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≪平林寺&野火止緑道遊歩のPhotographはこちらからどうぞ≫

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《ゆーぽぴあ・遊歩記》

    《≪第22回遊歩 平林寺から野火止緑道
                    ・本多緑道・野火止用水≫》




遊歩日:   2006年3月5日(第1日曜日)
遊歩先:   平林寺・野火止緑道・本多緑道・野火止用水
食道楽:   名物手延べうどん
Grade:    G0
参加者:   15名
天 候:   晴天
 

<行程>

 西武池袋{11:40準急(所沢行)19分}→ひばりヶ丘(11:59・12:30)―バス→平林寺バス停(12:55)→手延べうどん「竹山」昼食(13:40)→平林寺境内散策→新座市役所交差点→野火止緑道山下橋→休憩所(ほろ酔い休憩)→伊豆殿橋→隅屋敷橋→本多緑道入口→バス停東久留米団地(16:40)→東久留米(15:10)→池袋(15:35)

 ≪遊歩記≫

 今回の遊歩は、早春のひと時、ブラリと平林寺の古刹を訪ね野火止緑道から本多緑道を歩いてのWalkingである。西武線のひばりヶ丘駅からバスに乗り平林寺バス停で降り、そこでK、Nさんと合流しこれで参加者15名が勢揃いをした。平林寺の山門にて自己紹介を行いそれから先ずは昼食を採るため名物の「手延べうどん・竹山」へ向かう。丁度昼食時に当たるため店内は混雑をしており、そのため結構待たされたがお目当ての三色うどんはとてもうどんのこしが強くナメコ、大根おろし、鶏肉等の味覚の器に汁をかけて食べるのだが、うどん好きの私にとってはこれがとても満足する味で、これを食べただけでもこのWalkに来た価値があ
るというものだ。

 サア、うどんを食べてお腹も一杯になったところで、再び平林寺の山門に戻り
これから平林寺の遊歩の始まりだ。時代の佇まいを感じさせる伽藍山門寛文4年(1664年)木製の茅葺の県指定文化財をくぐり境内にはいる。この平林寺は、正式には金鳳山平林禅寺と呼ばれ、臨済宗妙心寺派の禅寺で松平信綱をはじめとする。大河内家歴代の菩提寺。野火止用水を開いた安松金右衛門の墓もある。史永和元年(1375年)岩槻城主太田道真(太田道灌の父)が、現在のさいたま市岩槻区に創建。寛文3年(1663年)川越藩主松平信綱・輝綱父子が菩提寺として野火止に移転したものである。アカマツと周辺の雑木林は、武蔵野の面影を持つ雑木林として、昭和43年に国の天然記念物に指定されている。

 そして歩を進めて行くと仁王門があり、左右、仁王像が威風堂々と安置されている。この仁王像は、院の門や須弥壇の前面に1対で安置されるため、二王、二王尊ともいわれるが、正称は金剛力士。古くは甲冑(かっちゅう)をつけ、金剛杵(しょ)をもっていたので、執金剛(しゅうこんごう)ともよばれた。1対になったのは唐代からであるとされる。むかって右を密迹(みっしゃく)金剛、左を那羅延(ならえん)金剛という。密迹金剛が口をあいて「阿(あ)」をあらわし、那羅延金剛が口をとじて「吽(うん)」をあらわす。「阿吽」は「阿」がサンスクリットの最初の音、「吽」が最後の音で、万物のはじめとおわりを象徴するものとされ、「阿吽」を象徴しているとされ、仏教における神聖な呪文のひとつである。密教では「阿」はすべてのものが生まれてくる根源で、「吽」はすべてのものがその役割をおえたときかえっていくところだとしている。「阿」が発生、「吽」が帰滅であるとすれば、すべてのものの生から死までを表現していることになる。
仁王はそれを具体的に表現しているといってもよい(→ 阿吽)。造像例は鎌倉時代にすぐれたものが多く、なかでも東大寺南大門の運慶、快慶作のものが有名で、8.5mあり、日本最大である。

 そんな仁王門をくぐると右側に「大きな槇の木の傍らに聖石」が安置されており、そこには国歌である「千代に八千代に細石の巌となりて苔の結まで」と君が代が刻まれている。R、Nさんは、そんな聖石の刻まれた文字をなぞり、触覚で文字を確認をしていた。それから私達は、平林寺の県文化財指定の茅葺の仏殿でお賽銭を上げそれぞれ祈願をし、広い境内をゆっくりと歩いて行く。今年は寒さが厳しかったためにウメの花は三分咲きという感じでウメの花を期待していただけに少しガッカリだ。

 それから知恵伊豆と言われた、松平伊豆之守信綱の墓所に行き改めてその歴史の変遷を感じ、更に野火止用水の見張り台を見たりして、この広大なる雑木林の境内を出て平林寺の境内に沿って車道を歩き「こぼれ日通り」を歩きやがて遊歩道の野火止緑道に入る。ここでこの野火止用水について話をしてみよう。

 野火止用水の歴史

 徳川家康が江戸城へ入府後50年程たち、江戸の人口増による上水の不足がおこり、1653年(承応2)幕府は多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許しました。
 総奉行は、老中松平伊豆守信綱、水道奉行は関東郡代伊奈半十郎、玉川症右衛門・清右衛門兄弟がこれを請け負いました。
 難工事になり、信綱は家臣の安松金右衛門・小畠助左衛門に補佐を命じ工事を続行させ、1654年(承応3)完成しました。
 信綱は、その功績により関東ローム層の乾燥した台地のため、生活用水に難渋していた領内の野火止に玉川上水の分水を許され、1655年(承応4)に野火止用水を開催しました。
 工事担当を安松金右衛門に命じ、費用は三千両を要したといわれています。
 現在の東京都小平市から掘りおこし、野火止台地を経て新河岸川に至る全長約24キロメートルにも及ぶ用水路です。
 用水路は、素掘りにより開削されていますが、土地の低いところなどには、版築法などにより堤を築いたりして野火止の台地に引水されました。
 川越の商人榎本弥左衛門が書いた「萬之覚」によると工事開始は2月10日で、その40日後の3月20日には野火止に水が流れてきたと記されています。
 用水の分水割合は、玉川上水7割、野火止用水3割といわれ、主として飲料水や生活用水に使われました。
 この野火止用水開削に前後して、川越藩では野火止の耕地を計画的な短冊型に区画し農民を入植させ、新しい村(野火止、西堀、菅沢、北野)を創り、さらに周辺の他領16か村をはじめ、松平家の一門や家臣まで開発に参加させるという計画的な新田開発を行いました。
 その後、1662年(寛文2)に新河岸川に懸樋をかけ、用水が対岸の宗岡(志木市)に引かれ、また、分水が館村(志木市)や宮戸新田(朝霞市)の水田耕作にも使用されるようになりました。
 こうして野火止用水は飲料水だけでなく、のちに田用水としても利用されるようになりましたが、豊かな水を得た人々は、この用水に深く感謝し、後世「伊豆殿堀」とも唱えました。
 開削以来、野火止の台地と人々の心を、その清らかな流れで野火止用水は潤してきました。
 ところが、1949年(昭和24年)頃から生活様式が変わり出し、排水が用水に入って汚染が始まり、飲料水や生活用水としての利用が問題になりました。
 特に1963年(昭和38)頃から宅地化が進行し、用水への排水がさかんにおこなわれるようになりました。
 それに追い討ちをかけるように、1964年(昭和39)に関東地方が、干ばつに見舞われ、東京が水不足になり野火止用水への分水が中止されました。
 しかし、文化的業績のかけがえのない野火止用水をこのまま滅ぼしてはいけないと、埼玉県と新座市は「野火止用水復原対策基本計画」を策定し、用水路のしゅんせつや、氾濫防止のための流末処理対策を実施しました。そして遊歩道として平成10年に完成をしました。

 そんな歴史ある野火止緑道は、左側に野火止用水が流れ、一定の間隔で桜の街路樹が植えてあり、陽春の陽射しを浴び15名はもう、のんびりとお互いに談笑をしながら歩いて行く。やがて左側の雑木林の中に東屋の休憩所が見えたので、さきほどから小一時間ぐらい歩いているためここで休憩をとりほろ酔いタイムとすることにした。御神酒を皆さんにお配りをし、こうして歩ける喜びを改めて健康と幸に感謝をし乾杯となる。「ウーン、ウンメイ・・・!!!」歩いた後のお酒が実にうまい。まるで乾いた砂漠に水を流すようにお酒が五臓六腑に染み渡って行く。みんなご機嫌の赤い良いお顔になって談笑をしている。まさに至福の時だ。

 ほろ酔いタイムも1時間を経過したので、一同腰を上げまた、野火止緑道を歩き、更に本多緑道を歩いてやがて遊歩道の終点に達した。すると反対側の路傍に出店があり野菜などを全て100円で販売をしていた。そこに早春の植物である立派なネコヤナギを販売していたので、それを買い求めほろ酔い気分で歩いて行く。そして少し迷いながらWalkingの終点、東久留米団地のバス停に到着をした。ここでK、Nさんと別れ少しバスを待ってから私達は東久留米の駅に向かう。

 ネオンが輝く池袋では改めて宴席を設けたのは、言うまでもない定番である。今回の古刹の平林寺と野火止緑道の遊歩はまた、ひとつ都会の近郊の名所を知ることが出来た。