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≪Photographはこちらからどうぞ≫
















北旅情紀行


 夏の北海道
    道南の旅

  小樽〜積丹半島〜神仙沼
 カムイヌプリ〜羊蹄山〜洞爺湖








  遊歩日:   7月16日(月)〜7月22日(日)5泊6日
  遊歩先:   7月16日(月)  瑞鳳殿  青葉城跡 
         7月17日(火)  小樽倉庫街散策  石原裕次郎記念館
         7月18日(水)  積丹半島巡り(積丹岬・神威岬)  神仙沼
         7月19日(木)  ニセコヌプリ  ニセコヌプリホルスタインズミルク
                   工房 東山ラベンダー園
         7月20日(金)  羊蹄山  真狩温泉
         7月21日(土)  洞爺湖遊覧  昭和新山  有珠山 

  天 候:   7月20日(金) 雨後曇り 後の日は 晴天 




   7月16日(月)

  『行 程』

 三鷹自宅(6:45)―東北自動車道ー上河内インター(9:45)→仙台高速料金所(12:10)→瑞鳳殿(14:33)→青葉城跡(15:50〜16:45・昼食)→仙台港(20:00発 太平洋カーフェリーいしかり)〜苫小牧


  ≪遊歩記≫


 夏の北海道には過去何回も訪れているが、いつもその都度飛行機で行き現地でレンタカーを借りて道内を回っていた。今回は和美がマイカーで北海道へ行きたいと言い出し、その為、仙台港からカーフェリーで苫小牧に行く船旅となったのであった。計画では7月15日(日)に出発する予定になっていたのだが、何と間の悪いことに丁度台風が襲来しその影響で仙台からのカーフェリーが出航しないとの連絡があり結果、一日ずらして16日に出発することになった。

 マイカーは東北自動車道を一路仙台に向かって快適に走っている。途中上河内インターで2回目の休憩をしていたら、サービスステーションのスピーカーが新潟の柏崎市を中心として地震があったと告げており、折角、先の3年前の地震から復興を遂げようとしている矢先、またも大地震では地元の人達の心を推し量ると可哀想で心が暗くなってしまった。マア、しかしながらそれはそれとして、私達はこれから1週間北の大地を目指し期待と夢を胸一杯膨らませての変化に富んだ旅路の始まりなのだ。

 高速道路は空いており、順調に仙台市に到着をした。この仙台はご存じの如く東北では岩手県の盛岡市と並び表される経済の中心地で、遠く戦国時代伊達政宗によって開発さ幾星霜、歴史的変遷を経て今日の大都市となったのである。

 それではここで仙台市の概略を記しておこう。

 人口:  120万人 
市の花:  はぎ(萩の月で有名)
市の木:  けやき(ゼルコーバツリー)
市の鳥:  カッコウ
市の虫:  スズムシ
 ※    市のマークは三ツ引両文をモチーフにした「仙」の字をあしらったものです。

 仙台での見学の第1歩は、伊達政宗と第二代、第三代の藩主の墓が安置されている「瑞鳳殿」をはじめとして各、藩主の霊廟がある経ヶ峯へ行くこととした。マイカーのナビ子ちゃん(Car Navigator)は「こちらを曲がってください。だめそちらにいってはウーン、おバカちゃんね、こちらでしょう。」等と美しい声で優しく教えてその目的地へと誘導をしてくれるので、迷わずに行けるから本当に楽でドライブも変な神経を使わなくて済むから大いに助かるところだ。マイカーを駐車場に止め樹木が鬱蒼と生い茂り、苔むした石段を昇って行くと何時しかタイムスリップをして、伊達藩の武士に戻ったようだ。

 それではこの「瑞鳳殿」がある経ヶ峯について少し話をしてみよう。

 史跡「経ヶ峯伊達家墓所」には藩祖伊達政宗公霊屋瑞鳳殿をはじめ、瑞鳳殿資料館、二代忠宗公霊屋感仙殿、三代綱宗公霊屋善応殿、妙雲界廟、御子様御廟がおかれています。

 瑞鳳殿は江戸時代初期における桃山様式の廟建設として、国宝に指定されていましたが残念なことに1945年戦災により他の霊屋二殿と共に焼失しました。
 現在の瑞鳳殿、感仙殿、善応殿は1974年より1985年にかけて再建されたもので、いずれも焼失前の様式を復元しています。
 瑞鳳殿資料館では、再建工事に先立って行われた墓室の発掘調査結果を展示解説しています。
 経ヶ峯は、伊達家の霊域として長年禁断の地であったため、藩政時代そのままの自然環境が現在まで維持され、動植物の生態にも見るべきものがあります。
 また境内には伊達家の禄高をあらわしたと伝える62段の参道や、重臣が奉納した石灯籠、戊辰関係の碑等の遺構が保存され、市内屈指の史跡とされています。

 藩祖伊達政宗の霊廟「瑞鳳殿」は、朱と金色に輝く実に煌びやかな霊廟で、これが1945年に戦火によって焼失し再建した建物とは本当に残念である。何しろ伊達政宗は、今で言うかっこうよさや粋を追求し、着物一つとっても実にはでで華やかだったとされており、その為「伊達男」と言う名称もついたくらいに剛毅な人物だったと言うことだ。

 そんな歴史探訪「瑞鳳殿」を見学した後、今度は伊達藩の居城があった青葉山にある青葉城跡へ行くこととした。駐車場に車を止め見学をする前にお腹も大分空いているので、青葉山に有る食事処で昼食を採ることにして、仙台ならば何と言っても「牛タン」が名物なのでその名も「牛タン会館」でその牛タン丼を食べることとした。その味の実に美味いこと。これはもう絶品である。喉が渇いていたために生ビールの喉ごしもこれもまた、ゴクゴクゴクと見る間に五臓六腑に染み渡り「甘ウーーン、ウィ、甘露、甘露ウンメイヤ・・・!!!」 (^_^)

 そんな美味の牛タン丼と生ビールを飲んだ後、青葉山城跡の散策に出かけることとした。見晴台から仙台市の街並みを見るとさすがは東北随一の街でその活気と賑わいを見せている。
 それではこの青葉山にある青葉城について、少し話をしてみよう。

仙台城は別名青葉城とも呼ばれます。青葉山にあるからですが、青葉山は「仙台七崎」の一つ、青葉ヶ崎に由来します。

仙台七崎とは→
青葉ヶ崎(あおばがさき)、鴉崎(からすざき)、鹿島崎(かしまざき)、藤ヶ崎(ふじがさき)、玉田崎(たまたさき)、松ヶ崎(まつがさき)、茂ヶ崎(もがさき)を言います。

 仙台城はご存じ伊達政宗が1601年に築城を開始し、大広間の完成する1610年までにほぼ全域が整備されました。仙台城に天守閣はなく、大広間という、天皇を迎え入れる「御成門」などがつく建物が本丸の心臓部といえます。天守閣は家康に遠慮してつくらなかったそうです。ちなみに仙台藩に天皇がくることはなく、御成門は260年余の間使われることはなかったそうです。

 仙台城のあったところはもともとこの地を治めていた国分氏の居城があり、千体仏があったことから千体城と呼ばれ、後に千代城となりました。それを政宗が仙台と改称するわけですが、その由来となったものが漢詩、「同題仙遊観」の中の「仙台初見五城楼」といわれています。

 ちなみに国道4号線バイパスの、広瀬側を渡る橋を「千代大橋」と呼んでいます。

本丸は明治時代に入り東北鎮台、後に仙台鎮台が置かれ、その後は陸軍第二師団が駐屯しました。現在は護国神社が鎮座しており、その他に青葉城資料展示館が建てられ、仙台城の復元CGや模型、武具甲冑、威信財などを見ることができます。

二の丸は二代藩主忠宗により1638年に造営されました。本丸は山の上にあるので(見晴らしは良いですが)藩政の中心として使うには不便なところであったので、その後仙台藩の中心となるところです。第二師団のとき司令部が置かれたのも二の丸です。現在は東北大学が建っています。本丸が登るのがきつかったがゆえに、政宗は隠居後は平城である若林城に移ってしまい、本丸は機能を失っていきます。

三の丸は仙台藩の米蔵があった場所で、いつ三の丸になったかよくわかっていないようです。正保2〜3年(1645〜1646)の絵図では「屋敷」となっており、そのころはまだ三の丸ではないようですが、寛文4年(1664)の絵図では御三之丸と書かれています。現在は仙台市博物館が建っています。

 そんな伊達政宗の居城、青葉城席を見学して、車を仙台港へと向けこれから北海道、苫小牧までの船旅が始まる巨大な12000トンの太平洋カーフェリーに乗り込んだ。泉質は何しろ奮発をし特等室にしたのでゆったりとした二段ベッドが配置され、その他6畳ぐらいの空きスペースがあり、トイレ、ミニバス、洗面台も整備され実に快適である。しかし、部屋は良いのだがまだ台風の影響で波がかなり高く船は大分揺れており、身体が揺れてそれが気持ちが悪く早くも乗物酔いを直ぐする和美が青菜に塩の状態でこの先が心配になってきた。

 私は元来鈍感なのか余り揺れても大して気にならずそこで船内での楽しみの一つであった風呂へ行くこととした。風呂場へ行って驚いたのだが、その脱衣場も広々としており、浴室も広くまた、浴槽も二つもあり、一つは広めの普通の風呂だが、もう一つは真っ白な泡が立つ超音波風呂でそれに何とサウナ室も備わっているではないか。風呂好きな私はすっかり嬉しくなりジャポーンとばかりその風呂にに入るのだが、荒波のために湯船で私の身体があっちに行ったり、こっちに来たりと揺れ動き落ち着いて風呂に入っていられないのが難点であった。

 そんな風呂場での面白い入浴を済ませさっぱりとし夕食を採るためレストランへ行き大枚1800円を出して、デナーバイキングコースを選び各種食べ物を皿に取り食べてみたが、イヤー、ほとんどが電子レンジで温めたもので、簡単料理の品物の為にその味の美味くないこと甚だしく帰りは絶対に食べてやるものかとガッカリしながらそれでもそんな食べ物を口に運び空腹を満たした。

 食べていても荒波のために揺れるので、もう和美は落ち着いて食べていられず早く船室に戻ろうと言うことで、そこを早々に退散し、泉質で私は船酔いをする前にアルコールで
先に酔ってしまえと思い「サカナは炙ったイカでよい」とばかりにイカをかじりながらお酒を一人で飲みやがて酔い気持になったので、その頃には揺れも大分収まりその揺れがゆ優しく揺れるユリカゴの揺れのように感じながら、アルコールと疲れも手伝ってか直ぐに爆睡モードになってしまった。


  7月17日(火)

  『行 程』

 苫小牧(10:45着・11:00発)―マイカー→小樽駐車場(12:30〜14:45 昼食・倉庫街及びガラス工房見学)→石原裕次郎記念館(15:10〜15:50)→朝霧温泉・ロディガルミシュ(16:20)
(宿泊)


  ≪遊歩記≫

 今朝は船の揺れも穏やかで、船室の窓から外を覗くと旭がキラキラと輝き真っ青な大海原が、どこまでも果てしなく遙か水平線が緩やかな円を描き見えている。夏空も雲一つ無く真っ青で、当に船旅の旅情満点だ。私は早速、朝風呂へとばかりに浴室へ行くと結構船客も来ており、皆さん、実にリラックスをした様子で朝の風呂を楽しんでいる。昨晩は船揺れがして落ち着いて入浴が出来なかったが、今朝はそんな揺れもなく快適に朝風呂を楽しむことが出来た。しかし、船で大海原を見ながら朝風呂に入れるなんて本当にご機嫌そのものだ。

 風呂に入りサッパリとしてから、朝食を採るためにレストランへ行きモーニングサービスのセットメニューを注文した。朝のコーヒーを頂いてから甲板へ出てみた。カーフェリーが進むに連れ船に沿って白い波が立ち遠望すれば大海原の遙かかなたに水平線が見えそのスケールの大きな景色に心も洗われ気持もドーーンとドデカクなった。サア、これから北の大地の旅が始まるのだ。

 そんな旅情に思いを寄せていたらやがて下船の時間となったので、マイカーのある下の船室に行き下船のスタンバイをする。そして定時にカーフェリーは苫小牧港に着き船員の指示に従い車を動かし船外へと飛び出た。アーー、北海道の大地を踏んで北の旅路の始まりだ。

 それではこの苫小牧について少し話をしよう。

 苫小牧港

 苫小牧港(とまこまいこう)は、北海道苫小牧市から勇払郡厚真町にわたる港湾である。主に工業港を担う西港区と、主に物流基地を担う東港区からなる。西港区は国内初の内陸堀込式港湾として工事が行われた。港湾管理者は苫小牧港管理組合。貨物取扱量では国内第5位であり、北海道全体の港湾貨物取扱量の40%以上を占める。このため苫小牧港は特定重要港湾および中核国際港湾の指定を受けている。西港区およびその後背地を、東港区および苫東地域と区別して「現苫(げんとま)」と呼ぶことがある。

 苫小牧市

面積          561.49 km2
総人口         173,914 人
            (住民基本台帳人口、2007年9月30日)
人口密度        309.74 人/km2
隣接自治体       厚真町、安平町、白老町、千歳市
市の木         ナナカマド(1973年3月15日制定)
市の花木の花?      ハスカップ(1986年9月27日制定)
草の花?:         ハナショウブ(1986年9月27日制定)
他のシンボル市の鳥?:   ハクチョウ(1990年9月23日制定)
市の貝?:         ホッキ貝(2002年7月20日制定)


 今日の観光予定としては、運河で有名な小樽の街の見学である。マイカーは快適に空いている高速道路を走って行く。しかし、北海道に来て何時も感じるのだが、その道路の広いのに驚かされる。やはり、北海道はドデカイドウか。やがて車を余り見かけない空いた高速道路を乗り続き小樽の街に12時30分に到着をした。車を駐車場に置き身軽なスタイルでこれから小樽の街の観光の始まりだ。

 それではこの小樽について話をしよう。

 小樽市(おたるし)は、北海道後志支庁北部に位置する市。石狩湾に面し、古くから港湾都市として発展した。歴史的建造物が数多く、全国有数の観光都市としても人気が高い。札幌市からJR快速列車で30分前後であることから、隣接する札幌市のベッドタウンとしての役割も持つ。
後志支庁管内では唯一の市であり最も多くの人口を抱えるが、支庁は内陸の倶知安町に置かれている。保健所政令市の一。最盛期の1960年代には人口は20万人前後だったが、以降人口は減少傾向にある。
衆議院議員総選挙の小選挙区は北海道第4区に属する。

 アイヌ語の「オタ・オル・ナイ」(砂浜の中の川)が地名の由来とされるが、今の小樽の町に該当する川はない。小樽内川(現在の札幌市南区にある小樽内川とは別)は今の星置川の下流で、現在の小樽市域の東端、石狩平野の砂浜の近くを流れていた。河口に置かれたオタルナイ場所はその後、西方に移転して小樽内川から離れたが、オタルナイ場所の呼称は引き続き用いられた。これにより今の小樽の地がオタルナイ(小樽内、尾樽内、穂足内)と呼ばれるようになる。
20世紀半ばまでは石狩地方で産出された石炭の内地への輸送や、ロシアとの交易で栄えた。
しかし1960年代以降、石炭需要の低下と北海道内の炭鉱の閉山、ロシア貿易の衰退、近隣の石狩湾新港の整備により港としての機能は衰え、人口も減少傾向にある。

 往時の繁栄をしのばせる近代建築が市街のいたるところで散見され、観光資源となっている。小樽運河は全国的に知名度が高い。映画やテレビドラマの舞台として頻繁に登場することから、中国、韓国、台湾など近隣諸国からの観光客が急増している。かつてニシン漁で栄えた漁業は、乱獲と開発により1960年代以降漁獲量が急減し、現在はほとんど行われていない。


 丁度時間は昼食時なので、腹が減っては戦が出来ぬとばかり、予め和美が北海道のガイドブックで調べておいたレンガ積みの倉庫街にある「回転寿司」へ行くことにした。北海道だけにさぞかし魚や貝類が美味しいだろうと思いその寿司を食べたのだが、期待に反し余り美味くなく寿司を握っている板前も何だかくたびれているようで活気が無く、これでは私の地元、東京の吉祥寺にある「回転寿司」の方がよっぽど美味しく板前も元気が良くいいや。そんな思い出すっかりと気持が凪いでしまった。

 街を歩いていたら、何と美味しそうな食べ物処が何軒も有るではないか。なまじ予備知識を得るよりは、街を歩き自分の目で探した法が良いことを痛切に知らされた。そんな反省をしそして先ずは小樽と言えば運河であるからその運河の観光に歩を進めた。しかし、これも実際に見てみると何だか単なるやや広めのお堀端という感じで別段度ってことのない風景だ。それからガラス工房のある見せ巡りとなるのだが、色々なガラス細工や装飾品を和美は興味津々で見ているが、私はそんなものには興味がないので、、別段面白くもなかった。

 面白かったと言えば「絡繰人形館」を見学したときだ。予めコインを購入し、そのコインを投入口に入れるとガラスケースの中の絡繰人形が、カタコトと動き珍妙なる手振り身振りで動き出し、思わず頬の筋肉が緩み笑ってしまった。しかし、実に良くできているものだとおじさんとおばさんがそんな絡繰人形を見て笑っているのもこれもまた、観光地でなければ見られぬ光景であろうか。  ウフフフフ  (^_^)

 それからレンガ積みの建物や石積みの建物の重厚なる佇まいに、その歴史的変遷と北海道の開拓時の時代の流れを壁面に刻んでいるようでその壁を思わず手で触れてみた。それにしても何と観光客の多いことか。以前の言うアンアン、ノンノンのアンノン族とも言えるような若い女性が多くガラス工芸品の煌めきと共に華やかな女性の服装で街が明るい装いを見せている。私は小樽と言えば何だかもの悲しい淋しい街を想像していたのだが、イメージとは大分違うものだと再認識をした。

 そんな小樽の街並みを見学し今度はユウチャンに合うために「石原裕次郎記念館」へと車を進めた。記念館の駐車場の一隅には、ユウチャンがこよなく愛した大きなヨットの彫刻のモニュメントが建っている。玄関にはあのユウチャンの等身大の写真が飾ってあり、改めて良く見るとその股下の長い足がすらっと伸びており、自分との違いにユウチャンのスタイルと美貌に見とれてしまった。

 そして少々料金が高いと思いつつ入場券1500円を支払い館内にはいると先ず最初に懐かしいユウチャンの色々な映画のワンシーンが映し出される。それを見てから進んで行くと黒部の太陽のセットを模したものを通り抜けて行く。そしてユウチャンが出演した数多くの映画のポスターがズラッと両方の壁面に飾られている。また、多くのレコード、トロフィーの展示、服や時計、靴、ハワイの別荘の写真、部屋のセット、ヨットや車(ベンツ、ロールスロイス)などの展示などもありました!!

 それにしても何と52才の若さで亡くなったユウチャン、全く惜しい逸材を無くしたものだ。そんなユウチャンの遺品を見て今日の北の大地の最初のお宿ロディガルミシュの民宿へと向かった。この民宿の傍に朝霧温泉という名称のホテルがあるので、そこへ行き肌触りの良いスベスベとした温泉にドップリと浸かる。「アーー、良い湯だな。」そんな温泉に入りロディガルミシュの民宿で奥さんの素朴な手料理を食べ明日の北の大地の旅路を思い巡らせお酒の酔いも手伝い何時しか眠りに着いた。 (-.-)Zzz


  7月18日(水)

 『行 程』 

 ロディガルミシュ(8:13発)→余市〜積丹水中展望線埠頭(9:33着〜10:32発・「ニューしゃこたん号」遊覧→積丹岬(11:15)→シマムイ海岸(11:50)→中村屋(14:10・昼食・ウニ丼)→神威岬(15:00)→しん仙沼(15:50)→国民宿舎「雪秩父(16:32) 宿泊


  ≪遊歩記≫

 昨日は小樽市内のレンガ倉庫街、運河、石原裕次郎記念館等々の人工美というか、人工的な建造物などの見学であったが、今日は北海道、道南でも眺望が素晴らしいと言われる積丹半島巡りだ。それと何と言ってもお楽しみなのが、中村屋での「ウニ丼が食べられることだ。

 マイカーはまたも空いている高速道路を快適に走り」、今日の最初の観光スポット積丹水中展望線埠頭に9時30分に到着をした。水中展望遊覧船が10時に出船するとのことで、それまでその周辺をブラブラとし時間をつぶしてから、「ニューしゃこたん号」に乗り込みこれから荒々しい断崖が続く積丹半島を遊覧船からの展望を楽しむのだ。それと出船の前に船員の係りの方が、私達を船底に連れて行き、そこは両壁面が透明の強化プラスチックで出来ており海底が覗けるようになっている。それで海底を覗いてみると海底にはウニがゴロッとしているのが見えたり、細身の魚の群れが左右行ったり来たりしているのが見えた。その時には何という魚か、船員が説明をしてくれたのだが、聞いている傍からすぐ忘れてしまった。 (;_;)

 やがてエンジン音もけたたましく遊覧船が桟橋を離れこれから約、30分間の遊覧船の観光が始まるのだ。海の色は真っ青でまるでブルーの絵の具を流したような色彩を見せている。それに潮風が頬に辺りそれがとても気持ちが良く北海道の雄大なる自然美に改めて感心をさせられた。やがて遊覧船はあるスポットに来てエンジンを止め私達は、船員の誘導でまた、船底へと行く。そこで船員から海底で泳いでいる魚の説明を受けたのだが、出船前よりは魚の数が少なかったには以外だった。

 そして再びエンジン音を立てながらいよいよ長く続く海岸縁に沿ってその荒々しい断崖絶壁の見学が始まる。奇岩には色々と名前が付いているのだが、これも船員から聞いている傍から即、忘れてしまった。マア、この手のものは「何々岩」とかと、どこでも似たような名前が付いているもので、説明をされた名称でそれを見ればその様に見えるといった程度である。それでも絶壁に大きく開いている洞窟にはそのスケールの大きさに感嘆をした。きっと幾星霜荒波が硬い岩を浸食して出来たものであろう。

 そんな断崖絶壁の見学が終わり遊覧船は、桟橋へと戻って行く。その途中で遊覧船のスピードを落として、船員がパンの耳を持ってきた。それを見ていたのか何時しかたくさんのカモメが空に舞っている。せんいんからそのパンの耳を受け取り思い切り空中に向かって投げるとそれは見事にカモメちゃんが、ご馳走様とばかりにパッくっと嘴に捕らえて食べているではないか。 「イヤー、お見事、お見事」 パチパチパチパチパチパチ
 それにしても良くカモメを餌付けをしたものだとこれまた、感心をした。

 そんな水中展望遊覧船を楽しんだ後は、積丹岬の海岸へと向かった。積丹岬の駐車場に車を止めて、これから積丹岬の観光へと歩を進めル。この積丹岬は、島武意海岸から女郎子岩までの遊歩道を積丹岬と呼んでいる。そんな遊歩道を少し歩くと道が分かれ一方は真っ直ぐ行くと灯台へ。また、一方は 左に行き暗い隧道を通り抜け女郎子岩への遊歩道になっており、海岸へ出られる景色の良い道である。。

 私達は先ず左の遊歩道を進み海岸へ行くこととした。遊歩道からは東に暑寒別連山、西にカムイ岬が望められ、女の人が十二単を着て立っているように見える、積丹半島で一番きれいな岩の女郎子岩が屹立しているそんな眺望抜群の景勝地だ。長く続いている階段を降りて笠泊海岸へ向かう。その海岸は白い小石が敷き詰められており、天気も良いせいか、打ち寄せる波も穏やかである。そんな北の湖を眺めながら小岩に腰掛けタバコを燻らせる。やはり、最果ての海だけにどこかもの悲しさを感じさせる。きっとこの辺りは厳冬期になると積雪も多く空にはオジロワシが円を描き舞い飛んで、地吹雪が舞っていることであろう。そんな思いを巡らし気分はすっかり北の旅人だ。

 そして海岸を歩いてから再び遊歩道の分岐点に戻り、今度は灯台へ向かった。その灯台のある場所は広めの見晴台になっていて、雄大なる大海原が遠く丸井水平線を描き眺望できる実に景色の良い所だ。島武意海岸と書かれた大きな立て看板の前で私達と同じようなフルムーンのカップルに写真を撮って貰う。そのお返しに和美がそのカップルの写真を撮ってあげた。そのご主人の持っているカメラは、私達のようなデジカメでなく本格的な一眼レフであった。「ウーーン、差が付いたか。」 (^^;)

 そんな積丹岬を見学した後、いよいよお目当てのウニ丼を中村屋で食べるために車を走らせた。この中村屋というのは、有名なお食事処でたいていの北海道のガイドブックには、紹介されている美味しい店である。それだけに店内は結構混んでいて、皆さんそんなウニ丼を食べるため神妙に座卓の前で座って待っていた。和美はもう眼をキラキラ輝かしてメニューをみているとバフンウニのウニ丼、3,500円、海鮮丼、3,000円、数の子、タコ、トロマグロ、スジコ、イカ、イクラ、ウニ、カニ等々の色々な魚貝類が盛りつけられている海鮮丼の写真が目に留まり、ウニ丼から急遽、海鮮丼に心変わりをし、色々な魚貝類が食べられた方がお得とばかりにそれを注文することとした。
 
 待つこと暫し、来ました。来ました。「海鮮丼 色んな魚貝類が盛りだくさんに丼の中で鎮座している。それを一口食べる。「ウーーン、イヤー、実に美味い。」魚貝類が実に新鮮で、それを舌に載せるとまるでトロッと解けそうだ。あの小樽で食べた回転寿司の味は一体何なんだ。今更ながらこの味の対比にビックリしてしまった。それに生ビールも美味いし、もう満足、満足だ。  (^o^)  (^_^)
 そんな海鮮丼を食べてからお目当てのウニが少なかったのに気がつきやはり、ウニ丼を注文した方が良かったかなと少し後悔をしてしまった。 (;_;)

 そんな美味の昼食を採った後は、積丹半島の絶景の景勝地「神威岬」へ向かった。
この神威岬は、断崖の高さは80m、海の透明度は20m以上で、遊歩道は恐竜の首の上を歩いているような感じがる。遊歩道を歩きながら「ここは日本の万里の長城だ」と叫んだ旅人もいた。日本海有数の海の難所といわれ、その昔義経を慕う純真な首長の娘の怨念が、女性を乗せてここを通る船を転覆させたことから、長くこの岬一帯は女人禁制となっていた。(1850年代に解除)。

 そんな長い遊歩道を歩き神威岬の先端まで行く。その先端には岸から少し離れたところにポッカリと岩が浮かんでおり、それが真っ青な海に調和してとても素晴らしい景色だ。当に神威岬という名称の如く、神々が奉られている神聖な領域とも言える神々しい風景である。更にその神威岬の広場には、神威灯台があり、これもまた、自然美と調和して、白き灯台が絵になっている。

 この神威岬の灯台は、北海道開拓使が建設した鉄造りの建物で1888年に点灯した。1960年に無人となるまで、延べ87人の灯台職員が家族と共に生活した。灯台の高さは11.8m、海面から灯火の高さは81.6m、レンズを通した明かりは37万カンデラで約42km先まで届く。

 そんな雄大なる景色をいつまでも見ていたいのだが、時間も限られているので、仕方が無く駐車場に戻り、ソフトクリームを食べながら一休みをする。そして売店にて今日旅館で飲むお酒を買い込み車を走らせ今日のお宿「雪秩父」へと向かった。ニセコパノラマラインを走りその途中の高原にある「神仙沼」という景勝地に立ち寄った。この神仙沼は、海抜750m以上の高原に位置し、多くの湖沼や湿原が広がり大人気の観光スポットで、パノラマラインの頂上付近ににある「神仙沼」。レストハウスもある自然休養林の駐車場から木道を歩いて約20分ぐらいで行ける。沼の周辺がハイマツやアカエゾマツの老樹に囲まれた湿原で、開花季の7月上旬には、チングルマやサワギキョウなど沢山の高山植物があり、湿原を一周する美しいトレッキングコースでネイチャーウォッチングが楽しめる。長沼、大沼とあわせて湖沼めぐりの散策コース もあるが、疲れやすい人は、神仙沼(しんせんぬま)のみを歩くことになる。

 樹林の間に長く続く木道を歩いて行く。北海道だけに当に原始林という感じで樹木が鬱蒼としている白く伸びた木道をカタ、カタ、カタと音を立てながら歩いて行く。周囲が静寂だけに二人の靴の音が響いている。私達は木道というとすぐ尾瀬の木道を思い出してしまう。その尾瀬の木道よりは、幅が広めの木道だ。やがてその木道も終点にさしかかり、そこが神仙沼である。その沼の周囲は余りないが、澄んだ水を湛え神秘的なる様は当にこれも神仙沼という名称がピッタリである。

 そんな神仙沼を見て、再び駐車場に戻りニセコパノラマラインを走り抜けやっと今日のお宿ニセコ湯本温泉 国民宿舎雪秩父に到着をした。何と駐車場の裏手にモウモウと噴煙を上げながら白濁した温泉が高く噴出しているではないか。「温度90°はありますから絶対に手を入れないでください」と注意をする立て看板が立っている。すごいど迫力だ。 (^o^)

 そして部屋に行くなり、早速タオルを肩にかけ温泉場へと向かった。脱衣場の温泉についての表示を見ると以下のようである。

泉質
硫黄泉(源泉温度56.5℃)
鉄鉱泉(源泉温度52.2℃)
源泉かけ流し

 何と内風呂には、大きな湯船が5箇所。そして外の広い敷地の所の露天風呂には、泉質と形の異なる浴槽の露天風呂がこれも5箇所、そして敷地の一番下にある露天風呂は、大湯と名が付いてあるだけに円形の広い浴槽の露天風呂だ。温泉好きの私にとっては、最高の雰囲気で早速先ずは大湯から温泉に入り、それから次々に温泉には入って行き5箇所の露天風呂の梯子をしてしまった。それもこんな広大な敷地の露天風呂には私だけで誰もおらず独り占めで源泉掛け流しの温泉三昧で「ウヒャー、ヤッタゼ。最高だ。」と思わずニンマリとしてしまった。これもまたさすがは北海道、ドデカイドウか。 (^^)  (^_^)

 そんな温泉三昧の風呂に入ってから、長途頃合いも良い夕食タイムとなったので、イワナの塩焼きをつまみながら生ビールで乾杯だ。ゴク、ゴク、ゴク「イヤー、ウンメイ、最高、最高」温泉巡りをし、すっかりと喉が渇いていたので、その生ビールの実に美味しいこと。これはもうたまりません。  \(^O^)/

 国民宿舎だけに豪華なご馳走は無いが、最も私はビールがあれば別にご馳走は無くても別段かまいません。そして素朴なオカズでご飯を頂きすっかりと生ビールで酔い気持となったので、部屋に戻る前にほろ酔い気分で外を散歩することとした。薄暗くなった空に向かい噴煙を上げながらゴー、ゴー、ゴーと生きよい良く温泉が噴出している。その周囲はボコ、ボコ、ボコと音を立てて温泉が湧き出ている湯畑になっており、すごい迫力だ。その傍に足湯が出来る一角があったので、足を漬けてみるとかなりの熱さの温度である。そんな足湯を10分ぐらいしてから、大分寒くなってきたので部屋に戻ることとした。部屋にも取り一寝入りをしてから、やがてガバッと跳ね起きこれぞ楽しみにしていた夜空を眺めながらの露天風呂、温泉三昧とばかりにタオルを肩に四合瓶の銘酒を持って出かけた。

 夜も5箇所の露天風呂は全く私の独占で、もう贅沢にゆっくりと入ることが出来た。夜空には月がサンサンと輝いて大きな星が煌めきもう雰囲気最高。そして持参をした四合瓶の銘酒を取り出しコップに注いでそれを飲む。「ウヒャ、ウヒャ、ウマイ」これぞ至福のひと時、もうたまりません。アー健康で良かった。

 そんな雰囲気の良い露天風呂で、約、1時間、楽しんでいたら何と四合瓶の銘酒がほとんど空になっているではないか。どうも身体が温まったと思ったら身体の中から外からと温めたのならこれは無理のないことか。そんな良きご機嫌になって部屋に戻るなり直ぐにまた、爆睡もーととなった。  (-.-)Zzz


  7月19日(木)

  『行 程』

 国民宿舎「雪秩父」(8:15)→ニセコアンナプリ駐車場(8:30)―ロ→ロープウェイ駅(9:00)ープウェイ乗車→ロープウェイ山頂駅(9:10)→1000メートル展望台(9:16)→ニセコヌプリ山頂(10:07・1308m)→ロープウェイ山頂駅(10:57)―ロープウェイ→ロープウェイ麓駅(11:08〜11:30)→ニセコヌプリホルスタインズミルク工房及び東山ラベンダー園(11:40〜12:10)→ニセコ東山プリンスホテル(12:20〜14:00 昼食・温泉入浴)→半月湖(14:25〜15:10)民宿 牧歌(15:25着) 宿泊


  ≪遊歩記≫


 今日の予定は明日の羊蹄山の登山の他にもう一つの山ニセコアンヌプリの登山である。マイカーをニセコアンヌプリの駐車場に止めて、しっかりと登山支度を済ませ始発のロープウェイに乗り込む。この辺り一帯は冬になるとスキー場と化し、東京方面からも多くのスキーヤーが訪れる北海道でも優秀なニセコスキー場だ。それではこのニセコアンヌプリについて以下に記しておこう。

 ニセコアンヌプリ

 ニセコアンヌプリ(標高1,308m)は北海道後志支庁にある、ニセコアンヌプリ火山群の主峰である。西側にはイワオヌプリ、ニトヌプリ、チセヌプリなどの山々、北側にはワイスホルンがある。尻別川を挟んで羊蹄山の向かいにあり、世界的なスキー場のある山としても有名である。
 ニセコアンヌプリはアイヌ語でnisey-ko-an-nupuri(絶壁・に向かって・ある・山)を意味し、明治時代の北海道庁の発行した地図に既にその名があるが、この山の南西斜面を下るニセコアンベツ川の水源によることから和人がこしらえた「幽霊アイヌ語地名」と言われている。本来のニセコアンヌプリを指すアイヌ語地名は、チセネシリcise-ne-sir(家<等脚台形>・のようである・山)と松浦武四郎の残した資料などから推定され、双耳峰であるニセコアンヌプリの山容はまさにその形状となっている。
 その周辺にはニセコマウンテンリゾート グラン・ヒラフ、ニセコ東山スキー場、ニセコアンヌプリ国際スキー場、ニセコモイワスキー場がある。また周辺はニセコ温泉郷を形成しており、五色温泉、昆布温泉などの温泉も数多く存在する。

 このニセコアンヌプリは、明日の羊蹄山登山の言わばトレーニングで、ロープウェイの空中遊覧を楽しみ9時10分、山頂駅に降り立ちゆっくりと歩を進める。登山者は私達だけで誰もおらず静寂な登山道を登って行く。最初の目的地、1000メートル展望台に到着をした。ほとんどの観光客は、ここまで来て景色を楽しんでまた、戻って行くようだ。眼前には明日登る羊蹄山が小さく見えている。

 私達はそこから更に歩を進め最初からかなりの急登で笹が生い茂る狭い登山道を登って行く。ここら当たりの樹木は背丈も低く椴松だろうか、緑の尖った細い葉を延ばし冬の豪雪にも負けずにこうして生えている様は本当に健気さを感じさせる。登るにつれて段々と岩石が多くなり、その岩石の上を私達は軽快に登って行く。登るにつれ右手に単独法の羊蹄山がその立派な山容を表し、四顧の山々を睥睨するかのように裾を長く伸ばし屹立している様は、実に素晴らしい貴賓さえ感じさせる山だ。

 可憐な高山植物は、余り咲いておらず目を楽しませてくれないので少しガッカリをしてしまった。更に登って行くと岩石、倒木と多くそれらを避けたりしながらようやくニセコアンヌプリの山頂に到達をした。眼前には夏空に羊蹄山がくっきりと大きくその威風堂々たる雄姿を見せている。明日この羊蹄山に登るかと思うと見ていて闘志が沸き立ってくるのを感じた。しかし、さすがは北の山だけに夏だというのに風が冷たく寒いのでとても長くはいられず、早々に下山をすることとした。天気もみるみる曇ってきてガスのためにさきほどまでくっきりと見えた羊蹄山がすっかりと見えなくなってしまった。天気予報によると明日は天気が悪く雨模様とか、それを確証づけるような変化に明日は大丈夫だろうかと不安が過ぎる。

 下山はあっという間に下ってしまいロープウェイに乗り駐車場に到着をした。そして車を10分ばかり走らせニセコヌプリホルスタインズミルク工房及び東山ラベンダー園に到着をした。ここは単なる乳製品の売店と農産物の直売店があるだけの所だ。ヨーグルトを食べてから、東山ラベンダー園に行ったのだが、私達は一昨年富良野の富田ファームのラベンダー園を訪れ、素晴らしい青い絨毯を敷き詰めたような広大なラベンダー畑を見ているので、ここのラベンダー畑のラベンダーの数の少なさにすっかり落胆をしてしまった。

 そして早々にその東山ラベンダー園を後にして、ニセコ東山プリンスホテルに行き、入浴とランチが出来る1,800円のセットを求めて、先ずは温泉へとばかりホテルの地下に行って東山温泉の源泉掛け流しの誰もいない大きな長方形の湯船にドップリと浸かる。温泉はとてもスベスベしていて肌に優しく実に気持がよい温泉だ。

 そんな温泉に入った後、3階のレストランに行きランチタイムとなった。それがさすがはプリンスホテルだけにその部屋は広くシャンデリアが輝き静かな曲のBGMが流れていて、いくらセットのランチとは言え、ちゃんと蝶ネクタイをしたボーイが丁寧に接待をして順次料理を持ってくるので、すっかりとこちらとしても緊張をしてしまい何だか食べていて肩が凝ってきた感じだ。ウーンやっぱり我らは、ラーメンの方が向いているのかもね。

 それでもその味はとても美味しく久しぶりに一流のホテルで洋食を食べた満足感で幸せの気分になった。それからそのプリンスホテルを後にして、今日のお宿民宿 牧歌へと向かった。民宿 牧歌に早く着いたので、羊蹄山の麓にある半月湖へ行くこととした。

 半月湖

 羊蹄山の北西の麓に火山活動で生じた火口湖、火口の中に火口径より小さい溶岩ドームが形成されたため半月型の形をしている。面積1.3平方キロメートルと小さめの湖だが周囲には原生林が密生している。半月湖の脇には倶知安町が設置したキャンプ場もある。
半月湖周辺から登山道周辺の植物群落が天然記念物に指定されている。

 マイカーを羊蹄山の麓にある駐車場に止めて、大きな樹木が鬱蒼と生い茂る原始林の中をドンドンと20分も下って行くと湖面に羊蹄山を撮し神秘的な半月湖が見えた。何だかヒグマでも出て来そうな辺りの雰囲気なので、写真を撮り早々にそこを離れ駐車場に戻り民宿 牧歌へと向かった。この民宿 牧歌は1階がレストランになっており、2階が宿泊する部屋で宿泊客は私達だけだったので、20畳ぐらいの大広間を提供してくれた。

 夕食は1階のレストランで、中年のご夫妻が料理を作ってくれた。これもまた、洋食のフルコースで少々味が濃かったがまずまずの美味しさであった。そんなデナーコースを食べ何しろ明日はMain event、イヨイヨ羊蹄山の登山なので、出発も早朝早いため直ぐに床に着いた。  (-.-)Zzz


  7月20日(金)


  『行 程』

 民宿 牧歌(4:23発)→半月湖駐車場(4:45〜4:50)→羊蹄山登山→羊蹄山頂(9:18 1893m)→登山口(13:00着〜13:45発)→真狩温泉(14:00〜15:010)→旅館「しずく」(15:58) 宿泊


  ≪遊歩記≫

 今日はイヨイヨ羊蹄山の登山の日だ。目覚めてから先ず一番にお天気はどうかと薄暗い外を見るとな、な、何とポツポツと雨が降っているではないか。今までずっと晴れの日だったので、周期的にも今日辺りが天気が崩れるような巡り合わせなのか。それにしても何で今日がその天候悪化の日になるんだよ。羊蹄山を登るのに雨が降っていたのでは、本当に最悪だ。マア、天に向かってブツブツと文句を言っても仕方がないので、仕度を調え予め民宿の方に頼んでおいた朝食と昼食のオニギリを持って1階のレストランの裏玄関から外に出て、車のエンジンをかけ昨日行った羊蹄山登山口にある駐車場へ向かった。

 そして車内で朝食のオニギリを食べしっかりと登山支度をし、イザ羊蹄山登山の開始である。幸にも今のところ雨は降っておらず、どうぞこのまま雨が降らないでくださいと祈りつつ羊蹄山登山口へと向かう。そこで羊蹄山の登山図が書かれてある大きな看板を見て私達がこれから登る倶知安コース(半月湖から登るコース)の再度確認をし歩を進めることとした。

 それではこの羊蹄山について以下に記しておこう。

  ≪羊蹄山≫

   標高     1,898 m
   位置     北緯42度49分24.4秒
         東経140度48分52.9秒
  所在地     北海道 後志支庁
   山系     独立峰
   種類     成層火山

 羊蹄山(ようていざん)は北海道後志支庁にある、標高1,898mの成層火山で活火山に指定されている。富士山に似た姿から蝦夷富士(えぞふじ)とも称される。支笏洞爺国立公園に属している。「後方羊蹄山」として、日本百名山の1つになっている。

 旧名である後方羊蹄山(しりべしやま)は日本書紀に登場する地名後方羊蹄(しりべし)に由来する(実際に同じ場所を指すかどうかは不明)。なお、後方で「しりべ」、羊蹄で「し」と読み、そもそもの羊蹄は植物のギシが由来だが、のちに羊蹄山の方が広く使われるようになり現在に至る。
なお、明治・大正期の一部の地図には「マッカリ山」(真狩山)の表記も見られる。

 アイヌの人々は南東にある尻別岳(1,107m)をピンネシリ(雄山)と呼び、羊蹄山のことはマチネシリ(雌山)と呼んだ。なお尻別岳を前方羊蹄山と呼ぶことがある。
キタキツネ、エゾクロテン、エゾリス、シマリス、エゾモモンガ、エゾユキウサギなどの哺乳類が生息しており、130種類以上の野鳥がいることも確認されている。
また、名水の地としても知られ、周囲には無料で利用できる水汲み場が数ヶ所ある。因みに水汲み場に付随している公衆トイレは、東京へ持っていけば1リットル200円はしようかという水を常時流し続けるという贅沢な施設である。
その山頂は倶知安町・喜茂別町・京極町・真狩村・ニセコ町の境をなしている。

 羊蹄山に登るには、倶知安コース(半月湖から登るコース)、京極コース、真狩コース、喜茂別コースの4種類がある。どのコースも登山には4時間から6時間程度がかかる。
9合目付近には100名収容の避難小屋があり、毎年6月中旬から10月中旬には管理人も常駐している。

 羊蹄山山麓付近の入植は、明治年間から行われているが、しばしば山頂付近に存在する崩壊地から発生する土石流の流下により人的及び物的被害を出してきた。崩壊は現在も続いており、大規模な崩壊が発生した際に巻上がる土砂の煙は、噴火や山火事と間違われることがある。

 最初は平坦な砂地の登山道を歩いて行く。その両側は原始林となっており、椴松や、唐松の広葉樹の巨木が数多く林立している。静寂なる辺りにザック、ザック、ザックと二人の登山靴の音が響き渡る。そんな平坦なる登山道を20分ぐらい歩いただろうか。やっと2合目に到着をした。ここら当たりから懸念された大粒の雨がとうとう降ってきた。そこで雨具を取り出しそれを着て更に歩を進める。

 もう雨は容赦なく私達に向かって、まるで行く手を拒むが如く大粒の雨が激しく降ってくるではないか。辺りは雨のために視界が悪く白いガス状にもやっており、お負けに樹林帯なので余計に薄暗く視界が悪くただ足を交互に出し斜度のきつい急斜面を懸命に腕を組みながら背をかがめ登って行く。

 そんな斜度のきつい急登を3合目、4合目、5合目と一定のリズムで歩いて来た。ここら当たりは長い年輪を重ねた巨木の太い針葉樹が生い茂り原始林を成している。本当にヒグマが出て来ても可笑しくない不気味な雰囲気だ。せめて展望でも良ければまだ気分がよいのだが、雨とこの樹林帯ではそれもままならず兎に角歩くしかない辛い急登だ。

 5合目で一息入れて更に上へ、上へと段々と斜度がきつくなってきた登山道を登って行く。雨は少しは小降りになったが、それでもまだ相当に降っている。身体はもう雨と汗で
下着とパンツまでビッショリとなっている。6合目を過ぎると大岩が現れそれを大股で越えて行く。ここら当たりから少し疲れてきて、歩くのが少々イヤになってきた。それでも兎に角、山頂を目指し登らなければと自分に活を入れ淡々と登って行く。

 そして7合目、8合目とどうにか急登を登り詰めた。すると何と一人の登山者が降りてくるではないか。私達より先に登ったと見えるその人は「イヤー、きつい登りですね。どうにか山頂まで行けましたよ。」と親しそうに話しかけてきた。私達も今日始めて山であった人だけに親近感を覚え「本当ですね。イヤー、この雨には参りましたよ。」と応対をする。そんな登山者から別れて更に歩を進めイヨイヨ9合目にようやく辿り着いた。晴れておればここら当たりはお花畑で高山植物が咲き乱れているのであろうが、白くもやっており全くそれらを見ることが出来ない。

 それからついに山頂への火口壁に到着をした。ここらはもう火口の周りだけに平坦で、歩くのは楽であるが、その代わりにゴー、ゴー、ゴー、ピユー、ピユーと突風が激しく吹き荒れている。もう、雨具はバサ、バサ、バサと大きく音を立て身体が突風のためにヨロヨロとしている。さすがは北の大地の単独峰だけにその吹く風も半端じゃない、今までの登山歴の中で結構山頂で突風に遭遇をしているが、おそらくこれが一番ではないだろうか。ストックを持つ手に力が入り支えるのだが、歩く旅にヨロヨロとしてきて、中々前進が出来ない。それと雨と汗で濡れた身体だけにそれが冷えて猛烈に寒く歯がガク、ガクと震えている。

 気を抜いたら吹き飛ばされ哀れヒグマの餌になると思うから足をしっかりと踏ん張りここまで来たのだからと山頂の標識を触らなくてはとヨロヨロとしながらも歩いて行く。そしてとうとう山頂の標識のある所に到達をした。もうここら当たりは立っているとまともに突風が吹き付けるので、二人とも座ってその標識を撫でて、和美が私の記念写真だけをどうにか撮り終えて、この場を早々に退散することとした。

 それから9合目に着くと先ほどの突風はまるで嘘のようで、ようやく私達はホッと安堵の胸を撫で下ろし急斜面の下山開始となった。そして6合目で立ちながらオニギリを食べお茶を飲んだりし一休みをしてから、更に登山口に向かって登ってきた登山道を急下降する。ここら当たりから雨がようやく止んで雨具を脱ぎストックを突きながらドンドン下って行く。

 そして午後1時、歩程時間7時間、ようやく登山口に到着をした。すると9合目で出会った登山者が車の所で色々と整理をしており、その方と羊蹄山の登山が大変だったことをお互いに話をする。それからビッショリになった衣服をすっかりと新しい衣服に替え残っていたオニギリを食べて真狩温泉へ行くために車を走らせた。

 25分ぐらい車で走った所に真狩温泉があり、玄関脇に細川たかしの像が立っていた。真狩温泉の露天風呂に入り、ようやく雨と急登と突風の戦いを終え手足を伸ばし寛ぎのひと時。眼前には先ほど登ってきた羊蹄山が裾を長く伸ばし堂々とその雄姿を見せている。その羊蹄山を見てあの山頂に行って来たのかと思うと思わず目頭が熱くなった。真狩温泉ですっかりとリフレッシュをして、空いている広い道路を快適に走り、この北の旅路の最後のお宿「しずく」がある洞爺湖へと向かった。この「しずく」のお宿はログハウスの独立した建物で、和美がこれもまた、ガイドブックで調べて選んだ宿である。

 三角に尖った屋根を成したメルヘン調にデザインがされており、中々感じの良い雰囲気なので、北の旅路、最後となるお宿に良い印象を得た。これが大変な間違いだったと後で気づくのだが、今は何をか言わんやである。夕食まで時間があるので、車で洞爺湖の観光街へ行き今晩飲むワインを仕入れてきた。

 やがて夕食タイムとなったので、レストランがある建物へと行きデナーを楽しみにテーブルに着いた。今回の北の旅路では、一番高い料金のお宿だけにさぞかしデナーのフルコースも美味しいだろうと期待に胸弾ませお腹もグー、グーと鳴ってご馳走を待つ体制になっている。ワインを注文し、今か今かと待っていたら何とピザが出て来たではないか。私達は一瞬、顔を見合わせてしまった。仕方が無くそのピザを切り食べ終わったら、ゲゲゲ、ゲゲ、今度はスパゲティが出て来た。コリャア、何なんだよ。それでもまさか文句も言えずそれを食べ終えたら、がーーん、今度はハンバーグが出て来たではないか。私達はジュージューと音がする焼きたてのビーフステーキを頭に描いていたのだが、コリャア、何なんだ。がーーん、まるで家庭料理ではないか。

 そういえば何でも脱サラをして、ご夫婦でこのお店を10年前に開いたとかガイドブックに書いてあったとのことだ。和美がこのお宿を予約をする際に「一品料理にしますか。それともフルコースにしますか。」と聞かれたとのことだ。北の旅路最後のお宿となるので、豪華に奮発をして、「それではフルコースでお願いします。」と頼んだのだそうだ。何てことはないフルコースと言ってもメニューに書かれてある料理をただ一通り出しているに過ぎないのだ。これではまるで落語か、漫画ではないか。 (^^;)

 それに洋食のフルコースと言えば最初にスープが出てくるのだが、そんなスープなどは全くお目にかかれなかった。よっぽど文句を言ってやろうかと思ったが、「当店ではこれがフルコースでご座います。」と言われればそれまでなので、グッと不満やるかたない気持ちを抑えて、部屋に戻って購入したワインを飲みながら、もう、二人で「これって無いんじゃあないの」「何がフルコースだ。笑わせるな。等と言いながらもうワインを腹立ち紛れにガブガブと飲んでしまった。

 そんな酔いも手伝い眠くなってきたので、ベットに入って」暫し眠ったのだろう。フト目を覚ましたら何故か窓が明るくレースのカーテン越しに外のイルミネーションがチカチカと点滅しているのが、丁度私の顔の辺りに光りが来てそれがまぶしくそれからはとても寝られたものではない。何故かカッコウばかり重視をしているためだろうか。その窓には厚いカーテンが無くただレースのカーテンがあるだけなので、光りがまともに部屋に入ってくる。もう、あの夕食のことと言い、この光りのことと言い、全く最後の夜というのに最悪だ。

 和美が寝ているベットの所は、その光も入らず暗くなっており、グースカ、グースカと気持ちよさそうに眠っているではないか。もう、すっかり頭に来て中二階になっている所に部屋がもう一つあり、そこはふとん部屋にもなっているようで、そこへ枕を持って避難をしてそこで寝ることとした。 (^^;)  (;_;)

  7月21日(土)

  『行 程』

 旅館「しずく」(8:10発)→ウィンザーホテル見学(8:25)→洞爺湖遊覧船(9:30)→昭和新山(10:10)→洞爺湖温泉(13:02〜14:40)→苫小牧港(17:30発)―太平洋カーフェリー→仙台


  ≪遊歩記≫

  そんな珍妙な一夜も白々と夜が明けて朝の陽が部屋に射し込んできた。そして外に出てそのイルミネーションがある所に行ってみると丁度小さな木にクリスマスの時にツリーにつけるような小さな電球がチカチカとまだ点滅をしているではないか。宣伝のために目立つようにこんなことをしているのだろうが、全く部屋の中からそれがどのように影響をするかも考えずに夜中まで付けている無神経に腹が立ってきた。

 それで朝食の際に「昨日の夜は実に不愉快な思いをした。ここへご主人を呼んできなさい。」と朝の食事を持ってきた奥さんをにらみすえて話をしたら、もう、顔が強ばって早速旦那を呼んできた。そこでその夜の顛末を話して、「これからもユーザーのことを考えるのならあのイルミネーションを撤去するか、厚いカーテンを窓に据えるか。何とかしないと実にユーザーにとっては不愉快な思いをするよ。」と話をしたら「誠に済みませんでした。そこまで気がつきませんでした。以後気をつけます。」とペコペコと頭を下げていた。全く脱サラで趣味を半分兼ねているような営業なので、プロ意識がないのも困ったものだ。

 そして朝食はそれでも一般的なメニューでその朝食を済ませそんなハプニングの宿を後にして、この宿から10分ぐらいの所にある来年の世界サミットの会場となる「洞爺湖ウィンザーホテル」の見学へと車を走らせた。丁度小高い山の頂上に建っているそのホテルは、まるで大鷲が羽を広げたような形を成しており、その建物の大きなこと。ここで来年の7月10日に世界の首脳が集まりサミット会議が開かれると思うと改めて感心をしてしまった。

 そんなウィンザーホテルを見てから洞爺湖遊覧をするためにその遊覧船が出る桟橋へと向かった。それではこの洞爺湖について書き記してみよう。


  洞爺湖

所在地     北海道(胆振支庁)
面積      70.7 km2
周囲長     50 km
最大水深    180.0 m
平均水深    117.0 m
貯水量     8.19 km3
水面の標高   84 m
成因      カルデラ湖
        淡水・汽水 淡水
湖沼型     貧栄養湖
透明度     10.0 m
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 洞爺湖(とうやこ)は、北海道虻田郡洞爺湖町と有珠郡壮瞥町にまたがる湖。支笏洞爺国立公園に含まれる。2007年4月23日、2008年の主要国首脳会議(サミット)開催地に正式決定。これにより日本でのサミット開催は九州・沖縄サミットに続き、再び大都市ではなく地方での開催となる。

  地理
 北海道南西部に位置する。洞爺カルデラ内にできた湖で、面積は日本で9番目、カルデラ湖としては屈斜路湖、支笏湖に次いで3番目の大きさ。
東西約11km、南北約9kmのほぼ円形の湖で、中央に浮かぶ中島(面積4.85km2)の最高点(標高455m)を中心として東北東〜南東〜南南西にかけての領域が壮瞥町、他は洞爺湖町の区域となっている。
 アイヌの人々は洞爺湖のことを「キムン・トー」(山の湖)と呼んでいたが、湖の岸を意味する言葉「トー・ヤ」が和人により湖名とされた。
まれに「どうやこ」と呼ばれることがあるが、これは誤りである(誤って記憶している北海道民もいるため注意が必要である)。

   島 : 中島、観音島、弁天島、饅頭島 中島、観音島、弁天島、饅頭島

流入河川 : ソウベツ川、大川など
流出河川 : 壮瞥川

 歴史
 洞爺カルデラは約10万年前の最終間氷期に数回の噴火を経て形成された。最後の大規模な噴火による降下火山灰は北海道から東北にかけての広い範囲の地層に見られる。カルデラ壁周辺には火砕流堆積物による台地も形成されている。
貧栄養湖で透明度は高かったが、南岸の洞爺湖温泉街をはじめとして排水の流入が増えたため、透明度の低下が著しい。

 利用
 南岸に洞爺湖温泉、有珠山・昭和新山があり、北海道有数の観光地帯となっている。

その他
 週刊少年ジャンプの連載漫画、銀魂の主人公坂田銀時の持つ木刀の名前の由来はここから来ている。これが原因で連載が開始した3年前から売り上げが上昇しているらしく、作者の空知英秋は土産物屋に感謝されている。


 洞爺湖の遊覧船に乗り込むと何と乗船客は、韓国の方ばかりで、日本人は私達二人だけという感じであった。きっと韓国から団体のツアーでこの北海道を訪れたのであろう。それにしても韓国人はもう辺り構わずベラベラと大声で話すためもううるさいのなんのこれには閉口してしまった。洞爺湖の水は澄んでおりとても湖面が美しく陽に映えてキラキラとしている。遠く小高い山の山頂にあのウィンザーホテルが鷲が羽を広げたようにうっすらと見える。きっと来年は世界サミットのために警備が大変であろう。

 中島、観音島、弁天島、饅頭島 の島々が湖面に緑の影を映してそれがとても綺麗だ。この遊覧船は途中中島で停泊をし、乗船客を降ろしてまた、桟橋へと向かうようになっている。私達は中島で下船をせずにそのまま桟橋へと向かった。途中遊覧船の脇にカモメが飛んできて餌をおねだりしている。和美が煎餅を買い求めそれをカモメにやるために空中へ投げると見事にその煎餅を嘴でキャッチして円を描いて回っている。これも人間が餌付けをしたためであろう。果たしてこれがカモメにとって良いことなのか大いに疑問だ。

 そんな40分の洞爺湖遊覧を終えて、今度は昭和新山へと向かった。それではこの昭和新山について話をしよう。

   昭和新山

標高    398 m
位置    北緯42度32分33秒
東経    140度51分52秒
所在地   北海道胆振支庁 有珠郡壮瞥町
山系    種類 溶岩ドーム

 昭和新山(しょうわしんざん)とは、北海道有珠郡壮瞥町にある火山。支笏洞爺国立公園に含まれる。標高398mで、温度低下と浸食などによって年々縮んでいる。国指定特別天然記念物。

 地質
 明治新山等と同じく有珠山の側火山であり、デイサイト質の粘性の高い溶岩により溶岩円頂丘が形成されている。現在も噴気活動が見られる。
また、かつては有珠山の麓の平地であったところに火山が形成されたことによる、いくつかの特徴がある。山が赤色に見えるのは、かつての土壌が溶岩の熱で焼かれて煉瓦のように固まったものである。そして、川に運ばれ平地の地下に埋まるなどしていた石が、溶岩によって持ち上げられたために、昭和新山の中腹に、河原にあるような丸い石が場違いに転がっているのも見ることができる。

 噴火前の状況
 かつてはこの地域にはフカバという集落があった。この集落名は、鮭鱒の孵化場があったことによる。胆振縦貫鉄道が通るのどかな田園地帯であったが、火山の隆起とともに集落は消滅した。その痕跡は崩壊した鉄道の橋脚跡などに残っている。

 噴火観測と保護
 昭和新山は、1943年12月から1945年9月までの2年間に17回の活発な火山活動を見せた溶岩ドームである。当時は太平洋戦争中であったこともあり、世間の動揺を抑えるために噴火の事実は伏せられ、公的な観測すら行うことができなかった。地元の郵便局長、三松正夫は、その成長の詳細な観察記録を作製した。これは後年、ミマツダイヤグラムと名付けられ、貴重な資料となった。また、三松は世界的にも貴重な火山の徹底的な保護と、家と農場を失った住民の生活の支援のために、民から山になってしまった土地の買い取りを行った。このため昭和新山は三松家の私有地であり、ニュージーランドのホワイト島等と同じく、世界でも珍しい私有地内にある火山である。1957年には特別天然記念物に指定された。
 なお、現在、昭和新山の山麓には、三松正夫記念館が建っている。三松正夫による観測記録などの資料類が展示されている。

 
 円形をした赤茶っぽい小高い山が、火山活動で、今から63年前の昭和19年頃に誕生したとは当に地球は生きていることを実証したようなものだ。この昭和新山の前で、記念写真を撮り、今度はその前にある有珠山へと向かった。有珠山のロープウェイに乗り有珠山の遊歩道を歩き山頂へと向かった。途中何という花だろうか。とても綺麗に群れを成し咲いている。それではこの有珠山について話をしよう。


  有珠山

 有珠山(うすざん)は、北海道、洞爺湖の南に位置する標高737mの活火山。山頂は壮瞥町にあり、山体は洞爺湖町・伊達市にもまたがる。過去100年間に4度の噴火活動が観測された、日本でも特に活発な活火山である。
二重式火山で、直径約1.8kmの外輪山の中に大有珠、小有珠、オガリ山、有珠新山などの溶岩円頂丘群が形成されている。また山麓にも昭和新山や金比羅山、明治新山などの円頂丘群を有している。

 1663年以降の活動はケイ酸(SiO2)を多く含んだ粘性の高いマグマによるもので、噴火前には地殻変動や群発地震を発生し、噴火に伴って潜在ドームや溶岩ドームによる新山を形成するのが特徴である。

 歴史

 成り立ち
 洞爺湖をかたちづくる洞爺カルデラの南部に有珠山が形成されたのは約2万年前と考えられている。噴火を繰り返し年月をかけて成層火山をなしたが、約7千年前に山頂部が爆発。その際に山体崩壊が発生し、南側に口を開けた陥没地形が形成された。この時発生した岩なだれは噴火湾にまで達し、有珠湾周辺の複雑な海岸線をつくった。

 江戸時代の噴火
 山頂崩壊後は長く活動を休止した有珠山であったが、寛文3年(1663年)旧暦7月14日に山頂噴火した。翌日には山麓の家屋を焼き住民5人が死亡したとの記録がある。活動は7月末まで続いた。この時の噴出物で山頂南側開口部が再び閉塞され、山頂火口は現在のような臼状の地形となった。
次の活動は明和6年12月(1769年)で、南麓の集落が全焼した。山頂陥没部に現在の小有珠にあたる溶岩ドームが形成されたのは、この明和噴火か、その前の寛文噴火の時と考えられる。
最も大きな被害をもたらした噴火は文政5年(1822年)旧暦1月19日に始まった噴火で、2月1日には山の南側を中心に火砕流が流下し、火砕サージも発生した。これにより南西麓のアブタコタン(現在の洞爺湖町入江)が壊滅し、記録によって異なるものの50名以上の住民が死亡したとされる。また、蝦夷地随一の馬産牧場であった虻田・有珠牧場も多くの馬を失う被害を受けた。今日ではオガリ山と呼ばれている潜在ドームは、この噴火で形成された。
 嘉永6年(1853年)の噴火も大規模な火砕流を伴うものだったが、当時集落のなかった洞爺湖方向への流下だったため、大きな被害はもたらさなかった。この噴火は27日に終息したが、翌日から山頂に溶岩ドームが成長しはじめた。これが大有珠である。
江戸時代の噴火はいずれも山頂からもので、多量の噴出物を一気に放出する、いわゆるプリニー式噴火であった。また、いずれも火砕流と火砕サージの発生が見られ、被害の多くは火砕サージの熱風による家屋の焼失であった。

  1910年噴火
 1910年(明治43年)7月25日、北西麓の金比羅山で始まった噴火は、まもなく北東麓の東丸山にかけての地域で次々に火口が開き、その合計は45個に及んだ。マグマが洞爺湖付近の地下水と遭遇して水蒸気爆発を起こしたものであった。一部の火口からは熱泥流が発生し、これに巻き込まれた1人が死亡。噴火は8月5日まで続いた。
北麓では地殻変動が起こり、最大約150m隆起して新たな山を形成した。この山は明治新山、あるいは明治43年にちなんで四十三山(よそみやま)と呼ばれる。
この噴火活動により、火口に近い洞爺湖岸では温泉が湧出するようになった。これが洞爺湖温泉の始まりである。

 1944年-1945年噴火
 有珠山東麓では1943年末から地震が続き、1944年に入ると東九万坪と呼ばれる地域で次第に地盤が隆起しはじめた。6月23日についに水蒸気爆発が発生し、その後も爆発を繰り返した。この噴火では降灰による窒息死で幼児1名が死亡している。
もとは標高100mあまりの台地であったところが、潜在ドームの形成により250mほどの山となっていたが、11月中旬になると火口から溶岩ドームが現れ始めた。この潜在ドームと溶岩ドームは翌年9月まで成長を続け、標高は400mを超えた。この新山は田中館秀三により昭和新山と名付けられた。

 1977年-1978年噴火
 1977年8月7日午前9時12分に始まった噴火は山頂からのプリニー式噴火であった。同年8月14日未明まで4回の大きな噴火を含む10数回の噴火が断続。噴煙の高さは最高12,000m。火口周辺地域には多量の軽石や火山灰が堆積し、家屋が破壊された。降灰は道内119市町村に降り注ぎ、農作物に多大な被害を発生させた。また、当時付近を走っていた国鉄胆振線もこの噴火で不通になった。降灰撤去費用がかさんだことが、同線の後の廃止の一因になったといわれている。
11月16日からは水蒸気爆発が発生し始め、翌年の10月27日まで続いた。この爆発による火山灰は降雨によって泥流となり、死者2名、行方不明者1名が出た。
地震と地殻変動は1982年3月まで続き、山頂部には有珠新山が形成された。 この地殻変動により校舎が破損した洞爺湖温泉小学校は移転改築を余儀なくされた。

 2000年噴火
 最近の噴火は2000年のものである。3月31日午後1時7分、西山山麓からマグマ水蒸気爆発。噴煙は火口上3500mに達し、周辺に噴石放出、北東側に降灰した。翌日には西山西麓、また温泉街に近い金比羅山でも新火口が開いた。
西山火口群を通過する国道230号は、地盤の隆起と断層により破壊され、通行不能となった。金比羅山火口からは熱水噴出により熱泥流が発生し洞爺湖温泉街まで流下、西山川に架かる2つの橋が流失した。火口に近い地域では噴石や地殻変動による家屋の破壊が多発した。また、広い範囲で地殻変動による道路の損壊が発生した。

 3月27日からの火山性地震の分析や断層の探索により近日中の噴火が予知され、3月29日には気象庁から緊急火山情報が出された。これを受けて壮瞥町・虻田町(当時)・伊達市の周辺3市町では危険地域に住む1万人余りの避難を噴火までに実施していた(噴火後に避難者数は最大約1万6千人まで拡大)。通常、緊急火山情報は人命に関わるような噴火が発生したことを知らせるものであり、噴火前にこれが発表されたのは初めての例である。有珠山が比較的「噴火予知のしやすい火山」であること、噴火を繰り返す周期が短くかつ一定で、地域の住民の多くは前回、前々回、中にはそのさらに前の噴火を経験した人もいること、また、「温泉などの、有珠山の火山活動による恩恵を受けて暮らしているのだから、30年に1度の噴火は当然受け入れなければいけないこと」という意識が高く、周辺市町のハザードマップの作成や、普段からの児童への教育などがなされており、危険地域を避けた適切な避難誘導を行ったことなども被害が最小限で済んだ要因の一つであった。
熱泥流に襲われ校舎が破損した洞爺湖温泉小学校は敷地が砂防ダム用地になったことも合わせて再び移転改築を余儀なくされた。
一時期室蘭本線が跨線橋の落下などのため不通となり、長距離列車は函館本線経由で運行された。3月29日から翌2001年6月30日までの間、道央自動車道の一部区間が路面損壊などのため通行止となった。
また、有珠山に近い室蘭市入江運動公園陸上競技場での開催が予定されていたサッカー・J2のコンサドーレ札幌対浦和レッズ(4月9日開催)、ナビスコ杯・コンサドーレ札幌対ガンバ大阪(4月12日開催)が噴火の影響により延期となった。

 見学地
 西山火山散策路
 2000年に噴火した火口付近に設定された散策路。枕木を敷き詰めており、子供から年配の来訪客まで容易にアクセスできる。ちなみにその枕木は鉄道のレールの下に敷かれていた枕木である。展望台からは水蒸気が立ち上る様子や噴火により破壊された建物、隆起により寸断された道路(国道230号)などを見学できる。駐車料金300円が必要で、散策路周辺は民有地のため土産物屋が多数存在する。

 洞爺湖町立火山科学館
 1977年、2000年の噴火時資料を多数展示。近隣の砂防ダム上から、2000年の噴火対策を行った際に、砂防施設内に取り残された団地を見ることが出来る。

 昭和新山と言い、この有珠山も自然が織りなす現象で、このように出来たという当に自然の神秘に改めて感動をした。展望台で望むと洞爺湖が眼下に見えそれを取り巻くように緑の山々が見える北海道の雄大なる景色に暫し佇み眺め見る。そんな有珠山の観光を終え洞爺湖の湖畔にあるレストランで昼食を採り、そのレストランの近くにある洞爺湖温泉で汗を流し車を一路苫小牧へと走らせた。途中大粒の雨が激しく降って来たが、それも短時間で小雨となり、来るときにカーフェリーの食事が美味くないことを知っているので、苫小牧の街にあるデパ地下で今日の夕食になるお弁当を買い求め苫小牧港へ向かった。

 そしてカーフェリーに乗り込み早速、一風呂浴びてこようと浴室に行き来るときと違って、波も穏やかなためゆっくりと浴槽に入り暮色に暮れた苫小牧の街を眺めながらこうして旅路の終わりを改めてその旅情に思いを馳せる。それから船室に戻り銘酒を飲みながらお弁当を食べる。和美も来たときの荒波の揺れもないので、安心をして寛いでいる。泉質の窓からは苫小牧の街並みの灯りが見え隠れをし瞬いており、これも船旅の醍醐味だろうか。

  7月22日(日)

  『行 程』

仙台(9:20着)→仙台東北自動車道インター(10:00)―東北自動車道→東京→三鷹()16:20着


  ≪遊歩記≫

 船室の窓のカーテン越しに旭が射し、朝が来たことを知った。旅の疲れも手伝い昨夜はすっかりと熟睡をしたので、今朝の目覚めもさわやかだ。早速、朝風呂へとタオルを肩にして出かけた。サウナで汗を流し浴槽に浸かり旭に輝く真っ青な大海原を望み見ているこの至福のひと時の満足感。ウーーン、実にたまらないものだ。朝風呂でサッパリとしてから朝食を採るためにレストランに行き朝食バイキングを注文して食べたが、デナーのバイキングと違って、こちらは料理の品も多くこれは及第点だ。そんな満足をした朝食を採った後は、ピアノのミニコンサートがあるということでそれを聴きに喫茶コーナーに行きそのピアノの演奏に聴き惚れる。

 そんな時の流れが止まったようなひと時を過ごし、やがて下船時間が近づいたので車のある船室へ行き下船のスタンバイをする。そして船員の指示に従い車を移動してカーフェリーから外に出る。それから一路東京を目指し東北自動車道を車を走らせた。

 こうして変化に富んだ楽しかった北の旅路も色々な思い出を刻みここに終わりを告げた。


                         ーーー「The end」ーーー







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