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《≪第16回遊歩 世界遺産熊野古道を歩く≫》

《熊野古道・中辺路紀行》


  遊歩日:   2005年10月8日(土)・9日(日)〜10日(月)・11日(火) 
         3泊4日
  遊歩先:   熊野古道 熊野本宮大社・熊野速玉大社・那智大社
  天 候:    8日(土) 晴れのち雨  9日(日)  曇り 
         10日(月  雨     11日(火)) 雨後曇り
  参加者:   11名

 〈行程〉

 10/08(土)

 東京駅(7:13発・のぞみ5号)→新横浜(7:32)→新大阪(9:49着・10:03発くろしお9号)→紀伊田辺駅(12:09着・12:20発)―バス→鮎川新橋(12:45着・13:00発)→住吉神社(13:30〜13:40)→鮎川王子→御所平(14:30)―徒歩→清姫の墓バス停→バス停→役場前→民宿「ききょう屋」 (宿泊)  (-.-)Zzz

 ≪遊歩記≫

 この10月の連休は、天気予報では、雨の確率が高く折角の熊野古道の遊歩も雨の中を歩くことになりそうである。マア、それでも完全なる山歩きでなく半分観光も兼ねての計画なので、雨になったとしても気が楽だ。私達東京からの10名と奈良県在住のMさん lと紀伊田辺駅で合流し、総勢11名が修験者、宜しくいよいよこれから3泊4日の「世界遺産・熊野古道」の道中が始まる。

 この紀伊田辺は、人口70,935人の小都市で南紀地方における政治、経済、文化の中心地である。まもなく周辺4町村との自治体合併が予定されており、産業としては伝統的な漁業と農業がある。郊外では梅とミカンが栽培されている。山間部の秋津川地区には、
「紀州備長炭」の発祥地とされている所がある。
 また、駅前には銅像もある源義経の家来である弁慶の生まれた地で伝説的な逸話が数多く記されている。

 この田辺は古くから「口熊野」とも言われ大阪方面から熊野に到る古道は、紀伊路という和歌山を通り海岸線に沿った道を南下すると田辺は熊野の最も西の端にして、入り口なのである。ここからの道は更に海岸を行く大辺路と山中に入る中辺路とがあり、中世から熊野詣の主要な道路は中辺路であった。

 私達はこの山中の中辺路を歩き通し、11日までの最終地点、那智大社までの長い道中がこれから始まるのだ。駅前から25分ほどバスに乗り鮎川大橋のバス停で下車し、道中の身支度を済ませ各、ペアとなり意気揚々と中辺路の第1歩を刻み富田川の清い水が流れる鮎川大橋を渡り対岸に出て、そこから左に折れ舗装された道をさわやかな川風を身体に受け皆、快調に歩いて行く。川岸には白いススキが風に揺れまさに秋の風景である。それにしても秋とは思えないような暖かさで、歩いていると汗ばんで長袖のシャツがうっとうしいくらいだ。天気は曇っているが、コの分だとどうやら雨にはならずに済みそうなのでこれは助かる。

 まもなく幹周り4mのオガタマの大木が茂る住吉神社に到着をした。この住吉神社は、明治7年に鮎川王子が合祀されており、歴史の重みを感じさせる社殿だ。これからの中辺路の旅の無事を祈願し鈴を鳴らし参拝する。心新たにし歩き始めると何と今まで曇っていた空が、急変し大粒の雨が降ってきたではないか。お賽銭を上げ道中の無事を祈願したばかりだというのに「雨を降らせるなんて、それはないだろう。」と神様に文句を言うが、神様は「わしゃあ知らん。」とばかりに無情にもお構いなしに大粒の雨を激しく降らしてくれる。それでやむなくまた、住吉神社に戻り、雨が小降りになるマテ待つこととした。

やがて10分も待つと雨は大分小降りになったので出発することとした。広い舗装された道を暫く歩くとやがて狭い土道となり熊野古道の始まりという感じである。瀬音を聞きながら川岸の狭い道を歩いて行くのだが、私の後ろから歩いてくるSさんの歩きがどうも千鳥足で真っ直ぐに歩かず足を外に出して歩くので、サポートをしている私は何度か緊張をする。この度、神域熊野古道に入るということで、私と東京から飲んできたお清めの御神酒がまだ相当に効いているようで何とも危ない足取りである。

 そんな川岸の道をしばらく歩きやがて里山の樹木が茂る暗い道に入り、里山の道を上り下りを何度か繰り返すとほどなく舗装された道となり、小広い御所平という所に出た。ここは後白河法皇の仮御所があったと伝えられる所である。更に歩を進めて行くと人家が点在する開けた人口3826人の中辺路町という山村に出た。まもなく田辺市と合併をするそうで静かな佇まいの村だ。

 ここら当たりからまた、雨が激しく降ってきたので、私は一行と遅れて、小屋の軒を借りて、ザックから傘を取り出しそれをさし皆に追いつこうと大股で歩くのだが、一行には追いつかずやがて道が左に下る道と真っ直ぐに行く道と二別れる分岐点に到達した。はて、どちらに足を向けたらよいか分からず暫し思案の末、多分真っ直ぐに行く道が正しいのであろうと判断をして、歩を進めて行くが全く皆さんの声も聞こえず姿形も見えないではないか。やがてその道も右に曲がって行き上り坂となり、これはおかしいと思い幸い民家があったので、皆が向かって行く目標の清姫の墓の道順を尋ね先ずはそこに向かうこととした。

 民家の方に教えられたとおりに歩を進めて行くとやがて広い国道に出た。雨は激しく降っており、少々迷い人としては心細い心境でとにかく「清姫の墓」に向かうことにした。この清姫の墓は、悲恋の物語、安鎮、清姫の伝説として有名な清姫の墓があるところで、この山村の娘と修行僧の安鎮とが、何時しか恋仲となりその情愛を燃やしていくのだが、ある日清姫が鏡に向かって髪を梳かしている姿を何気なく見た安鎮は、それは白い蛇だったので、もう恐ろしくなり安鎮は、無我夢中で道成寺に逃げ込みその分けを僧侶に話し釣鐘の中にかくまって貰うこととした。一方愛しい安鎮を追いかけてきた清姫は白蛇の姿となりその釣鐘をとぐろ巻きにして灼熱でその中の安鎮を白い骨になるまで溶かしてしまったという逸話がある。そんな清姫の墓がある所だが、それはあくまでも伝説で実際にそんな清姫が実在して墓に埋葬されているわけではない。

 左側に渡り車が行き交う雨の国道を大股で歩く。やがて広い大橋を渡ると道が左に行く分岐点に到着し、この道を左に行くと「清姫の墓」がある所に行けるのであろうが、やたら動いてもかえって迷うばかりだと考えて、歩いて行くとすぐに「清姫の墓」のバス停に到着した。そこで落ち着くためにたばこを吸いながらふとストックを持っていないのに気がついた。おそらくザックから傘を出したと紀伊忘れてきてしまったのだろう。まだ買ったばかりなので少々残念であるが仕方がないとあきらめながら考えを巡らす。

 こうなったらここでただ漠然と待っていても仕方がないと考えて、今日の宿「ききょう屋」まで行こうと決断をし歩を進める。途中国道沿いの民家に「ききょう屋」の道順を尋ねると男の足で30分もあれば行くことが出来るだろうと教えられたので、とにかく「ききょう屋」へ向かうこととした。雨は小止みになっておりその点は大いに助かるが、何せ不案内の所だけに果たしてどのくらいの時間で「ききょう屋」に到達できるかが大いに心配になる。

 不安になりながら歩を進めて行くと国道の右側に何やら商店らしい建物が見えたのでそこまで行くとそれはペットショップであった。そこでまた、「ききょう屋」までの道順を聞くこととした。店主に尋ねると50分ぐらいはかかるだろうと言われてしまいガッカリとしてしまった。とにかく連絡をしなくてはと電話を借り和美と連絡をし、するとこちらに歩いて向かっているからここで待つようにとのことで、そこで所在地を告げて皆が来るのを待つこととした。

 すると程なく和美、Nさん、Mさんの3人が到着をした。他の方は「清姫の墓」のバス停から乗車をするので、私達はとにかく次のバス停まで歩きそこからバスに乗り皆さんと合流することとした。分けを聞くと分岐点の所で左に来れば皆さんに追いついたとのことであった。それでNさんがすぐ私が遅れていることに気がつき慌てて引き返し、私が小屋の軒先でザックから傘を出していたところまで見に来たらストックだけが置いてあったと言うことで、私は普段何しろ行いが悪いので、神の祟があり、神隠しにあって神罰が下ったのだろうなんて、そんなことを話をしていたとか・・・!!! (^^;)

 そんな初日から迷い人のとんだアクシデントがあり薄暮になってようやく一行は今日の宿「ききょう屋」に到着をした。早速一風呂浴びて汗を流し先ずはビールで喉を潤す。そして夕食タイムとなったのでご馳走を前に一同笑顔満面に浮かべまた、ビールで乾杯をし、今日の話をしながらまた、明日に期待をし一夜の憩いに着いた。

 〈行程〉

 10/09(日)

 民宿ききょう屋(8:00)―マイクロバス→滝尻(8:20)→熊野古道史料館→滝尻王子(9:00)経塚跡(9:55)→不寝王子跡→高原熊野神社(11:15〜12:00)→大門王子跡(12:45)→十丈王子跡(13:25)→上田和茶跡(14:15)→大坂本王子跡(15:05)→熊野古道道の駅(15:22)→牛馬童子石仏(16:02)→近露王子跡(16:25)→ 民宿「ちかつゆ」(16:40) 宿泊 (-.-)Zzz

 ≪遊歩記≫

 今日はお天気は曇り空だが幸にも雨が降っていないだけ大いに歩くのには助かる。私達一行はききょう屋のマイクロバスで実際の中辺路の出発点、滝尻王子まで送ってもらい総勢11名は、気持ちを新たにし、これからの中辺路の旅路に思いを寄せ気分は聊か高揚をしている。まだ出発には時間があるので富田川の対岸にある「熊野古道史料館」を見学することとした。ここには熊野古道に関しての歴史的な変遷や資料が展示してあり、ビデオテープではこれから行く熊野古道中辺路の紹介をしている。

 そこでこの熊野古道について少し話をしてみよう。

 熊野古道は、本宮、新宮、那智の3社)への参詣路。古代から中世までの熊野街道は熊野古道ともいわれる。熊野参詣路には、東から伊勢路(いせじ)、北山路(きたやまじ)、大峰路(おおみねじ)、十津川路(とつかわじ)、高野路(こうやじ)、紀伊路などがあり、広くはこれらすべての道が熊野街道であるが、一般には伊勢路と紀伊路、とくに紀伊路をいう場合が多い。江戸時代には、このうち和歌山(→ 和歌山市)から新宮(→ 新宮市)にいたる紀伊路を西街道、伊勢松坂(→ 松阪市)から新宮にいたる伊勢路を東街道ともよんだが、この東西両路はほぼ現在の国道42号にあたる。

古代〜中世の熊野街道

平安後期からのいわゆる院政時代に、熊野詣が盛んになった際、上皇や貴族たちがとおった道は紀伊路であり、白河上皇の参詣以来、紀伊路が公的なルートとみなされた。当時の道筋は、京都から淀川を船でくだり、摂津窪津(くぼつ:大阪市中央区)にたちよる。ここからは陸路、和泉と、紀伊国境の雄山峠(おのやまとうげ)をこえて紀ノ川をわたり、田辺(→ 田辺市)にいたる。田辺からは、道を山間部にとって本宮・新宮へとむかう中辺路(なかへち)と、枯木灘・熊野灘の海沿いを那智にいたる大辺路(おおへち)の2ルートがあり、上皇・貴族の熊野詣は中辺路を利用するのがふつうだった。

 この街道筋の要所には、窪津から三山まで熊野九十九王子社といわれる末社がおかれ、それが奉幣所(ほうへいしょ)であるとともに参詣者の休息所ともなっていた。この九十九王子というのは、かならずしも実数ではなく、時代によって変化もあったようだが、記録上は、窪津の第1王子以下、60〜70の王子社が知られている。そして五体王子といって、熊野権現の直系の上位にある支社で、藤代王子、切目王子、稲羽王子、滝尻王子、発心門王子の五社がある。上皇・貴族の熊野詣は、鎌倉中期の亀山上皇を最後におこなわれなくなるため、以後、庶民の参詣でにぎわいはしても、上皇・貴族たちの支援をうしなった九十九王子社は、しだいにおとろえていった。

 後白河法皇の撰という「梁塵秘抄」には「熊野へ参るには、紀路(きのじ)と伊勢路とどれ近しどれ遠し」という歌があり、すでに平安末期には伊勢路も開かれ、利用者もあったことが知られる。鎌倉末期からは、熊野三山と伊勢神宮の両社それぞれの信仰が広がり、熊野参詣と伊勢参詣(→ 伊勢信仰)とをかねた、東国からの巡礼者も多くなった。室町時代からは、これにくわえて西国三十三カ所巡礼も盛んになり、そうした信仰の道として、蟻の熊野詣として、大勢の参拝者が行き交い熊野街道伊勢路はにぎわうことになった。

近世の熊野街道

伊勢路のルートは時代による変遷もあるが、江戸時代には和歌山藩によって、紀伊と伊勢国境の荷坂峠(にさかとうげ)越えが開かれ、伊勢松坂から栃原(とちはら:→ 大台町)・三瀬(みせ:大台町)・紀伊長島(→ 紀伊長島町)・尾鷲(→ 尾鷲市)・木本(きのもと:→ 熊野市)をへて新宮にいたるルートが整備された。この道はたびたび和歌山藩主の江戸への参勤交代につかわれ、また、幕府巡検使のとおる道ともされたため、ただ信仰の道というにとどまらず、和歌山藩の藩政上も重要視された。

 サア、こんな熊野古道の歴史的なる変遷をしっかりと頭に入れそれでは出発をしよう。
先ずは滝尻王子で旅の無事を祈願をした後、歩を進めて行くといきなり古道は急登となり、岩や木の根が錯綜する非常に歩きにくい道となり、まだ身体が朝なのでダレている身には辛い登りだ。後ろのSさんからは「少しゆっくり歩いて・・・!!」と声がかかるが、先方はドンドンと登って行くので、間を開けないようにと歩を進めて行くのだが、それがSさんには応えるようだ。今日は御神酒は入ってはいないのだがペースが掴めないのであろうか。  (^^;)

 そんないやな急登の道を10分も歩いただろうか。「乳岩」という所に出た。これは伝説によると東北の奥州平泉の豪族、藤原秀衡が妻と共に熊野詣の折、妻が産気づいたのでまだ旅を続けなければならない一行は、熊野の神に願を掛け岩屋に生まれた我が子をこの地に残し、熊野詣をした後にこの地に立ち寄ると何と我が子は岩から滴る乳を飲みながら狼に守られてすくすくと育っていた。それで秀衡は滝尻に秀衡堂という鵞卵を創建し経典や武具を納めたという。

 そしてその傍には仏野体内に入り汚れを清めて新しい生命体に生まれ帰るという修験道の思想である。胎内くぐりが出来る岩の祠があり、そんな祠に入ってみたが身体を丸めて入るのがやっとであった。道は林の中の急坂をなおも一文字に登り、ねづ王子、経塚跡、剣山を経て飯盛山(341m)の頂上の見晴台に出る。ここで休憩を取り四顧の山々と眼下に広がる集落と富田川の流れを見ながら水を補給し一息つく。

 一息ついて出かけようとしたら、Nさんが蜂に刺されるというアクシデントがあり、幸にも雀蜂でなく小さな蜂でほっとする。ここからの道は緩やかな下りとなり一端車道に出てまた、緩やかな登りとなる。やがて道は広くなり人家が点在する山里に出た。そしてほどなく高原熊野神社に到着した。この高原熊野神社は、社殿は簡素ながらも春日造の檜皮葺で熊野古道最古の建造物とされ県文化財に指定されている。境内の楠や樫は社殿よりも更に長い歳月を生きているようだ。神社は集落の入口付近にあり、家々は西南に向いた斜面に田畑と共に散らばっている。

 私達はこの広い駐車場のベンチで、辺りの景色を見ながら昼食タイムとし、「ききょう屋」で作ってくれた郷土料理の高菜でご飯を巻いておむすびのようにした「めはり寿司」を食べる。これが実にうまい、適当に塩味が効いていて空腹には応えられないご馳走だ。傍には茶店兼、休憩所が在り地元のおばちゃんが旅人に優しく応対をしている。それにしてもこの集落の人達は素朴でホッと気持ちが和むような雰囲気があり人の温かさを感じる。

 しっかりと腹ごしらえをし、休憩を取ったので、まだ先が長いこともあり出発することとした。道はいきなりの急登となり腹が一杯だけにその坂道の登りが皆さん、堪えるようでノロノロと歩いて行く。路傍にはコスモスやシュウメイギクが咲いておりのどかな集落の風景である。途中には廃虚となった家屋が何軒か在り、その家を捨てていかなければならなくなった当時の人達の哀れさが心に浸みてくる。高原の集落から離れると道は檜林の下を緩やかに登って行く。しかし、滝尻王子から高原熊野神社までは険しい山道であったが、熊野神社からはお昼を食べたこともあり眠気を催すような緩やかな広い道で一行、のんびりと歩いて行く。そんな植林の道を登って行くと青く光る高原池があり、かつては里の田んぼの用水だったと思われる所だ。

 やがて大門王子に到着をする。ギョクデイ岩に大門王子と刻まれた碑は、共保8年(1722)に紀州藩が社殿が無くなった後に建てた物だといわれる。これより道は緩やかに登り下りしながら続いて十丈王子に到着をする。ここで小休止をし烏龍茶を飲み渇いたのどを潤す。ここら当たりまで来ると足の方が「そろそろもう、歩かなくていいんじゃあないの・・・!!!」と訴えてきて何とも足がかったるくなってきた。そんな足に活を入れて更に歩を進めて行く。

 暫く歩いて行くと小さなお地蔵さんの「小判地蔵」という所に出た。熊野古道を旅をしていた巡礼が小判を加えて死んでいたという伝説がある。更に登って行き悪四郎山(782)の肩を越えて行く。この悪四郎は何時の時代の人物だか分からないが怪力の持ち主だったと伝えられる。ここは田辺から本宮の間で最も高いところだといわれる。この悪四郎山を横に巻いて行くと遙かかなたにうっすらと奈良と和歌山の県境付近の果無山脈が見えてくる。また少し登って行くと上田和茶跡に出た。ここは江戸時代から茶店のあった所で大正時代まで人家があったとされるが今はうっそうとした杉林である。

 更に平坦な樹木に覆われた道を淡々と歩を進めて行くと大坂本王子跡に出た。昔は小社が建っていたが小社が無くなって久しいようで、今は屋敷跡に鎌倉時代の物とされる崩れかけた傘と輪が残っている。杉林の道は谷に沿って下りやがて国道に出て「熊野古道の道の駅」に出た。ここはマイカーや大型の観光バスが何台も止まっており、観光客で賑やかである。私達はここでトイレに行ったり、水分を補給したりして20分ばかり休むこととした。

 サア、あと一息の歩きで今日の宿「民宿・ちかつゆ」に着くので、皆さん、もう一頑張りで元気を出して歩いて行こう。国道を横切り林に入り斜めに登って行く。ここら当たりは観光客が結構歩いており、私達一行を奇異な目で見ているように感じられる。十人の山支度の完全装備をした姿が珍しいのであろうか。やがて10分もすると橋寄峠に到着をした。ここには牛と馬にまたがった可愛らしい牛馬童子という石仏が鎮座している。傍には1m位の鎌倉時代の物とされている塔が建っており、紀州藩の一里塚となっていた所でもある。

 ここから道は下りとなりやがて歩きにくい石畳を下ると昔の熊野古道の水守場とされたひき川にかかるきたの橋を渡ると近露の里に出た。今日の無事の旅の御礼に近露王子跡にお参りをし静かな里村を歩き畑が続く長い道を歩いてようやく今日の宿「民宿・ちかつゆ」に到着をした。「民宿・ちかつゆ」はとても綺麗で三つの大部屋を私達のために提供してくれた。何はともあれ先ずは温泉に入ることとして、別棟になっている温泉棟に行きどっぷりと温かなヌルヌルした温泉に浸かる。「ウーーン、気持がいいや。やはり、温泉はイイナーー・・・!!!」今日の長かった旅の疲れがほぐれていくようで実に気持ちがよい。

 そんな気持ちがよい温泉に入った後は、やはり、これでしょう。お互いにビールを飲みながらみんなほっとした笑顔、笑顔である。ビールを飲みながら談笑をしているうちに夕食タイムとなり、食堂に行く。今日のご馳走は温泉鍋でこの温泉をベースにして鍋に入れて柔らかな豆腐が熱によって解けて白濁となり、そこに色々な野菜や牛肉などを入れて食べる鍋料理でこれが実にうまい、そして絶品なのがアマゴのテンプラだ。このアマゴは川魚でめったに取れないもので、Aさんがもうこれが食べられるので感激一入である。そんなご馳走を食べながらのビールが実にうまい。やがてそんなご馳走の 夕食も終わり、部屋でゆっくりと飲み直しながら、来年の遊歩に花が咲く。Mさんの自然農園に行くことが話題になった。それにしても本当に今日は良く歩いたものだ。健康と友人に恵まれたこの至福の一時を感謝をし、話も一段落したところでお開きとして皆、良い気持ちとなり眠りに着いた。


 〈行程〉 

 10/10(月・体育の日)

 民宿「ちかつゆ」→近露(バス・7:24発)―バス→小広峠→登山道(8:00)→岩神王子跡(9:17)→お銀地蔵(9:55)→湯川王子跡(10:31)→三越峠(11:10〜11:30)→猪鼻王子跡→発心門(14:04)→熊野本宮大社(14:30・16:20発)―バス→新宮駅(17:25着)→ステーションホテル「新宮」 宿泊  (-.-)Zzz

≪遊歩記≫

 何と朝、起床し窓外を見ると大粒の雨が降っているではないか。この旅路で今日は一番長いコースだというのにガッカリして肩から力が抜けてしまった。それで雨ということで歩程時間を一部短縮し、発心門からバスを利用して熊野本宮大社に行くこととした。

 小広峠バス停で下車し車道を反対側に渡り坂道を少し歩いて、トイレのある登山口でそれぞれしっかりと身支度をし、サア、雨中行進宜しく長い旅路の始まりだ。坂を少し下ると河原に出て、橋を渡り対岸に向かいそこから歩きにくい山道となり、杉と檜の植林された薄暗い道を行く。雨は間断なく降っており、汗と雨で身体はすっかりと濡れてしまい少々気持ちが悪い。道はまた大きな石がゴロゴロとした下りとなり慎重に下って行き「橡のごう川」の谷底に出た。昔は橡の木が多かったのでそんな名前が付いたのであろうが、現在は杉や檜の植林の山に変わってしまった。

 山道は何度か上り下りを繰り返しまた、清流の谷川を渡りながら雨に濡れ柔らかくなった歩きやすい土道を歩いて行く。やがて「お銀地蔵」という小さなお地蔵さんが奉られてある所に出た。なんでも昔、お銀は今日との芸子でこの土地の郷士の男と仲が良くなり、ここまでその男を追いかけてきたが、途中で強盗に遭い金品を盗まれた上に殺されてしまった
という悲恋の伝説がある。

 歩きやすい平坦な道を谷川に沿って進んで行くと「湯川王子」に到着した。「湯川王子社」は、地元の守り神として奉られてきた神社である。無住になった後、社殿も朽ち果てて倒壊したが、昭和58年に地元の関係者により再建された。素朴で小さな建物である。この「湯川王子」から道は登りとなり「三越峠」に出る。峠は立派な車道が通っており丁度、小屋があったのでここで昼食を取ることとした。身体は雨と汗ですっかりと濡れてしまって寒さが少々応える。「民宿・ちかつゆ」で作ってくれ「めはり寿司」を食べたが、最初の民宿ききょう屋で作ってくれた「めはり寿司」の方がうまかった。

 この三越峠は、中辺路町と本宮町との境界であるが、近々田辺市と合併をしてそんな境界もなくなってしまう。大正時代の初めまでここに茶屋が三軒もあり餅や酒を売って旅人の休息場として結構栄えていた。この「三越峠」は、この辺りから熊野本宮大社の御神輿にする木を切り出していた所から「神輿峠」と名付けられたとも言われている。

 何しろじっとしていると寒いから昼食も食べたことなので出発することとした。この「三越峠」からは、急な下りとなりグングンと下って行く。途中で沢蟹が何匹も登山道にはい出て来てヨチヨチと横歩きをしている。誰かが「沢蟹を唐揚にしておつまみにしていっぱいやったら最高だよ。」などと可哀想なことを言っている。そろそろ歩き疲れたのでもう頭にはお酒の瓶がちらちらしているのであろうか。道はやがておとなし川に沿った林道に出る。

 そんな広い林道を暫く行くとトイレがある休憩所に出た。ここで一同休憩を取り、更に本街道を直進すると舟たま神社と玉姫稲荷神社が並んで奉られている。また、暫く歩いて行くと林道の下に「猪鼻王子」山裾が猪の鼻のように突き出しており、どことなくユーモアを感じる。更に古道に移りこの旅路最後の上り坂を登り切ったところが発心門である。昔は発心門という門が有ったとされているが、現在はなく鳥居が建っているだけである。発心門とは、没菩提心、仏道に入り、仏の知恵を学ぶ志を立てることで、すなわち、熊野の聖域に入ることを意味し、ここで嗽(ウガイ)、手水(チョウズ)に身を清め神仏に接するという気持ちを改めて聖域に入るのである。


 「ヤレヤレ、雨の中を良く歩いたものだ。・・・!!!」ここで滾々と湧き出でる水を飲む。これが実にうまい水で、Mさんがこの水でウィスキーを水割りにして皆さんにご馳走をしてくれた。何しろ雨と汗で身体がすっかり濡れているために寒いので、この水割りのご馳走は実にタイミングが良くさすがは酒好人、気持ちが相通じるものがある。顔がポットしてきて、気分も良くなった。予定としては、ここから熊野本宮大社まで歩くのだが、それをカットしバスを利用し熊野本宮大社に向かうこととした。

 大鳥居をくぐり玉砂利を踏みしめ石段を登って行き、三門を通ると神秘なる権現造の熊野本宮大社に出た。古くは熊野川の中洲にあった本宮大社が、明治22年の大洪水で流出した後、明治24年に北よりの台地に再建されたのが現在の本宮大社である。流出を免れた社殿を移築し復元した権現造の実に風格有る建物で思わず頭を下げたくなる。熊野三山(熊野本宮大社、速玉大社、新宮那智大社)の一つで、結び彦の神阿、弥陀如来が奉られている。速玉大社は、熊野速玉の神、薬師如来、那智大社は、熊野結びの神、千手観音がそれぞれ奉られている。

 本宮大社の本殿正殿に結彦の神である阿弥陀如来が鎮座しており、両脇の第1殿に結びの神、第2殿に速玉の神、第3殿に天照大神、千手観音と三山の神仏と若宮を奉っているのである。これが速玉、那智でも同様に四体の神仏を並べていわば熊野三山の全体を表している。私達はその神々に手を合わせお参りをして行く。皆さん何を祈願したのだろうか。そんな参拝も済ませバスの時間にはまだ間があるので、無愛想なレストランに入り、熱いうどんとビールを飲み時間待ちをする。

疲れも手伝ってウトウトとしていたらバスは、終点の新宮駅に到着した。ここから少し歩いて本日の宿であるステーションホテル「新宮」に着き、一風呂浴びてからホテルの前にある居酒屋に夕食を取りに行くこととした。先ずは生ビールでのどを潤す。今日は雨の中を歩いただけに疲れも結構あり、それだけにこのビールが実にうまい、お刺身、天麩羅、鯨肉、鶏唐揚げ等々をつまみにして大いに酒の量が進んで良い気持ちとなる。酒好人3人組は後まで残り地酒で杯を酌み交わし、男の友情を熱くし大いに談笑して、お互い結構酩酊をし良い気持ちとなったのでホテルに帰り即、爆睡をした。 (-.-)Zzz

 〈行程〉

 10/11(火)

 ステーションホテル「新宮」(6:00)→熊野速玉大社→ステーションホテル「新宮」(6:50着〜7:30発)→新宮駅→那智駅―バス→大門坂バス停―徒歩→熊野那智大社→那智の滝→神社お寺前駐車場(バス10:55発)→紀伊勝浦駅(11:21着・ワイドビュー南紀6号・12:46発)→名古屋駅(16:17着・のぞみ18号・16:47発)→新横浜(18:10着)→東京(18:30着)

 ≪遊歩記≫

 早いもので今日はこの世界遺産・熊野古道遊歩の最後の日である。早朝6時にホテルを出てまだ朝靄が立ちこめている静寂な新宮の街を速玉大社に向かう。この新宮市は和歌山県の東の端にある町で江戸時代は紀州藩の付家老水野公の単閣城があり、三万五千石の新宮藩だった。その時代より我が国屈指の木材の町として栄え実質十万石とも言われた。だが現在は道路網も整備されまた、外国からの輸入木材などに押されて往時の繁栄の様子は見られず人口も32707人で、近々熊野川町、北山村と合併の予定である。

 玉砂利を踏み朱塗りの鳥居をくぐると鬱蒼とした木立の中に速玉大社の社殿が並んでいる。明治16年の火災で消失した後、明治27年に再建された。第2殿に速玉宮の主神の熊野速玉神、薬師如来が鎮座し脇に熊野本宮や那智の神々を奉って熊野本宮大社と同一形式を踏まえている。熊野十二社権現に含まれる中四社の下四社の神々も境内に奉られている。早朝だけに私達の他には誰もおらず実に神々しい荘厳な佇まいである。神妙なる気持ちで二礼、二拍手、一拝をし、ステーションホテル「新宮」に戻り朝食を食べて新宮駅に向かう。

 新宮駅から那智駅に行き、いよいよ熊野三山の後、一つの大社、那智大社と御神体にもなっている那智の大滝の参拝に歩を進める。那智駅からバスに乗り大門坂で下車し参拝者で賑やかな参道を登って行く。熊野本宮大社、速玉大社と二社を参拝をしてきたが、この那智大社が一番人が多く出ており活気に溢れている。いくつもの石段を登り詰めるとようやく熊野那智大社と那智山青岸渡寺が建っている境内に出た。これぞ古代よりの神仏集合を伝えるものである。那智山では古くから大滝を権現としてお祭りをしてきた。那智大社では第1殿を滝宮大名主の神としその横に熊野十二所権現を拝している。主神は第4殿西御前の熊野産霊神千手観音である。そして毎年7月14日に夏の火祭が盛大に繰り広げられている。

 参拝を済ませこれより那智の大滝へと向かう。車道より別れ幾星霜大門坂の苔むした石畳をどれだけの人が踏み歩いただろうか。石の角が多くの人に踏まれたために円くなっている。そんな歴史の重みを感じさせる急な石畳をゆっくりと歩を進めて行く。そして大滝の社殿に出て拝観料300円を支払い展望台へと向かう。

 ゴー、ゴー、ゴー「すごい。度迫力だ。・・・!!!」まさに威風堂々と高さ132m、幅13mの那智の大滝が轟音と共に一気に白く光り落下している。展望台にいてもその水しぶきが降りかかってくる。思わず手を合わせずにはいられない超大迫力の光景だ。古代より永々と流れ落ちているこの滝を見て先人が神として崇め奉ったのも当然のことで、驚異なる自然の神秘の大スペクタクルだ。

 そんな那智の大滝を見て今回の世界遺産・熊野古道遊歩もほぼ予定通りに歩き、バスで紀伊勝浦駅に向かう。この紀伊勝浦で昼食を食べるために街を歩いてみて驚いたのは、何と人が歩いていないということだ。兎に角活気が街になく商店もシャッターが降りているところがかなりあり、食堂を探すのにも一苦労である。それぞれ別の所で昼食を済ませ紀伊勝浦駅にて、再会を約し奈良に帰るNさんと別れ私達もワイドビュー南紀6号に乗り込む。

 電車は海岸のすぐ傍を走り、波が穏やかに満ち引きを繰り返す紀伊の海をチビチビと地酒を飲みながら眺めこの4日間の熊野古道中辺路の旅を思い出し、そんな紀伊の旅路の数々の思いを胸に車窓から見える紀伊の町に別れを告げた。

                                     オシマイ








≪世界遺産・熊野古道遊歩・Photograph≫