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≪北海道函館近辺の遊歩のPhotographはこちらからどうぞ≫






My山行Memo


北海道新幹線はやぶさ号に乗り
北の台地函館近辺で遊歩を楽しむ









 ≪北海道新幹線に乗り北の台地函館近辺を遊び歩く≫


 遊歩日:   7月4日(月)・5日(火)・6日(水)・7日(木) 3泊4日
 遊歩先:   函館市内(五稜郭・函館山)・大沼国定公園・間歇泉見学・函館市縄文文化交流        センター・城岱山展望台
 温 泉:   グリンピア大沼温泉・銀婚湯
 天 候:   4日(月) 晴れ 5日(火) 晴れ 6日(水) 雨 7日(木) 晴れ
 Member:   金川勝夫&和美


 7月4日(月)

 《行 程》

 08:20発→12:49着 4時間29分(乗車4時間17分)
運賃現金優先:23,010円(乗車券11,880円 特別料金11,130円) 乗換1回 東京から函館

▲東京{08:20発・JR新幹線はやぶさ5号・新函館北斗行}⇒○大宮(08:44)⇒○仙台(09:52)⇒○盛岡(10:32)⇒○新青森(11:21)⇒▲新函館北斗(12:22着・12:34発JR快速はこだてライナー・函館行)⇒○五稜郭(12:45)⇒▲函館(12:49)

※ 宿泊先函館駅前「ロワジールホテル」へ荷物を置く。
  昼食(どんぶり横丁)
  ⇒五稜郭へ
※ 五稜郭に行くのは、函館駅前から市電に乗り五稜郭公園まで行く。
※ そこから徒歩15分 五稜郭タワー見学⇒五稜郭奉行所等を見学
※ 函館山夜景見学
  市電に乗車し、十字街駅で降りる。=ロープウェイ⇒函館山(夜景見学)
  十字街駅=市電⇒函館駅前⇒「ロワジールホテル」 宿泊 (-.-)Zzz


 ≪遊歩記≫

 今年3月26日に新青森駅、新函館北斗駅間が、言わゆる北海道新幹線として、開通した。東京駅、新函館北斗駅間が、最短、4時間2分で、運行出来ることとなったので、それに一早く乗車して、津軽海峡の青函トンネルを新幹線で、通過したいものとその計画を立てたのであった。過去幾度となく北海道を訪れているが、流氷見物以外は、大雪山、利尻岳、羅臼岳、斜里岳、羊蹄山、阿寒岳等々と全て山行が主であるため、今回も山行を中心として計画を立てたのだが、この北海道新幹線を利用するとなると函館市が観光のMainとなるので、山行となると大沼国定公園に有る駒ケ岳が、候補の山として上げられるのだが、この駒ケ岳は、活火山のため山頂まではどうも登山が出来ないようなので、今回は山行をあきらめ、函館市近辺をのんびりと観光することとした。

 東京駅で、お弁当と缶ビールを買い求め、北海道新幹線21番線ホームへ行く。既にはやぶさ5号の新幹線はホームに待機しており、先頭が優美な鋭角なる流線型を描きラインカラーは、萌葱色でとても調和が取れている。車内はゆったりとして、座席幅も広く採ってあり、腰掛け足の長い(ゲゲゲノゲ、結構、短足ジャンケ。・・・!!)私が、足を前に出してもかなりの余裕がある。これから4時間2分の北海道新幹線夢の旅の始まりだ。それにしてもこの2分は何とかならなかったのであろうか。4時間にすればすっきりし、また、5分ぐらい短くすれば3時間57分と3時間台で行けるとなるとかなりイメージ的にも違うし、また、当面北海道新幹線の終点を函館駅に作らず、函館駅手前の不便な新函館北斗駅に作ったことが大いなる疑問であるが、これは当然私が考えることも無く、新幹線の技術者達は、それを考慮に入れていると思うが、それが出来ない事情があるのであろう。

 停車駅も大宮、仙台、盛岡、新青森、そして終点の新函館北斗駅と5駅である。早速、朝食のお弁当を食べながら、缶ビールのプルトップをブチュッと空け、ビールを飲み来し方を振り返ると北海道の旅は、ほとんどが羽田から飛行機を利用した旅がほとんどであるが、時にMyCarで、仙台港まで行きそこからカーフェリーで、苫小牧港まで行ったこともある。幾星霜の変遷を経て、こうして、科学技術の進歩により、今日東京から北海道まで新幹線に4時間2分と一直線に行くことが出来き、あの津軽海峡の青函トンネルを実に電車で通行出来るのであるから当に夢のようだ。

 車内の座席は、全て座席指定となっており、7月4日のwalk dayと言うのにそれが満席とのこと。やはり、この北海道新幹線の人気たる所以だろうか。何しろこれからの4時間、退屈を紛らせるため、予めプレークストークポケットに録音しておいた石原裕次郎のヒット曲を聞きながら目をつぶりウトウトする。

 それではこの時間を利用して、北海道新幹線について記述してみよう。

  「北海道新幹線」 「参考文献1」

 全国新幹線鉄道整備法第4条に基づく建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画により、1972年(昭和47年)に北海道新幹線として青森市 - 札幌市間が指定され、1973年(昭和48年)に同法第7条に基づき整備計画(整備新幹線)に昇格、同時に札幌市 - 旭川市間が基本計画に追加されている。北海道内の報道では道新幹線という略称が用いられることもある。
 2005年(平成17年)5月22日に新青森駅と道南の新函館北斗駅の間(148.4km)[報道 1]が着工され、2016年(平成28年)3月26日に新青森駅 - 新函館北斗駅間が開業した。新函館北斗駅から札幌駅までは、当初2019年度までの完成を目指していたが、7割以上がトンネルで巨額の費用がかかることなどから、国土交通省の試算により想定される工期が24年間に延びたため、2012年8月の着工を経て、2035年度末の開業を予定していた。工期が当初の計画より大幅に延びており、地元では工期短縮を国に求めてきた。

 2014年には国土交通省が工期を5年短縮する検討に入り、2015年1月にこれが決定し2031年(平成43年)春開業予定となった。一方で札幌市は、2016年4月に冬季五輪を2030年開催計画の発表をしているため、その開催の可能性なども念頭に「できるなら開業の短縮(前倒し)も可能となるよう取り組む」と述べ、札幌駅の新幹線ホーム位置も認可案よりも在来線の影響を回避しやすい東側にする方が実現可能性が高いと提案している。

 着工時の報道や、北海道の資料によれば、札幌まで開業した場合、新青森 - 札幌間が2時間7分、東京 - 札幌間が5時間1分で結ばれるとしている。また、北海道経済連合会では、札幌まで開業した場合、大宮 - 札幌間の最高速度を360km/h、途中停車駅を大宮、仙台、盛岡、新青森、新函館北斗の5か所と仮定して、新青森 - 札幌間が1時間19分、東京 - 札幌間が3時間57分で結ばれると想定している。なお、2016年の新函館北斗開業時の段階では、JR北海道は東京 - 新函館北斗間を最短4時間2分で結ぶことを発表した。

 青函トンネル(全長:53.85km、海底部:23.30km)を含む新中小国信号場 - 木古内駅間の82.1km区間は三線軌条による在来線(海峡線)との共用区間である。 列車の最高速度について、東日本旅客鉄道(JR東日本)によれば2011年に東北新幹線大宮 - 宇都宮間は240km/hから275km/h、宇都宮 - 盛岡間は275km/hから300km/hへ、2013年に宇都宮 - 盛岡間を320km/hへと向上させているが、それ以上の高速化については2016年時点では未定である。整備新幹線の保有者である鉄道建設・運輸施設整備支援機構に支払う「貸付料」の額に高速化が影響を与えかねないため、2016年時点では民営化後に開業した整備新幹線で260km/hを超える速度で運行されている路線は存在しない。

 なお、北海道新聞の報道によればトンネルが区間の約7割を占めるが、トンネル内に携帯電話電波を送受信できる設備を設置しない(トンネル内で通信を可能にするにはトンネルの出入り口に基地局を設け、内部に光ファイバーケーブルを通すなどの対策工事が必要になる)ため、乗車時間の半分以上で圏外となるようである。

 北海道新幹線は仙台、盛岡、新青森駅を順調に過ぎて、程なくすると車内放送が流れ「皆様、これから北海道新幹線は、青函トンネルの海底部、23.30kmに入ります。この間の所要時間は25分です。」このannounceを聞き海底部を23キロを電車が走るのかと思うと誠に感無量の境地だ。改めて日本の技術力に称讃大である。青函トンネルを新幹線が、通過しても全く言わゆる普通のトンネル部を通過しているという感じで、海底部分を通過しているという実感は全くない。最も何か感じたらそれこそ不思議なものだ。

 やがて、北海道新幹線は、青函トンネルを通過し、程なく、終点の新函館北斗駅に到着した。ここからJR快速はこだてライナーに乗車し、約、15分ほどで、北海道札幌市、旭川市に次いで3番目に人口の多い函館駅到着した。

 北島三郎の歌に「函館の女(ひと)」という歌が有り、「遙々来たぜ。函館へ逆巻く波を乗り越えて・・・!!!」と歌っているが、これは昔のこと。今は東京から新幹線利用で、眠っていても函館へ来られるのだから、日進月歩、技術の進歩たるや大変なものだ。   (^o^)

ここで函館市について、概略しておこう。 「参考文献2」

     函館市

    面積   677.86km2
   総人口   266,823人
        (住民基本台帳人口、2016年3月31日)
  人口密度   394人/km2
 隣接自治体   北斗市、亀田郡七飯町、茅部郡鹿部町
         (海上を隔てて隣接) 青森県下北郡大間町
   市の木   おんこ(いちい)
   市の花   つつじ(やまつつじ)
他のシンボル   市の鳥:ヤマガラ
   市の魚:  イカ

 函館市は北海道南端の渡島半島南東部に位置し、天然の良港である函館港によって北海道と本州を結ぶ交通結節点、道南地域の中心都市として発展してきた。毎年500万人近い観光客が訪れる観光都市となっており、市町村の魅力度ランキング調査で1位にランクインする都市になっている。フランスのタイヤメーカー、ミシュランが発行する旅行ガイド『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』では一つ星以上の星が付いている観光地が函館市内に21ある。一方で人口減少が著しく、2014年(平成26年)4月1日から市域のすべてが「過疎地域」に指定されているが、北海道新幹線の開業により微増が見込まれる。

 地名の由来

 室町時代の1454年(享徳3年)、津軽の豪族河野政通が宇須岸(ウスケシ、アイヌ語で「湾の端」という意味)に館を築き、形が箱に似ていることから「箱館」と呼ばれるようになった。1869年(明治2年)に蝦夷地が北海道となり箱館も「函館」と改称された。

 市街地は陸繋島となった函館山(臥牛山)から函館平野や亀田半島に繋がる砂州にあり、函館港は形が巴状になっていることから別名「巴の港」とも言われ、市章に採用している。
東部地域は恵山道立自然公園になっている。


 荷物を函館駅前のロワジールホテルへ一端置き、昼食にお目当ての丼横丁で・私はウニ、イクラ、アワビの三点海鮮丼を注文し、和美は函館の名物生きたイカを即、調理したイカ丼を注文する。生ビールを飲みながら、この三点海鮮丼を食べるが、これがまた、絶妙なる味で当にほっぺたが落ちそうだ。和美にイカ丼の味をきいてみるとイカの吸盤が、口の中に吸い付いてきて、何とも言えない味とのこと。当に生きたイカを即、調理したので、まだイカの生命力が残っていて「チキショウよくも俺をタベヤカッタナ。」とイカクンが、執念深く反撃に出ているのかも知れませんね。

 そんな超美味しい昼食を採った後、丼横丁に隣接する海産物水産市場へ行く。ここには約、300店舗が軒を連ね北海道の物産である、主に海産物を販売している。お土産は明日購入することとして、先ずは下見で軒を連ねる店舗を見て回る。すると直ぐ、商売熱心なるおばちゃんが、声を掛けてきて「美味しいよ。買ってらっしゃい・・・!!!」と商魂逞しく、少しも買って貰おうと懸命に声を張り上げている。そんな海産物市場を歩いた後、函館駅前から市電に乗車し、五稜郭公園で下車して、維新戦争の最後の舞台となった五稜郭の見学へ向かう。

 歩いて行くと観光のために建築された五稜郭タワーが聳え建っている。先ずはこの五稜郭タワーの見学である。

 それではこの「五稜郭タワー」について記述しておこう。 

 「五稜郭タワー」 「参考文献3」

   五稜郭タワーは、五稜郭築城100年を記念して昭和39年(1964年)年12月に初代タワー(高さ60m)が  建造されました。旧タワーは市民や観光客 の皆様の目を通して、41年間に渡り親しまれてきましたが、  新タワー完成によりその使命を新タワーに託し、平成18年(2006年)年6月に解体されました。 

 平成18年(2006年)4月1日にオープンした新タワー(2代目)は高さ107m(避雷針)。
展望台から見はるかす函館山や津軽海峡、横津連峰の山並み、そして特別史跡五稜郭の大地に輝く星形の眺望がご覧いただけます。
展望台には、五稜郭の歴史が学べる展示スペース「五稜郭歴史回廊」や強化ガラスの床で下が見える「シースルーフロア」、「売店」、「カフェスタンド」などがあります。
新タワーでは建物自体が五稜郭に対するこだわりを表現しています。

  展望台は五角形、塔体の断面も星形を採用、徹底して五稜郭と星形をモチーフにしています。

  ● 五稜郭タワー主要データ

     創業  (初代タワー開業)  昭和39年(1964年)12月1日
 新タワー開業   平成18年(2006年)4月1日
     高さ   107 m(避雷針高)  98 m(全高)
  展望台高さ   展望1階 86m  展望2階 90m
   敷地面積   2,938 u
   延床面積   5,783 u
  展望台面積    展望1階 314u   展望2階 464u
展望台収容人数   約 500 名
アトリウム面積   940.78                                      u
 エレベーター   30人乗り× 2基  所要時間 約30秒
     構造  (タワー部)  鉄筋コンクリート造
     構造  (展望台部、低層部)  鉄骨造
 照明デザイン   株式会社 トミタ・ライティングデザイン・オフィス
  展示・什器   清水建設株式会社・株式会社 丹青社
  設計・施工    清水建設株式会社


 折角来たのだから、ガイドを頼み五稜郭タワーを見学することとした。エレベーターで8階の展望台に行く。ここからの眺めは、抜群で眼下に函館山や津軽海峡、横津連峰の山並み、特別史跡五稜郭の大地に輝く星形の五稜郭が見られる。そして「五稜郭歴史回廊」として、小さなガラスケースに収まれた五稜郭の歴史が、人物や家屋がミニチュアとして、明細に作られている。それらをドサンコの可愛い美人ガイドが、順番に説明をしてくれる。私は説明もさることながらその美人ガイドに目が引きつけられ、自然に鼻の下が伸びて、オジサンとしては、全く困ったものだ。 (^^;)

 そんな「五稜郭タワー」を見学し、今度は実際に五稜郭の大地を歩くこととした。
私は、五稜郭を訪れる前までは、何か山に出来た城郭を想像していたのだが、実際に歩いてみると五稜郭は五角形をした台地になっており、その中心部に箱館奉行所が建っており、歩いているとその五角形は分からないが、先ほどの五稜郭タワーから見るとその五角形が良く分かるそうだ。澄んだ水を湛えるお堀には、睡蓮が白い花を咲かせ青い水と調和して、これもまた、一服の絵を見るようだ。函館奉行所の見学は、見学料金、金、500円がかかるのであっさりパスし、五稜郭の台地を歩くこととした。その台地には桜の気が植栽され桜の葉が陽光に映えとても鮮やかである。

 何と言っても五稜郭と言えば維新戦争で、旧幕軍が、官軍に追われ、この函館の地まで、逃げてきて、ここに自分たちだけの政府を作るため榎本武揚を中心に猛烈に官軍に抵抗したが、圧倒的な官軍の戦力に抵抗もむなしくついには降参したのであった。その何と言ってもheroが新撰組の副隊長であった土方歳三で、、その働きたるや、悪鬼羅刹の如く孤軍奮闘したが、この地五稜郭にて討ち死にしたのだった。先ほどの五稜郭タワーに土方歳三の写真が、展示されていたが、当にニヒルな顔立ちで、今で有イケメン男子だ。その写真を見て和美が、「随分と土方歳三っていい男だったのね。」とうっとりと眺めていたが、さぞかし女性にもてたのであろうや。


 それではこの五稜郭について、記述しておこう。 「参考文献4」

 五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に江戸幕府により蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に建造された稜堡式の城郭である。同時期に築城された長野県佐久市の龍岡城も稜堡式城郭であり「五稜郭」と呼ばれるが、単に「五稜郭」といえば函館の城郭とする場合も多い。
予算書時点から五稜郭の名称は用いられていたが、築造中は、亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)または亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)とも呼ばれた。元は湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから、柳野城(やなぎのじょう)の別名を持つ。

 五稜郭は箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造された。しかし、1866年(慶応2年)の完成からわずか2年後に幕府が崩壊、短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で旧幕府軍に占領され、その本拠となった。明治に入ると郭内の建物は1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された。その後、1914年(大正3年)から五稜郭公園として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場とともに函館を代表する観光地となっている。
国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されている。なお五稜郭は文化庁所管の国有財産であり、函館市が貸与を受け、函館市住宅都市施設公社(指定管理者)が管理している。

 五稜郭は、2004年(平成16年)に「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されたほか、観光地の評価としては、ミシュラン・グリーンガイド・ジャパンで、「五稜郭跡」、「眺望(五稜郭跡)」が二つ星を獲得している。

 奉行所復元

 函館市では、1983年(昭和58年)頃から五稜郭の復元整備を目的とした資料調査を進めた[48]。これと並行して郭内中心部の遺構確認試掘調査を行い、奉行所等建物の遺構の残存状況が良好であることを確認し、1985年(昭和60年)から本格的な奉行所遺構の発掘調査を開始した。1985年(昭和60年)から1989年(平成元年)、1993年(平成5年)から2000年(平成12年)、2001年(平成13年)、2005年(平成17年)と四度の発掘調査を行い、復元に向けて多数の基礎的資料を得ている。

 この間、有識者で構成された「特別史跡五稜郭跡保存整備委員会」が、2000年(平成12年)に「箱館奉行所復元構想」を、2001年(平成13年)に「箱館奉行所復元計画(郭内土塁内エリア整備計画)」を策定し、箱館奉行所庁舎等の復元整備と活用・公開等についての計画を立案した。その後、文化庁と復元に向けた協議を実施し、2006年(平成18年)に現状変更許可を得て着工した。2010年(平成22年)に復元工事が完成、7月29日に開館した。

 「五稜郭及び函館奉行所の歴史」

 「函館奉行所」

 1854年(安政元年)3月、日米和親条約の締結により箱館開港が決定すると、江戸幕府は松前藩領であった箱館周辺を上知し、同年6月に箱館奉行を再置した。箱館奉行所は前幕領時代(1802年-1807年)と同じ基坂(当時は松前藩の箱館奉行詰役所があったに置かれた。初代奉行の竹内保徳は松前藩の建物を増改築して引き続き使用する方針を示したが、続いて奉行に任命された堀利煕は、同所は箱館湾内から至近かつ遮るものがなく、加えて外国人の遊歩区域内である箱館山に登れば奉行所を見下ろせることから防御に適さず、亀田方面への移転が必要であると上申。そして竹内・堀は江戸に戻ると、当時の大砲では箱館湾からの射程外である、鍛冶村中道に「御役所四方土塁」を築いて奉行所を移転する意見書を老中・阿部正弘に出した。これが幕閣に受理され、五稜郭の建設が決定した。

 併せて、矢不来(やぎらい、現在の北斗市)、押付、山背泊(やませどまり)、弁天岬、立待岬、築島、沖の口番所の7か所の台場の新改築からなる箱館港の防御策も上申されたが、阿部は同時に築造するのは困難であることから、まず弁天岬(弁天台場)と築島(実施されず)に着手するよう指示している。

 1855年(安政2年)7月にフランスの軍艦コンスタンティーヌ号が箱館に入港[注釈 3]した際、箱館奉行所で器械製造と弾薬製造の御用取扱を務めていた[12]武田斐三郎が同艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡の絵図面を写し取った。武田は、この絵図面を基に五稜郭と弁天台場の設計を行っている。そして五稜郭と弁天・築島・沖の口台場の築造からなる総工費41万両の予算書が作成された。当初は工事期間20年の計画であったが、蝦夷地警備を命じられた松前藩(戸切地陣屋)・津軽藩(津軽陣屋)・南部藩(南部陣屋)・仙台藩(白老陣屋)の各陣屋が既に完成していたことから、五稜郭や台場の工事が遅れると箱館市民や外国人に対して幕府の権威を失うことになるので、弁天台場と五稜郭の築造を急ぐこととなった。

 1856年(安政3年)11月、組頭・河津祐邦、調役並・鈴木孫四郎、下役元締・山口顕之進、諸術教授役・武田斐三郎らを台場並亀田役所土塁普請掛に任命[4]し、1857年(安政4年)7月に五稜郭の築造を開始。建物については、1856年(安政5年)から郭外北側に役宅を建設、1861年(文久元年)に奉行所庁舎建設を開始した。施工は土木工事を松川弁之助、石垣工事を井上喜三郎、奉行所の建築を江戸在住の小普請方鍛冶方石方請負人中川伝蔵が請け負った。当初は、まず掘割と土塁工事、続いて建物工事、最後に石垣工事を行う計画であったが、当地は地盤が脆弱であり、冬季の凍結・融解により掘割の壁面が崩落したため、急遽石垣工事を先行させた。

 1864年(元治元年)に竣工、6月15日に箱館奉行・小出秀実が奉行所を五稜郭内に移転し業務を開始した。引き続き防風林や庭木としてのアカマツの植樹[注釈 4]や付帯施設の工事も行われ、1866年(慶応2年)に全ての工事が完了した。
建設費用は、堀・土木・石垣工事が予算98,000両に対し53,144両、建物工事が予算25,000両に対し44,854両、水道工事が予算20,000両に対し6,092両、全体で予算143,000両に対し104,090両であった(その他、弁天台場が予算100,000両に対し107,277両)[19]。この巨額工事には最盛期で5、6千人の人夫が使われたといわれ、箱館は大いに繁栄した。

 「箱館戦争」

 大政奉還の後、新政府により箱館府が設置されると、五稜郭は、1868年(慶応4年)閏4月に箱館奉行・杉浦誠から箱館府知事・清水谷公考に引き渡され、箱館府が引き続き政庁として使用した。同年10月21日に榎本武揚率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現在の森町)に上陸。箱館府は迎撃したものの各地で敗北、10月25日に清水谷知事が箱館から青森へ逃走し、10月26日に松岡四郎次郎隊が無人となった五稜郭を占領した。当時の五稜郭は大鳥圭介によれば「胸壁上には二十四斤砲備えたれども、射的の用には供し難し」「築造未だ全備せず、有事の時は防御の用に供し難き」という状態であったが、旧幕府軍は冬の間に、堤を修復し大砲を設置、濠外の堤や門外の胸壁を構築するなどの工事を行い、翌1869年(明治2年)3月に完成させた]。

 同年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃の際には、五稜郭に備え付けた大砲で七重浜および箱館港方面に砲撃を行っている。しかし新政府軍に箱館市街を制圧され、翌12日以降、甲鉄が箱館港内から五稜郭に向けて艦砲射撃を行うと、奉行所に命中した砲弾により古屋佐久左衛門らが死傷。また、新政府軍は各所に陣地を築き大砲を並べ五稜郭を砲撃したため、旧幕府軍は夜も屋内で寝られず、石垣や堤を盾にして畳を敷き屏風を立てて凌ぐ有様であった。その後、5月15日に弁天台場が降伏、16日には千代ヶ岱陣屋が陥落し、新政府軍から五稜郭へ総攻撃開始が通知され、衆議により5月18日に榎本らが降伏して五稜郭は新政府軍に引き渡された。

 練兵場

 明治以降、五稜郭は兵部省(1873年(明治6年)から陸軍省)の所管となった。奉行所庁舎および付属建物の多くは、1871年(明治4年)に札幌の開拓使本庁舎建設の資材とする目的で解体されたが、実際には札幌に運ばれず、札幌本道の工事や蓬莱町遊郭の建設資材として使われた。 その後、五稜郭は特に手を加えられることなく、練兵場として使用されたほか、1890年(明治23年)から1899年(明治32年)まで函館要塞砲兵大隊の仮事務所が置かれた。 一般市民は立入禁止であったが、中川嘉兵衛が陸軍の許可を得て、1871年から五稜郭の氷を切り出し、函館氷として売り出している。

 五稜郭公園

 五稜郭の桜と五稜郭タワー

 1913年(大正2年)、函館区長・北守政直が陸軍大臣に、五稜郭を公園として無償貸与して欲しいとの請願を行った。陸軍から、使用許可時点の状態を変更することは認めない、最小限の便益施設の設置や新たな樹木の植栽は全て函館要塞司令部の許可が必要である、かつ借用期間中の土地建物等の保存責任と費用負担は函館区が負う、などの条件付きで使用許可が出され、翌年、「五稜郭公園」として一般開放された。また、函館毎日新聞が発行1万号を記念して、1913年から10年かけて数千本のソメイヨシノを植樹した。この桜は現在も約1,600本が残っており、北海道内有数の花見の名所となっている。

 1925年(大正11年)には内務省に所管が変わるとともに、史蹟名勝天然紀念物保存法に基づく史蹟に指定された。1929年(昭和4年)には郭外の長斜坂が追加指定され、文部省の所管となった。そして戦後、文化財保護法が制定されると、1952年(昭和27年)に特別史跡に指定された。
1954年(昭和29年)には、函館で開催された北洋漁業再開記念北海道大博覧会(北洋博)の第二会場となった。北洋博で「観光館・お菓子デパート」として用いられた建物は、翌1955年(昭和30年)から市立函館博物館五稜郭分館となり、奉行所の復元工事に伴い、2007年(平成19年)11月に閉館するまで箱館戦争関連の品々を展示していた。また、発掘調査・復元工事が行われる以前には中央部の広場で地元の運動会や夏季の林間学校などが行われ、堀も水質が良好だった時代にはプールやスケートリンクとして使用されていた。


 そんな五稜郭を見学し、再び市電に乗り、十字街で下車する。長崎、神戸と日本三大夜景の一つに挙げられている函館山からの夜景の見学だ。当初は函館山を歩いて登ろうと思ったが、この旅行前からどうも左アキレス腱の調子が悪く函館市内を歩いていても痛みがあるため、ロープウェイで函館山へ行くこととした。市電の十字街を降り、少し坂道を昇り函館山ロープウェイ駅へ歩を進める。そしてロープウェイに5分ほど乗り、函館山山頂駅へ到着した。少々5時30分と函館山へ早く着いてしまったようだ。日没が7時頃なので、暗くなるまで約、2時間その間、間を持たせるのが大変だ。さすがは北海道、7月とは言え、標高344mともなると吹く風がとても冷たく感じる。館内では函館山の四季の夜景を大型スクリーンで映していたので、それを見る。さすがはプロのカメラマンが撮影しただけに四季の夜景が、見事に描かれている。


 それでは夜景が始まる時間を利用して、函館山について記述しておこう。


 「函館山」 「参考文献5」

要塞地帯法(明治32年法律第105号)により、函館山では1898年から要塞建設が始まり、1905年までに山全体に砲台や発電所、観測所など17の施設が建設された(津軽要塞)。この時に山の頂上を削ったため、標高が348mから334mと低くなった。また、函館山が要塞地帯になったことで、山全体が軍事機密となり、地形図から函館山が消えた。函館山の測量はもちろん、一般人の山や函館山の写真を撮影すること、スケッチをとること、函館山に関する話題も厳しく制限された。
1945年の第二次世界大戦終結で要塞としての存在意義を失った函館山一帯の国有地は、所管する大蔵省(現在の財務省)から函館市へ無償で貸し付けられた。津軽要塞はアメリカ軍によって解体され、翌1946年10月に大蔵省から一時使用の許可を受けた函館市は12月に函館山管理事務所を設置、函館山は一般市民に再び開放された。1948年に函館市はこの一帯326.6haを都市計画法に基づく都市計画緑地「函館山緑地」とした。戦後は夜景の名所として全国的に有名になる。
現在、御殿山第一砲台跡はロープウェイ施設や駐車場、展望台、送信所の下に現存しているものの、崩落の危険などがあり立ち入りが禁止されているが、残りの施設跡は一部見学できる。
約半世紀にわたって一般人の立ち入りが禁止されてきたために函館山の自然が守られ、今では絶滅寸前といわれているエゾヒキガエルなども函館山に生息している。なお、現在ではエゾヒキガエルという種は存在しないとされ、ニホンヒキガエルの亜種アズマヒキガエルの人為移入とされている。そのため法的な保護は受けておらず、逆にヒキガエルやネコなどの人為移入種による在来種の捕食が懸念されている。
この自然環境を保護するため、函館山の樹木や草花を採ることは市条例[2]によって禁止されている。
2001年、「函館山と砲台跡」として北海道遺産に選定された。最近は中国からの観光客が多い


徒歩で御殿山へ登るルートは複数あるが、東側の函館市電宝来町停留場から、函館山ロープウェイ山麓駅と函館護国神社との間にある入り口を経て旧山道を登るのが一般的で、約2.8kmの道のりを1時間程度で登ることができる。他に北側の函館どつく前停留場から東本願寺船見支院横を経て登る短く急なルートもある。いずれも途中に照明はないので、夜景を目的に登る場合は灯りを持参するか、日没ごろには着くようにする必要がある。
昼間晴れた日には眼下の函館市街はもとより、津軽海峡を挟んで遠く下北半島をも望むことが可能である。

 夜間には陸繋島のくびれた形の市街に輝く街灯りと漆黒の海の部分のコントラスト、さらにイカ釣り漁船が漁の際に灯すランプ(集魚灯)が織り成す、美しい夜景が有名である。夜景の中に「スキ」や「ハート」という文字を見つけると幸せになれたり両思いになれると言われている。神戸の摩耶山掬星台および長崎の稲佐山とともに「日本三大夜景」である
春から夏にかけては霧がかかりやすく、きれいな夜景が見られない日がある。


 函館山の市街地の夜景を見るSpotから、反対の方向は、7時を過ぎ丁度、日没が始まり、山々が赤く染まり、空も夕陽を梳かしたようで、その色合いが迚も綺麗だ。一方、函館市街地の夜景を見るSpotへ行くとまだ、函館市街地の灯りはうっすらと見えるだけで、とても夜景とは言えない状態だ。後、40分位は夜景が綺麗に見られるまでかかるだろう。それにしても寒い。鼻水が垂れてきそうで、何とも締まらない。よっぽど夜景見物をパスしようと思ったが、この時間まで粘ったのだから、ここは頑張るベイヤとジッと我慢の子で、強い風が吹く中震えながら待期している。

やがて、時刻は7時40分、やっと空も暗くなり、函館市街地の灯りがはっきりと見えてきた。そして海岸の方からは、イカ釣り船の漁火が赤々と見え始めて来た。まるで赤いサンゴを散りばめたような色彩は、世の中が平穏無事という情景に心和ませてくれる。そんな夜景ショーが開幕となったようだ。それにしても夜景のTimingの頃を計算して、来たのであろうか。実に観光客が多くその中でも、中国語、韓国語の、ガヤガヤベラベラと大きな声が、飛び交いこの北海道観光もそんな外国人にの人々に人気があるのには驚いた。寒さに耐え待ったかいが会ったので、満足して夜景見物を終えロープウェイで函館山を下山することとした。

 再び市電の十字街から乗車し、函館駅へ向かった。そして夕食をしようと丼横丁へ行ったのだが、全てのお店がシャッターが降りており、夕食をするようなお店が一見も見つからない。しかし、函館駅の近くであるのにも拘わらず、この閑散とした光景はどうであろうか。
きっと函館市の皆さんは、まじめな方が多く、早寝早起きに徹していると解釈し、それでもやっと一軒、営業していた居酒屋へ飛び込み海産物や焼き鳥セット等を注文し生ビールを飲みながら、夕食を採ったのであった。


 7月5日(火)

 《行 程》

 ロワジールホテル(朝食)⇒函館駅前物産店街(朝市見学)
函館駅前ニッサンレンタカーを借りて大沼へ行く。=約、1時間⇒大沼国定公園(湖畔遊歩散策)
=レンタカー⇒グリーンピア大沼 宿泊 (-.-)Zzz

≪遊歩記≫

 ロワジールホテルで、バイきんぐの朝食を済ませ、昨日下見をして於いた北海道物産街へ行く。
物産街へ行く手前の最初のお店で、和美が店頭に並べてあるカニ、ホタテ貝、メロン等々を見ていたら、たちまちそのお店のおばちゃんにAttackされてしまい何とまだ物産街へ行かないうちから結局、そこでカニ、ホタテ貝、フラノメロン等々を買ってしまいそれらを東京まで宅急便で送ることとした。それから各種海産物が並べてある物産街へ行く。ここでも当然、商売熱心なおばちゃん達が、懸命に買わないかコールをかけてきた。そして海産物等の料金比較をしてみたら、先ほどのお店で購入した海産物は決して高くないことが判明し、和美も納得したようで、更に物産街を見て歩く。するとプーンと良い臭いがし、そこにホタテ貝、アワビを焼いて食べさせるコーナーが有り、もうたまりません。それらを注文し、生ビールを飲みながら食べてみるとその味たるや最高で、またまた、ほっぺたが落ちそうな味にやはり、北海道に来てみないとこんな絶品にはお目にかかれないと多いに満足した。

 そんな買い物を済ませロワジールホテルへ戻り、荷物を持ち予め予約をして於いたニッサンレンタカーの営業所へ行く。そこでレンタカーを借りてここから1時間ほどの大沼国定公園へ行くこととした。さすがは北海道だけに車道も広く採ってあり、walk dayで、走行車も少なく快適なるDriveが楽しめる。

 それでは大沼国定公園へ着く時間を利用して、大沼国定公園について、記述してみよう。

 「大沼国定公園」 「参考文献6」

 渡島半島中央部に位置し、函館市から約16kmの距離にある。活火山の北海道駒ヶ岳とその火山活動によってできた大沼、小沼、蓴菜(じゅんさい)沼の湖沼による地域となっている。公園内には大小126の小島が浮かび、春から秋にかけてはサイクリング、ランニング、ボート、遊覧船など、冬にはスノーモービルやワカサギ釣りなどのアウトドアスポーツを楽しむことができる。

 歴史

 江戸時代から小沼と蓴菜沼辺りは箱館から小樽方面へ抜ける交通の要衝であった。1872年(明治5年)に札幌本道が開通なると宮崎重兵衛が旅館を開業し、観光目的で訪れる人が多くなり、函館港から入国した外国人も訪れるようになった。1881年(明治14年)には明治天皇が北海道行幸の途中に休憩で訪れるなど道南の景勝地として知られていった。当時の賑わいは小沼と蓴菜沼であったが、1903年(明治36年)の北海道鉄道大沼駅開業後は大沼公園広場地区が観光地として発展した。1905年(明治38年)に北海道庁は大沼周辺を「道立公園」に設定。1914年(大正3年)には本多静六による大規模な公園整備計画を策定。1915年(大正4年)に大沼が「日本新三景」に選定された。1921年(大正10年)、道の申請により政府は公園の使用許可を下し、正式に道立大沼公園が開設した。「自然公園法」が制定されると、1958年(昭和33年)「国定公園」に指定された。 大沼周辺は2010年(平成22年)に「日本紅葉の名所100選」選定となり、2012年(平成24年)に「ラムサール条約」登録湿地となった。

 「北海道駒ケ岳」

  標高    1,131[1]m
 所在地     北海道森町、鹿部町、七飯町
  山系    独立峰
  種類    成層火山


 概要

 山頂部には直径約2 kmの火口原があり、西の剣ヶ峯、北の砂原岳、南の馬の背・隅田盛で囲まれるほか、山腹は、火山噴出物で覆われる地形輪廻の原地形(初期段階)を見せる。山頂直下からガリ侵食が始まり、一部で深いV字谷を形成し始める途上にある。山麓には、堰止湖である大沼、小沼などの湖沼や湿地など豊かな自然環境が形成され、一帯は1958年(昭和33年)7月1日に大沼国定公園に指定された。山麓一帯は函館港の開港後の明治時代からリゾート地として親しまれていて、小松宮と有栖川宮の皇族やドイツやイタリアの皇族が訪問している。明治14年には、皇太子時代の大正天皇が大沼を訪問することにより、いっそうこの地が有名になった。1915年(大正4年)には北海道駒ヶ岳を望む大沼の風景が新日本三景に選定された。
七飯町の大沼方面からみると、横に長く、なだらかで優美な女性的印象を与えるが、森町方面や鹿部方面からみると一変し、荒々しい山肌と傾斜が目に付く男性的な激しい姿を見せる。大沼方面から見た山容が馬がいなないている姿に似ていることが、山名の由来であると言われている。


 大沼国定公園の駐車場にレンタカーを駐車し、これから大沼湖、小沼湖の観光だ。大沼湖の湖畔に行くと丁度良く、遊覧船が出とのことでそれに乗船する。乗船時間40分の船旅の開始だ。エンジン音も高らかに遊覧船が船着き場を離れガイドの説明聞きながら遊覧船の左右の窓から、大沼湖の景観を楽しむ。中でもやはり、駒ケ岳の雄姿は、抜群でガイドの説明によるとこの駒ケ岳は、年に50%ぐらいしか、展望が無く、ほとんどが霧に覆われているとのことだ。幸い今日はこうしてはっきりと駒ケ岳の雄姿を見ることが出来るので、何か吉兆の前触れであろうか。 (^^)

 そんな遊覧船での大沼湖、小沼湖の観光を終え、今度はこの大沼湖の畔に作られている遊歩道を約、1時間かけて歩くこととした。こうして実際に歩いてみると更に大沼湖の絶景が体感出来改めて歩けることの健康に感謝、感謝だ。これからの行く末も夫婦二人が、金が無くても、末永く健康でEnjoyLifeが出来れば最高である。 (^_^)

 時間的にはまだ早いのだが、お目当てのカヌー乗船は、明日にすることとして、今日のお宿、この大沼湖から約、20分位離れた所に有る「グリーンピア大沼」へ行くこととした。深緑の樹林を抜けると程なくまるで場違いのような大きな建物の「グリーンピア大沼」へ到着した。この「グリーンピア」関連の施設は、厚労省の外郭団体が、税金の無駄遣いを尻目に作られた建物だけにイヤー、素晴らしい建物だ。

 フロントで、宿泊の手続きを済ませ811号室へ行く。その部屋は和室が10畳と結構広く取ってあり、窓からのlocationも抜群で、何と駒ケ岳の山容がその雄姿をくっきりと見せている。先ほどの大沼湖の低いところから見たときよりも、ホテルの8階から見るためその分、駒ケ岳も大きく見えるのであろう。早速、タオルを肩に温泉とばかり浴室へ行く。その浴室が何しろホテルが広いものだから、1階まで行かなければならないので、部屋から結構歩くことになる。

 その浴室に入ると大浴槽には、掛け流しの温泉が、満々と溢れ出ている。その他には寝浴、ジャブジー風呂、サウナ、打たせ風呂、水風呂、そして露天風呂とその種類も多く温泉好きな私には、ニンマリする光景だ。先ずは大浴槽にドブーンと浸かる。phの高い泉質が、肌にスベスベとして迚も気持ちが良い。そう言えば浴室の入口に美人作りの湯と書いてあったっけ。その温泉に湯ったりと浸かり、今度は内風呂に隣接している露天風呂へ行く。内風呂と違い直接風が当たるので、温泉に浸かっていてものぼせることが無いから長く温泉に浸かっていられる。そんな露天風呂を楽しんだ後、一応、サウナをはじめ各、浴槽に入り、すっかりと良い気持ちになって、部屋へ戻った。  (^_^)

 そして湯上がりに缶ビールを飲んでいたらピンポーーン、「夕食のご用意が出来ましたので、レストランルームへ皆様、お越しください。」とannounceが有り、私達はいそいそとレストランルームへ行く。そのレストランルームのテーブル席に着くと既に何品かのお料理が並べてあり、突き出し、ウニ、イクラ、アワビ等々のお刺身類、鍋物、煮魚、カニ、ホタテ貝とマア、ご馳走のオンパレードだ。それらを生ビールを飲みながら、箸を進める。また、少しすると今度は揚げたての天麩羅をwaiterが持ってきた。しかし、こうして大沼湖の散策をし、温泉に湯ったりと入り、そしてこの豪華なるご馳走の夕食Thyme、当に至福のひと時。誠に感謝、感謝だ。・・・!!

 そしてご馳走の最後に残っていたのがカニの釜飯で、さすがにこのご飯は食べられずカニだけを食べすっかりと良い気持で満腹の腹をさすりながら部屋に戻ったのだった。  (^o^)


 7月6日(水)

 《行 程》

 グリーンピア大沼(10:00)=レンタカー⇒間歇泉見学=レンタカー⇒函館市縄文文化交流センター(見学)=レンタカー⇒銀婚湯(13時10分) 宿泊 (-.-)Zzz


 ≪遊歩記≫

 早朝、スッキリと目覚め、先ずは朝風呂へ行こうと窓から外を眺めたら、シャーーん、何と雨が降っているではないか。それもかなりの大粒の雨だ。今日は大沼湖で、インストラクターの指示の元、カヌーの体験をしようと思っていたのだが、この雨ではカヌー乗船も中止であろう。そこでゆっくりとホテルのチェックアウト10時まで滞在することとした。

 雨で白く舫った外気に触れ一人、露天風呂に入る。これ最高の気分だ。温泉はジャブジーとか超音波とかやたら手を加えず、こうして露天風呂に自然と調和し、湯ったりと温泉に入る。これこそが温泉三昧の極意とでも言えようか。またまた、至福のひと時である。過去の北海道旅行と言えば山行が主で、山行で体力を使い果たしてしまうため、余り余裕も無かったので、今回のようなのんびりとした観光旅行も良いものだ。そして温泉に入りサッパリとしたところで、ホテルではお決まりのバイきんぐの朝食を食べる。

 朝食を採り、部屋に戻るなり、、部屋でゴロゴロとしていても仕方が無いので、和美が色々とパンフレットを眺め、雨が降っても観光には支障を来さない二つの観光スポットを選びそこへ行くこととした。そして今日のお宿「銀婚湯」のCheck-inが、何と13時カラなので、銀婚湯へ早めに行き貸し切り露天風呂に入ることとした。

 一路、レンタカーを第1の観光スポットである「間歇泉」へ向かって、走らせた。海岸線を通りやがてお目当ての「間歇泉」へ到着する。入場料、300円を支払い場内に入ると足湯が設置してあるので、そこで足湯を楽しむ。すると場内放送があり、「只今から間歇泉が、噴出します。」と言うannounceが有り、ゴーーッと音を立てて高さ、約10メートルぐらい間歇泉が噴出した。

 そんな「間歇泉」を見てから、今度は車で10分足らずの所にある「縄文文化交流センター」へ行く。ここには北海道で唯一の国宝である「中空土偶」が、展示されている。


 それではこの「縄文文化交流センター」について、記述しておこう。 「参考文献7」

厳しい自然環境の変化に適応しながら成熟・繁栄した縄文文化は、1万年以上もの長い間継続した世界にも類をみない日本特有の文化です。ここからみなさまを縄文の世界へと誘います。各種講座や学習会の会場です。縄文編みやミニチュア土器づくりなどをいっでも体験することができます。

 縄文のくらし

 豊かな恵みの源である海や川、山などの自然全てが、縄文人の生活の舞台でした。土器や石器・骨角器などの多種多様な道具類、竪穴住居や貯蔵穴などには、縄文人の知恵やエ夫が凝縮されています。それらから、口々たくましく生きた縄文人のくらしぶりが浮かび上がってきます。

 縄文の精神  Jomon Spirit

 自然とともに生きていく中で形成された豊かな精神|生もまた、縄文文化を象徴しています。足形付土版や+偶といった縄文の精神世界を表わしている遺物からは、命を人切にし、循環と再生を信じた縄文人のこころを感じ取ることができるでしょう。交易ということ縄文人たちは私たちの想像を超えるダイナミックな交流をしていました。“漆(赤)"“アスファルト(黒)"“個翠(碧)"に代表される交易品は、縄文のネットワークにより流通していたもので、モノやヒトが活発に交流していたことを物語っています。

 中空土偶

 著保内野遺跡から出土したこの土偶は、内部が空洞で、頭部から脚先まで全身が薄く精巧につくられており、文様構成にも優れています。中空土偶としては最大で、遺存状態も良好です。縄文時代後期後半(約3,500年前)の墓から出土したことがわかっています。縄文時代の信仰や祭祀の実態や
精神文化を明らかにする上で欠かせない資料であり、加えて土偶造形の到達点を示すものとして極めて重要であることから、2007(平成19)年に北海道唯一の国宝に指定されています。

 縄文と交感する

 世界が自然を開拓して農耕社会を築いていたとき、日本では漁携・狩猟・採集を生業とする縄文文化が営まれていました。1万年以上もの長きにわたり続いた縄文時代は、優れた技術や豊かな精神性をもった成熟した時代でした。人々は様々な環境の変化に適応しながら自然の恩恵を享受し、時には格闘し、自然とー体となって生きていました。そのなかで、命の循環と再生を信じるこころをもち、生活の技術や芸術性をも高めていきました。当施設で、縄文人の自然観や精神世界を体感
し縄文のこころと交感することで、自分のなかにある縄文のこころに気づくことでしょう。それ
は縄文の視点で現代そして未来を見つめるきっかけになるかもしれません。


 そして古代、暫し縄文文化の一端に触れ、国宝である中空土偶を間近に眺めた後、大粒の雨が降る中、今夜のお宿「銀婚湯」へレンタカーを走らせた。カーナビの指示に従い北の台地の緑の原生林の中、40分も走っただろうか。要約、車道脇に「銀婚湯」の看板が見えた。ここからゴロゴロとした道を過ぎるとやがて「銀婚湯」の駐車場に到着した。

 この「銀婚湯」は日本秘湯を守る会の温泉の一つで、玄関に入ると木造の落ち着いた建物に先ず癒される。

 それでは「銀婚湯」のパンフレットから引用し、「銀婚湯」を紹介してみよう。


 「銀婚湯」 「参考文献8」

 銀婚湯の由来

 当館は先々代からさずかった銀婚湯という宿名のお陰で、結婚二五年目の銀婚式をお祝いするお客様からのご愛顧を特に賜っており、そのことを今日までの誇りとしております。そもそも、上の湯温泉は落部川の中流中洲より湧出する名湯として、数百年昔から、先住民族のアイヌの人々が狩猟の折々に汗を流し、時には療養のために常浴しておりました。蝦夷日誌によりますと、江戸時代後期の弘化三年(一八四六年)には松浦武四郎が浴し、初めて全国に紹介された旨の記録があります。

 慶応四年(一八六八年)の戊辰戦争の折には榎本時節柄、開業当初は湯治のお客様が中心でしたが、少しずつではありますが「銀婚湯」という名の宿があることが世間に知られるようになり、今日
では遠方からの銀婚祝いのご夫婦も含め、多くのお客様に足を運んでいただけるようになりました。また、当館敷地内にはまるで夫婦のような樹木や岩が多数見受けられるため、銀婚湯に止宿すると末永く夫婦仲むつまじく幸せに暮らせるー一。いつの頃からか、そんな嬉しい噂もささやかれ
始め、近ごろは銀婚式をお祝いする方はもちろん、新婚さんのご利用も増えてきています。新婚さんと銀婚さんが浴場へと続く廊下で会釈をしあう。そんな微笑ましい光景に出会うことも少なくありません。

 ゆったりとした時間の中で、濠々と溢れる湯につかり、四季折々の彩りを眺め、旬の幸に随喜す武揚率いる幕軍の負傷者を湯治させたところ顕著なる効能があったためー躍有名になりました。
しかし、当時は熊笹で覆った無人の湯小屋で、温泉の湧出量もさほど多くなかったのでしょう。
大正一四年五月一〇日、七飯峠下の川口福太郎が志あって中洲を開掘し、熱湯の大量湧出に成功。
温泉宿建設に夢をはせたのでした。時あたかも大正天皇銀婚の佳日に当たったため、福太郎の妻トネの発案で、自分たち夫婦の銀婚式を重ね合わせ、「銀婚湯」と命名。その後、困難もございましたが、トネの血のにじむような努力により、今日の銀婚湯の礎が築かれたのであります。そんなご褒美を自分自身や苦労を共にしてきたパートナーに贈ってみませんか?私どもも心を込めてお迎えいたします。どうぞ、ふだん着のままでお越しくださいませ。

当館の温泉は敷地内から湧出する五本の源泉を単独もしくは混合で使用しております。湯舟は男女別の大浴場、露天風呂、家族風呂など全部で]11]力所ございます。

泉質は弱アルカリ性のナトリウム
温度は60度〜95度と高温ですので、一部の浴槽は地下水をー割程度加水して適温化しています。

当館の敷地内、散策路の途中などには隠し湯として遊び心満点の野天風呂が点在しております。
隠し湯はすべて「宿泊客専用の貸し切り風呂」となっておりますので、フロントに申し付けた上で専用の鍵をお持ちになって、ごゆっくりお楽しみください。

 隠し湯 五湯

もみじの湯 どんぐりの湯 杉の湯 奥の湯(トチニの湯)
桂野湯


 2階の部屋に着くなり、荷物を置いて早速、貸し切り露天扶余へ行くこととした。フロントに行くと私達が一番先なので、5種類の貸し切り露天風呂は、どちらも空いているとのことなので、一番人気のある「トチニの湯」へ行くこととした。その「トチニの湯」の鍵を貰い玄関脇の飛び石上に玉石が敷設してある狭い道から露天風呂コースの遊歩道へ行く。すると今度は歩きやすい広い道になり、白樺や桂の木の並木を通る。誠に雰囲気抜群だ。さらに歩を進めると川幅の広い音標川に着いた。そこには何と吊橋が敷設されてあり、注意書きには「ゆっくりとお一人づつ間を開けてお渡りください。」と書いてある。その吊り橋を渡ると結構、揺れるではないか。目線を下に転ずると音標川の清流が広い飛沫を上げ岩を噛んで流れている。

 そんな吊り橋を渡りきり、更に小径を行くとお目当ての「トチニの湯」へ着いた。
トチニ」とは何か、実は「トチ」とはトチの実を指し、そして「トチニ」とはアイヌ語で「栃の木」を言うのだそうである。ここには二つの湯船がある、最初は大木をくりぬいた湯船、もう一つは、そこから数メートル下ったところにある四角のものである。まず、最初に目の前に栃の木
くりぬいた湯船が目に飛び込む。私達はそれぞれの湯船に交代で入ることとした。それにしても栃の木の大木をくりぬきそれを湯船にするという発想は、当に自然と一体化しており、野手満点だ。大人が足を伸ばして、二人が入れる程の湯船だ。一方の四角い木組みの湯船はやや狭いが、こちらも実に木組みの湯船だけにまた、風情がある。空を見上げれば栃の木が、高く繁茂し、サワサワと風が吹き、ザーザーと音標川の潺が聞こえこの自然が織りなすharmonyは、誠に癒やしの自然の世界だ。・・・!!!   (^_^)

 そんな野手満点の「トチニの湯」へ一浴し、再び音標川にかかる吊橋を渡り銀婚湯の玄関に着く。しかし、この温泉のnamingである銀婚であるが、確か結婚してから25年目が銀婚であったっけ。ふと私達はと来し方を振り返り、指を折り数えてみたらもう、6年前に銀婚式が済んでいたのであった。全く過ぎてしまうと25年なんて早いものだと痛感する。そして折角、タオル、バスタオルを持っているのだからと今度は内風呂へ行くこととした。その男の内風呂は、かなり細長い浴室で、そこには岩石が、設置され言わゆる岩風呂で、そこに真満々と掛け流しの温泉が流れ出ている。そしてその内風呂からまた、戸を開けてみると何とここにも大きな露天風呂が設置されていた。思わず温泉好きな私はニンマリとして、その各、温泉に湯ったりと入る。・・・!!!   (^_^)

 そんな温泉三昧をして、部屋で寛いでいたら、「お客様、夕食のご用意が出来ましたので、お食事処へお出でください。」 とのannounceが有り、そのお食事処へ行くと何とそれぞれ固執になっており、他のお客と接すること無く食事が食べられるという誠に気配りの整ったオモテナシに感激だ。そのお料理というと主な物は、香の物、突き出し、カニ、ホタテ貝、イクラ、ウニ等の刺身類、牛肉の冷やしシャブシャブ、茶碗蒸し、揚げたて天麩羅、煮魚等々と豪華なお料理がテーフルに並べられている。それらを地ビールを飲みながら、一つ一つに箸を付けて行く。そのその味たるや、何も言うこと無くただウマイの一言だ。今回の北海道の旅では、何回ほっぺたが落ちたことだろうか。  (^_^)

 そんな美味しい夕食を食べ終わり、部屋で寝転んでいたら「これからホタル観賞をいたしますので、ご希望のお客様は、玄関にお集まりください。」とannounceが有り、「エッ、ホタル観賞だってさ。」といそいそとしながら玄関ホールへ向かった。すると既に大勢のお客が待期しており、改めてこんなに大勢の人が銀婚湯へ泊まっていたのかと驚いてしまった。旅館のご主人の先導に従いゾロゾロとホタル観賞場へ行く。そこは結構、水量がある小川で、暗闇にホタルが光り乱舞している。旅館のご主人の説明によると「今日はホタルの数が、圧倒的に少ないです。何故ならば雨が降ってしまったためホタルが舞う条件に適さないからです。」と話されたが、エッ、これでホタルの数が少ないのかと思われるぐらい闇にホタルがあちらこちらで光を放ち乱舞している光景は、当に幻想的で、夢の世界のようだ。私はホタルと言えば東京の目白にある椿山荘で、ホタル祭りの際に三田だけなので、こうして天然のホタルを見るのは初めてだけにその感激は一入であった。・・・!!!    (^o^)  (^_^)

 そんなホタル観賞をして、また、ゆっくりと温泉に入り、夢心地で、爆睡モートに入ったのだった。 (-.-)Zzz


 7月7日(木)

 《行 程》

 銀婚湯(10:00)=レンタカー⇒大沼公園(散策)=レンタカー⇒城岱山展望台(見学)=レンタカー⇒新函館北斗駅

 16:17発→20:32着4時間15分(乗車4時間15分) 函館北斗から東京
 運賃現金優先:22,690円(乗車券11,560円 特別料金11,130円)

 ●新函館北斗{16:17発JR新幹線はやぶさ30号・東京行}⇒○木古内(16:30)⇒○新青森(17:22)⇒○盛岡(18:15)⇒○仙台(18:57)⇒○大宮(20:07)⇒○上野(20:27)⇒●東京(20:32)


≪遊歩記≫

 早朝、5時に起床し、5箇所有る「隠しの湯」の一つに一浴するため、6時にフロントで、「ドングリの湯」の鍵を貰い館外へ出。。外は朝靄がかかり、外気もヒンヤリとしていて実に気持ちが良い。昨日は昼間「トチニの湯」へ入ったが、この「ドングリの湯」は、どんなところであろうか。音標川にかかる吊り橋を渡り、昨日の「トチニの湯」とは、反対の道を進む。すると程なく「ドングリの湯」の建物が見えた。この「ドングリの湯」は、丁度、4畳半ぐらい有る木組みの湯船で、掛け流しの温泉が、満々と湯船に溢れかえっており、木々に囲まれ周囲の雰囲気も自然と一体化したようで、最高の雰囲気だ。泉質も迚も滑らかで肌に優しく活力が沸いてきそうだ。

 そんな「ドングリの湯」の露天風呂に入り、お食事処へ行く。夕食の時と同じ固執になった処で、朝食を採る。さすがは旅館だけにバイきんぐで無く、ひとり一人に用意された料理がテーブルに並べられている。それらに生ビールを飲みながら箸を付ける。食材も現地で栽培された野菜類をふんだんに使ってのお料理だ。これもまた、美味しく頂いた。そんな朝食を済ませ、部屋に戻り大沼湖のカヌー乗り場へ電話を掛けて、カヌーの予約をするが、既に午前中は、予約済みとなっており、午後2時から出ないとカヌー乗船は出来ないとのことだ。午後では帰りの時間のこともあるので、誠に残念ながら、カヌー体験はパスし、そしてとりあえずは、また、大沼湖へ行くこととした。

 色々な想い出を胸に刻み、銀婚湯のご主人と別れを告げ一路、レンタカーを大沼湖へ走らせた。その大沼湖では、まだ歩いていないコースを巡ることとし、そのコースを散策する。ここにも睡蓮が鬱蒼と水面を覆っており、その繁殖力の強さに驚いた。そんな散策を済ませ大沼この観光センターで、見所を聞くと「城岱山展望台」が、良いとのことなので、そこへ行くこととした。大沼湖から約、1時間位で、行けるとのこと。そこは牧場になっており、お土産には、各種乳製品が売っているとのことだ。

 空いている道路を快適に走って行く。この城岱山展望台は、標高600mぐらいある丘陵地だ。それだけに徐々に勾配を増した道路を左右curveを繰り返しながら、城岱山展望台へ到着した。展望台からは、函館市街が、一望千里とばかり見渡せる絶景地だ。そんな展望を楽しみお土産を買おうと建物に入ったが、大した製品も無いので、途中にあった別の牧場で、乳製品を買うこととした。そんな買い物を済ませ、16時17分の北海道新幹線はやぶさ30号に乗るため、新函館北斗駅へレンタカーを走らせた。駅前にあるニッサンレンタカーの営業所に行きレンタカーを戻し新函館北斗駅へ行く。この駅の周辺には、建物らしい物も余りなくただただ駅だけが、高く建っているという感じで、何だか奇妙な光景だ。そんな新函館北斗駅内で、夕食のお弁当と缶ビールを買い込み北海道新幹線のホームへ向かった。  (^_^)

 こうして7月4日から7日までの北の台地函館周辺の旅も様々な旅情を脳裏に残し、また、北海道へ訪れることを期して、幕を閉じたのだった。  (^^)

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               〜〜≪オシマイ≫〜〜