等で見たり聞いたりしたことのある場面だ。G終戦直後の日本は、物心ついた時ニュース映画や劇映画で見たことのある風景があった。H廃墟からの出発では、車窓から見た被災ビルを修理する人たちがコンクリートを練っていたことを思い出した。女生徒たちがシラミ退治として白いDDTを頭に散布されていたのを思い出す。I残された家族では、夫や父を亡くした家族は貧しさに脅かされていた。今は目立たなくなった質屋が多いに役に立ったと年上の同行者が話してくれた。

 タケノコ生活、東京に戻り着いた時は、父親母親の身の回り品はほとんど消えていて空身に近かったネ。J子どもたちの戦後とK復興に向けては、自分たちが成長してきた時代だから懐かしさがヒトシオという展示物であった。ローラー付きの洗濯機、電気釜などの便利製品が現れて生活がしやすくなったのを実感した時代でもある。
 L移り行く世相では、昭和10年から40年までの写真やポスター、雑誌などが掲示されていて、子供のころ読んでいた冒険王、少年画報、少年などの雑誌に遭遇して目を見張ってしまった。
戦後の展示は、自分が生活してきた軌跡を辿っているようで、展示の一つ一つに思いがあり戦前生まれの同行者の体験談を聞きながら、当時と今の落差に驚かざるを得なかった。それだけに時間が足りず、写真資料や映像資料を見ることなく出てしまったのは心残りであった。また、折を見て訪ねてみたい。11時30分にこれから自由昼食と宣して、12時30分に昭和館前の交差点に集合することにした。
12時30分、昭和館のすぐ近くで目立たないところにある「しょうけい館(戦傷病者資料館)」を見学した。ここは、戦傷病者とその家族が戦中・戦後に体験したさまざまな労苦について証言・歴史的資料・書籍・情報を収集、保存、展示して次世代の人々にその労苦を知る機会を提供する国立の施設である(入場無料)。受け継ぎ、語り継ぐの「承継:しょうけい」を子ども大人も、多くの人に親しんでもらうために平仮名表示にしたとのことだ。
2階が常設展示室になっていて、展示の主体が兵士であるからか、徴兵検査から開始されて、兵士の生活と手紙のやり取り、日記などの記録から見えてくる覚悟と家族への想いから窺える切なさとやりきれなさは昭和館と共通していた。展示そのものが受傷の瞬間、野戦病院のジオラマなどで戦傷・戦病兵を表現対象にしているので凄惨であった。そのせいか同行者達は足早に見て回っていたようである。川柳「手と足をもいだ丸太にしてかえし 鶴彬―1937年」は、もの悲しい戦争の実態でもある。
負傷した兵士たちは日本国内の陸海軍病院で治療・機能回復訓練を受け、精神的・経済的に国からの保護もあったが、敗戦でそれらも一部を除いて停止された。経済的に困窮する中で生き抜くための努力はすさまじいもので、その体験談は1階の証言映像シアターで視聴できた。昭和・平成を生き抜いた方々の穏やかな話し方、表情を見て、思わず拍手パチパチという感じであった。同じ1階の企画展示場では漫画家・妖怪研究者「武良茂(水木茂)の人生」が展示されていた。数年前に彼の戦争に関する著作物数種を読んでいたので親しみのある人物であった。
ビデオで体験談を視聴して、落ち込んだ気持ちが癒されたところで退館した。千代田区役所の前を歩いて行くと清水門前にでる。内堀通りから北の丸公園の入る橋が清水橋で門は江戸時代のままの佇まい、幅の広い石段の道はお侍が歩いた道でもある。14間四方の枡形にある石の階段を登り、内堀方向を見ると昭和館としょうけい館が見えた。道なりに科学技術館の前を歩いて行くと北桔橋門前に出る。左に折れて竹橋、毎日新聞社前、平川門前、気象庁前を歩いて、左に折れてパレスビル脇の歩道を抜けて和田倉橋を渡って和田倉噴水公園に到着した。
内堀通りを横切って坂下門前を歩いた。玉砂利の広場だが歩きやすいようにと一部舗装された道があり、皇居正門前に向かった。二重橋のある所でトウキョウだよ、オッカサン〜などと言う歌詞が浮かんできたと同行者達は言う。二重橋前で記念写真を撮り本日の目標の一つを達成した同行者もいた。
皇居前広場を抜けて日比谷通りを横切り、丸の内中通りに面した三菱一号館と美術館にある広場に立ち寄り休憩。樹木のある小庭園風の広場で多くの人で混雑していたがベンチに座って暫し歓談。広場を出ると元のビルの外壁を残して再開発された高層ビルが聳えていた。
東京駅南口にあるJPタワーを目指した。旧東京中央郵便局舎を一部保存した低層棟と200mの高層棟から構成されている。

 保存部分の6階の屋上に煙突のような円筒が聳えているので裏側から見てもすぐに分かる。今回目指したのは低層棟の屋上庭園である。ここから東京駅構内のほぼ全域が見渡せて、新幹線の発着をはじめとして東京駅に出入りする電車を観察するには絶好の場所である。子ども連れの客が多いのも頷ける。
予定した15時も過ぎたのでここで終了して、帰る組とお食事組に分かれた。行幸通りを歩いて目的地に行こうとしたら小雨が降りだしたので、並木のあるビル脇を通り日比谷通り方向に向かった。少し強くなってきたので地下に入り三田線日比谷駅を目指した。オリンピックに備えて駅の設備更新工事を行っているので歩きにくかったが、目的地は日比谷駅に着いたらすぐに分かった。少し早すぎたようでスタッフがおらず待たされたが、時間通り生ビールには到達できた。皆さん笑顔で話が弾んだのでヨカッタ、良かった。