Circle≪ゆ〜ぽぴあ≫・遊歩記

       第115回遊歩
 〜ぶらり東京ウォーク〜
歴史と文学の町・文京タウンを散策








  遊歩日:   2010年11月14日(日)
  遊歩先:   小石川後楽園・本郷界隈・旧岩崎邸庭園他
  天 候:   晴れ
  参加者:   13名



 <行 程>
 ★水道橋駅⇒小石川後楽園園内散策⇒本郷菊坂⇒東大三四郎池⇒旧岩崎邸庭園散策⇒御徒町駅⇒夕食宴会 解散。

 ≪遊歩記≫

 今回は6月に開催された第1弾「ぶらり東京Walk・荒川河川敷遊歩」に引き続いての第2弾「ぶらり東京Walk・小石川後楽園&旧岩崎庭園遊歩」である。参加者13メイが水道橋駅に集合し、少し歩いた後、声出しをする。この参加者13名の中には、Mitashikyouぴあ・さくらんぼの会員であるSさんご夫妻が始めて参加されており、また、北区のS,Mさんが美人GuideHelperと共に顔を綻ばし嬉しそうに参加しているのが目につく。「イイナ・イイナ」 (^_^)

 担当者、RooNavのN,Mさんのコースの説明を受け先ずは水戸藩の別邸であった「小石川後楽園」へ向かう。この小石川後楽園は、1629年(寛永6年)、水戸徳川家水戸藩初代藩主・徳川頼房が築いた庭園を、嫡子の徳川光圀(水戸黄門)が改修、明の遺臣朱舜水(朱之瑜)の選名によって「後楽園」と命名して完成させた。出典は『岳陽楼記』の「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」によっている。

 7万平方メートル以上の広大な園内には、蓬莱島と徳大寺石を配した大泉水を中心に、ウメ、サクラ、ツツジ、ハナショウブなどが植えられ、四季を通じて情緒豊かな景色が広がる。

 また中国の文人たちが好んで歌った西湖や廬山もとり入れている。徳川光圀は朱舜水を設計に参加させたといわれており、中国的、儒教的な趣好が濃厚である。
 1869年(明治2年)の版籍奉還により旧藩主徳川昭武が邸宅とともに新政府に奉還し、そののち東京砲兵工廠の敷地の一部として陸軍省の所管となった。1874年(明治7年)以降、明治天皇の行幸および皇族の行啓を受け、外国人観覧者も多く、世界的にも名園として知られるようになった。

 1923年(大正12年)3月7日、国の史跡および名勝に指定された。指定の際、岡山の後楽園と区別するため「小石川」を冠した。1952年(昭和27年)には文化財保護法に基づく国の特別史跡および特別名勝に指定され、今日では、都立公園として整備され、一般に公開されている(有料)。

 そんな小石川後楽園の園内に入るとここが都心に有るとは、全く感じさせないほどの静寂さで、満々と清水を湛えた広い池が庭園の中心を成し、松や梅の古木が巧に配置されその池野背景には小高くなった築山に葉を落とした高い木々がこれまた、バランス良く植栽されており、当に山水の見事なる庭園美である。そんな庭園美を感嘆しながら歩を進めると何と田んぼが現れたではないか。この田んぼでは実際に田植えをして米野収穫をするそうで、ただ単に庭園の風景を楽しむだけでなく実用的な米野収穫をしているのだからさすがは水戸黄門様だけのことはあると妙に感心し歩を進める。

 そんな園内散策をした後、東屋で昼食タイムとなった。yuupolerはそれぞれ持参した銘々のお弁当を美味しそうに食べている。何故か「プッチュッ」という音がしないのが不思議なくらいだ。さすがは我がCircle《ゆ〜ぽぴあ》の黄門様、N,Mさんの担当だけのことはある礼を失しない態度は見事なものだ。 (^o^)

 そんな昼食タイムを終え次の目的地本郷界隈の散策となる。文人たちが暮らした本郷は裏通りに入るとまるで大正時代にタイムスリップしたような錯覚に陥りそうな軒を接した狭い家が並び腰に手ぬぐいをぶら下げ、カランコロンと下駄を鳴らして歩く袴をはいた書生が飛び出てきそうだ。そんな路地の一隅に樋口一葉が暮らしたという所が有り、現在はその家はないのだが、彼女が使ったという手押しのポンプ式井戸がある。何と今でも水が出てくるのだから立派なものだ。

 そんな路地を抜けいよいよ日本の最高学府である東京大学へ向かう。イチョウの葉は、まだ黄葉には少し早く青さが目立つ。そして威風堂々として建つ赤門を潜る。何だか東大生になったような気分だ。この赤門は東京大学の正門と間違えられるが、正門はキャンパス西部にあり、本郷通りに面している。横にある門衛所も合わせて登録有形文化財に登録されている。1912年完成。設計は伊東忠太。そしてこの赤門は、キャンパス南西部にあり、本郷通りに面している。旧加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門であり、1827年に第12代藩主前田斉泰が第11代将軍徳川家斉の第21女、溶姫を迎える際に造られた。建築様式としては薬医門であり、切妻造となっている。左右に唐破風造の番所を置いている。国の重要文化財、旧国宝。転じて東京大学の俗称となっている。

 日本で初めて設立された近代的な大学である東京大学には、明治以降の日本における教育史を象徴する数多くの建造物が関東大震災や東京大空襲などによる被害から免れ、残存している。そのため、重要文化財や登録有形文化財となっている建築物も多い。さらに指定までは受けていないものの建築関係者に評価の高い建物などもある。

 そんな東大の建物の中でも一般に知られているのが、学生闘争の拠点にもなった「安田講堂」であろう。そんな建物を目の前にするとあの安田講堂の闘争劇が瞼に浮かんでくる。
 この「安田講堂」は、

設計者内田祥三、岸田日出刀
施工清水組(現清水建設)
延床面積6,990 m2 (8,360 sq yd、2,115 坪)
階数 地下1階、地上7階
高さ 39.7?m (130?ft 3?in)
着工 1921年(大正10年)
竣工 1925年(大正14年)7月6日
改築 1988年(昭和63年) - 1994年(平成6年)
所在地 東京都文京区本郷7丁目3-1
文化財指定登録有形文化財[1]
指定日1996年12月20日[1]

安田講堂(やすだこうどう)は、東京大学本郷キャンパスにある講堂である。正式には東京大学大講堂(とうきょうだいがくだいこうどう)というが、東大の学内では安田講堂が用いられることに決まっている。収容人数は、1,144席(3階席・728席 / 4階席・416席)。
 
安田財閥の創始者、安田善次郎の匿名を条件での寄付により建設されたが、神奈川県大磯の別邸で右翼に暗殺された安田を偲び、一般に安田講堂と呼ばれるようになる。東京大学建築学科の建築家、内田祥三(のちの総長)が基本設計を行い、弟子の岸田日出刀が担当した。1921年(大正10年)に起工、関東大震災による工事中断を経て1925年(大正14年)7月6日に竣工した。震災後に建てられた学内の建築が茶色のスクラッチタイルで統一されているのに対し、本講堂が理学部旧1号館と同じ赤レンガなのはこのためである。

1968年(昭和43年)の東大紛争・東大闘争では、全学共闘会議によって占拠され、最終的には機動隊により強制排除された。その後長期にわたり大講堂は荒廃状態のまま閉鎖されていたが(事務室は順次「学生部」等として使われるなどしていた)、富士銀行をはじめとする旧安田財閥ゆかりの企業の寄付もあり1988年(昭和63年)から1994年(平成6年)に改修工事が行われ再度供用されている。

1991年より卒業式・学位記授与式が再び安田講堂で行われるようになったが、収容人員の関係から対象者全員を一度に収容することができず、現在は文系学部・理系学部で時間帯を分けて開催している。また、父母等については近隣の施設(御殿下記念館等)でライブ中継を見る形になる。

 そんな「安田講堂」を背にしてyuupoler一同デジカメでパチリと移した安登は、三四郎池へ向かう。 この池の正式名は「育徳園心字池」というらしいですが夏目漱石が小説に書いてから三四郎池と呼ばれるようになったようだ。その池の周りを巡り、東大を後にイチョウの葉が散る歩道を最後の目的地、旧岩崎庭園へと向かう。今年のNHKの大河ドラマ「龍馬伝」では、この三菱財閥の創始者岩崎弥太郎が登場するので、旧岩崎庭園へ向かう人の群れが多く改めて大河ドラマの影響の大きさに驚く。

 旧岩崎邸庭園

所在地
東京都台東区池之端1-3-45
分類都立庭園
面積 16,912.88m2
設備 ・遊具旧岩崎家住宅(洋館、撞球室、和館)
   告示2001年10月1日開園

 旧岩崎邸庭園(きゅういわさきていていえん)は、東京都台東区池之端にある都立庭園である。指定管理者制度により東京都公園協会が運営している。三菱財閥岩崎家の茅町本邸だった建物とその庭園を公園として整備したもので、園内の歴史的建造物は国の重要文化財に指定されている。

 旧岩崎邸の敷地は、不忍池の南西方、台東区池之端(旧下谷区茅町)に位置し、文京区湯島と境を接している。「旧岩崎邸庭園」として公開されているのは旧邸宅敷地の一部にすぎず、かつての敷地は、西側の湯島合同庁舎、南側の湯島四郵便局や切通公園一帯を含んでいた。

主な施設:洋館、撞球室、和館、庭園、売店等
主な植物:サクラ、イチョウ、もみじ、モッコク、シュロ、ヒマラヤスギ
開園年月日:2001年(平成13年)10月1日
開園面積:16,912.88m2

 旧岩崎邸の敷地は、江戸時代には越後高田藩榊原家の中屋敷であった。明治時代初期に牧野弼成(旧舞鶴藩主)邸となり、1878年(明治11年)に三菱財閥初代の岩崎弥太郎が牧野弼成から邸地を購入したものである。現存する洋館、大広間(かつての和館の一部)などは、岩崎財閥3代の岩崎久弥によって立てられ、1896年(明治29年)に竣工したものである。1923年(大正12年)の関東大震災の際には、屋敷地が避難所として地元住民に開放された。

 そんな広い建物の中を見学してから、最後に抹茶をお菓子と共に頂き歴史散歩を終了した。そして御徒町駅の傍で4人のyuupolerと別れ宴会組9名が、居酒屋で飲み放題一本勝負に挑む。どうもこの飲み放題というのは、「イケマセンネ」私は意地汚いものでついついアルコールのメーターが上がり、2時間のゴングが鳴ったときには、すっかりと良い気分になって、モウ、千鳥足でSさんご夫妻と共に三鷹村へ向かったのであった。

                           「オシマイ」