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≪水元公園・菖蒲の花のPhotographはこちらからどうぞ≫














Enjoy《ゆーぽぴあ・遊歩記》

        第47回遊歩
 ≪菖蒲の花を探勝し江戸川縁を歩き
      八丈島料理を食べよう≫










  遊歩日:   2007年6月10日(第2日曜日)
  遊歩先:   しばられ地蔵・水元公園・柴又帝釈天
  食道楽:   八丈島料理 「船頭源八」  
  天 候:   雷雨の地晴れ
 総参加者:    34名 《ゆーぽぴあ》 20名 奥山 Achilles Group   14名 
          女性 22名 男性 12名 
          船頭源八出席者 27名
          《ゆーぽぴあ》 17名 奥山 Achilles Group 10名 

 [行程]
 京成線上野駅→高砂(乗り換え)→京成金町―バス・戸ケ崎行→ 大場川→しばられ地蔵→水元公園{園内散策、昼食}―バス→京成金町駅―徒歩→帝釈天境内通り→柴又帝釈天見学―バス→JR小岩駅→船頭源八(宴会)→JR小岩駅 解散


 ≪遊歩記≫

 今回の遊歩は、oさんの所属しているアスリートクラブ「アキレス」と職場の方々14名が参加をし、yuupolerの20名を合わせると何と総勢34名の参加者となった。そのうち女性が22名、男性12名と女性の参加者が多くそれだけに賑やかで華やいだ雰囲気を醸し出している。

 そんな参加者が上野駅中央口に集合し、京成上野駅に向かった。一同、電車に乗り乗換駅の高砂で京成金町方面の電車を待っていたら、一天にわかにかき曇り大粒の雨が降ってきたではないか。天気予報に寄れば今日は日中は曇り空とのことで、曇りならば江戸川縁を歩くのには、暑くなく丁度良いと思って天気のことは心配をしていなかったのだが、この大粒の雨は何なんだ。折角、「アキレス」のグループの方々が楽しみにしていたのに「雨とは、ソリャ無いダンベイ。ネー、お天道様。・・・!!!」  (^^;)

 そんな恨み言を点に向かいブツブツと言っていたら、京成金町方面の電車がホームに滑り込んできたので、一同それに乗り込む。願いはこの電車を乗っている間雨が降っており、金町駅に降りたらどうか雨が止んでて欲しいという、何ともムシの良い希望的観測を念じ、ハラハラしながら電車の揺れに足を突っ張って立っているが、身体の揺れに合わせる世に私のか弱いハートの動揺も大きく、そんな思いをあざ笑うように窓外を見れば何と先ほどより雨はかなり大振りで、ジャーーン、お負けに雷まで鳴ってきたではないか。  (;_;)

 やがて電車は金町駅へ到着をした。ウワー、ものすごい大粒の雨が、まるでバケツの水をひっくり替えしたように降っている。イヤー、コリャ、ものすごい雨だ。兎に角、一同駅の改札口から外に出て、この雷雨の止むのを待つこととした。そして、今日のNavigatorのyuupolerのO,Sさん、それと今度の「水元公園菖蒲探勝遊歩」には、実施前から相談をしていた地元の方で都盲協の職員のSさんが地元の利で水元公園は、「わたしんちの庭みたいなものよ。案内ならまかしといてや。」とドーンと胸を叩き気さくに承諾をして頂いたのだ。そんなお二人のNavigatorと相談の結果、雷雨だからもう、30分もすれば小止みになると思うからとそれまで雨宿りをし待機することとした。

 しかし、雨は期待に反して、益々激しく「ピカッー」と稲妻が走り、「バリバリ、ゴロゴロ、ゴロピッシャン」と音響効果抜群の雷鳴を轟かせ大粒の雨が激しく降って居るではないか。今までの遊歩では、天の
星座「ユーポピア」の女神様は、朝雨が降っていても歩き出す頃には、そんな雨も止み薄陽さえ射してくれて「サア、イッテラシャイ。歩くのに埃が立つといけないと思って、一寸水をまいておいてあげたのよ。これで気持ちよく歩けるでしょう。」と優しく微笑みお天気にしてくれたものだった。

 しかしながら、今日は何なんだ。もう、金町駅へ着いてから45分は経ってしまったではないか。雨はいくらか小降りになったもののまだ、間断なく降っている。きっと天の「ユーポピア星座」の女神様は、「アラ、いつもの《ゆーぽぴあ》の皆さんと違うのね。女の人がかなりいるではないの。マア、悔しいは・・・!!!」とJealousyの炎を燃やし嫌がらせにこんな演出をして、私達を困らせたのだろう。全く人間の女性も女神様も「女心は不可思議なものだ。そんな妙に感心をしてタバコを燻らせていたら、「兎に角、もう、これ以上待っていても雨は上がらないから、出発しましょうよ。」とこれまた、未だに女心が曖昧模糊として、その心がつかみきれないでいる和美に呼び掛けられついに駅に到着をしてから1時間、行動を開始することとした。

 一同、ゾロゾロと駅前のバス停へ向かう。幸にも天の「ユーポピア星座」女神様も余りいじめては可哀想だと思ったのだろうか。雨は小降りとなり、そんな雨も気にならなくなってきた。ソリャア、そうだろう。1時間もすれば体外雷雨だけに止んでくるものだ。そして見学の最初は、天台宗業平山東泉寺南蔵院に鎮座している、大岡政談で有名な「しばられ地蔵」へ行くこととした。バスを降り、都盲協のSさんの先導で、34名、小雨の中をゾロゾロと歩を進めて行く。私は《ぴあ・さくらんぼ》という、私の地元のグループの会員の足の悪いKさんの車椅子を押しながらお二人のNavigatorの後を「無法松の一生」の主人公、松五郎、宜しく、「アリャヨ」とばかりに車椅子を押して行く。「フー、ゼイゼイ」  (-_-;)

 そんな一同、やがて「しばられ地蔵」のある東泉寺南蔵院に到着をした。まだ雨が降っていたので、山門の所で自己紹介を済ませ、Sさんによる「しばられ地蔵」の日本昔話が始まった。 

 パチパチパチパチパチパチ

 
 「皆さん、初めまして、都盲協のSです。それではこれからしばられ地蔵について話をしてみましょう。 
        「ヨー、待ってました。」

 「皆さんは、江戸の名奉行 大岡越前のことなら時代劇にもなっているのでしっている人は多いですよね。奉行というのは今でいえば裁判官のような役目の人です。弱きを助け、罪を憎み、公平で厳しく、それでいて温情にあふれた裁きをするえらい人だったということです。
 その大岡様の名裁きの中に「縛られ地蔵」という話があります。
 亨保年間八代将軍徳川吉宗の治世といいますから、今からざっと 300 年くらい前のことでしょうか。日本橋のさる呉服問屋の手代(てだい)が荷車に反物を積んで南蔵院の前にさしかかりました。当時、南蔵院は墨田区の本所にありました。

 季節は夏だったと記録されています。境内のイチョウの木が気持ちのよい木陰を作っています。ここらで一休みさせてもらおうかと、手代は荷車をかたわらに置き、木陰で弁当を開いて食べはじめました。

 腹もいっぱいになると眠気がおそってきます。ほんの少しのつもりで寝入ってしまった手代は目が覚めてびっくり。大事な反物を積んだ車がなくなっているではありませんか。慌てた手代は番所(交番のようなところ)へ飛び込んで「泥棒だ。反物を盗まれた!」と訴え出ました。

 この事件は名奉行の大岡様が直々にとりしらべることとなりましたが、目撃者もなく、手がかりはまったくありません。そこで御奉行様は
「寺の門前に立ちながら、盗人のすることを黙って見ているとは地蔵も同罪である。ただちに縄うって召し捕ってまいれ!」
と命令。地蔵はひっくくられて車にのせられ、大勢の与力と同心(ともに警察官のような役目)に守られながら江戸市中を引き回されて南町奉行所まで吊れてこられました。

 地蔵をしょっぴいて行くというんですから沿道の人たちはもうビックリ。いくらなんでも石の地蔵に責任をとらせようなんて、大岡様はいったい何をお考えなんだろうと、江戸中の野次馬が地蔵の後をくっついて歩き、ついには奉行所までついていってしまいました。

 そこで大岡様は奉行所の門を閉めさせ、恐い顔をして一喝。
「ここをいずこと心得る。天下のお白州へ許可なく入り込むとは不届き千万。罰として、ひとりにつき一反の反物を科料申しつける」
と、言いました。

 科料というのは罰金のことです。集まった人たちは慌てて奉行所を出ていき、その日のうちに反物を買って戻ってきました。手代がその反物をひとつひとつ調べると、盗まれた品が混じっているではありませんか。大岡様はさっそく反物の入手経路を調べ、当時江戸市中を荒らしていた盗賊団を一網打尽にしたということです。

 事件を解決し、盗賊団をひっとらえることができたのは、すべて地蔵の霊験のおかげということで、大岡様は立派なお堂をたて、盛大な縄解き供養を行いました。それからというもの、縛られ地蔵は盗難除けに御利益があると評判になり、足止め、厄除け、「縛る」ということから縁結びまで、あらゆる願い事を聞いてくださるお地蔵様になったということです。

 縛られ地蔵のある南蔵院は大正時代に震災にあい、昭和 4 年(1929年)に現在の葛飾区水元に移転しました。大岡様がしょっぴいた地蔵は今も元気に縛られています。

 地蔵堂の裏手にある小さな庭園に水琴窟があります。まだ体験していない人はぜひやってみてください。地面に小さな穴があって、ひしゃくで水を少しずつ垂らすと、地下から金属的な涼しい音が聞こえてきます。」

 パチパチパチパチパチパチ
Sさん、有り難うご座いました。
そんなSさんの名調子の「しばられ地蔵」の一席が終わり、一同、「しばられ地蔵」に参拝をすることとした。お賽銭を上げてお地蔵様を縛る縄を買い求め「お地蔵様」を縛ろうとするのだが、その本体の「お地蔵様」は、もう、縄が何重にも縛られており、まるで細身の米俵が置いてあるようで、お身体は見ることも出来ない有様だ。縄で縛ろうとしても何せ縄が幾重にも巻かれているので、買い求めた縄が短く一向に縛ることが出来なかった。

 そんな珍妙な伝説の「しばられ地蔵」を参拝をし、一行はこれから今日のメインイベント「水元公園」の菖蒲探勝へと歩を進めた。

 それでは予備知識として、この水元公園について、少し話をしましょう。

        水元公園

【所在地】
 葛飾区水元公園・東金町五・八丁目

【問合先】
 03-3607-8321 水元公園管理事務所 [〒125-0034 葛飾区水元公園3-2]

【交通】
 JR・地下鉄千代田線「金町」から 
  京成バス(戸ヶ崎操車場または西水元三丁目行き)「水元公園」下車徒歩7分

【概要】

 水元公園は小合溜(こあいだめ)に沿って造られた、都内で唯一水郷の景観をもった公園です。昭和50年まで、このあたりは都立江戸川水郷自然公園に指定されていました。小合溜から引いた大小の水路が園内を走り、水郷景観を作りだしています。園内にはポプラ並木やメタセコイアの森、ハンノキなど水辺に強い樹木が育成し、ハナショウブ、スイレン、コウホネといった水生植物を多く見ることができます。

 開園年月日 昭和40年4月1日
 開園面積 817,295.49m2
 樹木数 高木:19,100本
     低木:271,700m2
     芝生:210,500m2
   主な植物 アキニレ・クスノキ・クロマツ・サクラ類・ハンノキ・ポプラ・メタセコ        イア・モミジバフウラクウショウ・アジサイ・アサザ・オニバス・ハナシ        ョウブ・ヒメガマ・フトイ・マコモ
     催物  しょうぶまつり(6月)
         子どもまつり(4月)
     施設 野外ステージ、少年キャンプ場
         冒険広場、バーベキュー広場
         かわせみの里(区営 03-3627-5201)
         集会場(涼亭)

 今日は何しろ出発時に雷雨というとんだHappeningがあったので、予定通りの行動が出来なくなった。お二人のNavigatorと相談の結果、それでWalkは止めてこの水元公園で菖蒲を探勝し、バスに乗り再び金町駅に戻り、柴又帝釈天を参拝して、最終地点、小岩駅の傍にある「船頭源八」で宴会をすることとした。

 水元公園に入り、先ずは昼食を採ることとして、その場所を探すのだが、まだ小雨が降っており屋根がある場所となると限られてしまうが、丁度東屋風の建物があったので、ここで昼食タイムとした。東屋には雨宿りをかねて既に大勢の観光客がいる為、私達は立ちながらの昼食で、何ともはや落ち着かない昼食タイムだ。それでもしっかりと持参をした銘酒を皆さんにお酌をして回る。本来、晴れていれば芝生の上でみんなで輪になり、楽しくおしゃべりをして、昼食を頂くのだが、全く女神様の嫉妬で予定が大幅に狂ってしまった。

 そんな昼食タイムも早々に切り上げ一同、菖蒲探勝へと向かった。青、白、ピンク等々の菖蒲が雨に濡れ咲き誇っている。やはり、この菖蒲の花は、アジサイと同様に雨が似合う花で、しっとりととても風情がある光景だ。そんな雨に濡れた菖蒲の花をO,KさんとI,Mさん
がお二人で仲良く触り、その感触で菖蒲の花を脳裏に描写をしているのだろう。その傍で《ぴあ・さくらんぼ》のKさんも車椅子に乗りながら、眼を細めそんな見事な菖蒲の花を見ていた。

     手に触れし
       菖蒲の花に
          願い込め

 そんな見事な菖蒲の花を探勝し、一同、バスに乗り金町駅へと向かった。それで今日は歩いていないからと、Sさんの誘導で金町駅前から柴又帝釈天まで金町浄水場を左に見ながらテクテクと歩きやがて帝釈天通りへとやって来た。さすがに帝釈天に続くこの参道はいつも賑わいを見せ、京成電鉄柴又駅前から参道が伸びている。参道の両側には名物の草だんごや塩せんべいを売る店、老舗の川魚料理店などが軒を連ねている。
そんな賑やかな通りを歩き帝釈天へと向かい本殿で手を合わせ参拝をする。

 それではこの柴又帝釈天について、話をしましょう。

       柴又帝釈天

 江戸時代初期(17世紀前半)の寛永6年(1629年)に禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』をはじめ多くの文芸作品に登場し、東京近郊(当時は東京ではなかった)の名所として知られた。20世紀後半以降は、人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるようになる。年始や庚申の日(縁日)は非常に賑わい、映画『男はつらいよ』シリーズ制作中は、観光バスの団体客が大勢訪れたこともあるが、同シリーズの終焉に伴い、参拝客、観光客が年々減少している。

 「柴又帝釈天」の通称でもっぱら知られるところから、帝釈天が当寺の本尊と思われがちだが、日蓮宗寺院としての本尊は、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)である。また、当寺が柴又七福神のうちの毘沙門天にあたることから、「帝釈天=毘沙門天」と解説する資料が散見されるが、帝釈天と毘沙門天はその起源を全く異にする別々の尊格であり、柴又七福神の毘沙門天は、帝釈天の脇に安置される多聞天(別名毘沙門天)を指すと解される。

歴史

縁起によれば、題経寺の創建は江戸時代初期の寛永6年(1629年)で、開山は中山法華経寺
(千葉県市川市)19世の禅那院日忠とされている。なお、寺の説明によれば、実際に寺を開
いたのは日忠の弟子にあたる題経院日栄であるとされる。本堂右手にある釈迦堂(開山堂)
に日栄の木像が安置されていることからも、この日栄という僧が実質的な開山であると思わ
れる。題経寺の中興の祖とされているのが9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧であり、彼は一時行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を再発見した人物であるとされている。日敬自ら記した縁起によれば、この寺には宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊があったが、長年所在不明になっていた。それが、日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から発見されたという。この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、片面には右手に剣を持った帝釈天像を表したもので、これが発見されたのが安永8年(1779年)の庚申の日であったことから60日に一度の庚申の日が縁日となった。それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まっていったという。柴又帝釈天が著名になり、門前町が形成されるのもこの時代からと思われる。近隣に数軒ある川魚料理の老舗もおおむねこの頃(18世紀末)の創業を伝えている。

 境内

 参道の突き当たりに二天門が建ち、正面に
帝釈堂、右に祖師堂(本堂)、その右手前に釈迦堂(開山堂)、本堂裏手に大客殿などが建
つ。境内はさほど広くなく、建物は大部分が明治以降の再建である。二天門、帝釈堂などは
彩色を施さない素木造のため一見地味に見えるが、細部には精巧な装飾彫刻が施されている。

 皆さん、それぞれ参拝を済ませ買い物に熱中をしている。私はKさんに買っていただいたお団子を食べながら参道の傍らで皆さんが来るのを待つこととした。やがて皆さん、集まってきたので、ここから小岩駅までバスに乗り行くこととし、バス停で今日のNavigatorのSさんとお別れをした。やはり、地元の人でないと細かい所は分からないので、今日は雨のために大幅に予定が変更になった中で効率よく巡ることが出来たのも一重にSさんのお陰だ。
 「Sさん、本当に有り難うご座いました。」 (^^)/~~

 そしてバスは小岩駅前に到着をしたが、「船頭源八の開店時間、5時までには、30分もあるため駅前のある店舗の小スペースの所で銘酒を飲みながら待つこととした。これもみんなでやれば怖くない。そんな群集心理で、とても一人では出来ない荒技だ。そして「丁度時間となりました。」とばかり「船頭源八」へと向かった。ここでは「アキレスグループ」と席が別になり、私達は先ずは生ビールで乾杯をして、八丈島料理を食べながら焼酎を飲みお互い談笑をする。こんな至福のひと時約、2時間過ごした後、JR小岩駅にてお別れをし皆さんそれぞれの家路へと向かった。

                                オシマイ