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En joy《ゆーぽぴあ・遊歩記》


  第30回遊歩
≪花の名山伊吹山と琵琶湖周辺&     小杉・水野ファームを訪ねて≫




 遊歩日:   2006年7月29日(土)〜30日(日)〜31日(月) 2泊3日
 遊歩先:   伊吹山(1377,3m)・水野ファーム・琵琶湖周辺散策
 天 候:   29日 雨後曇り 30日 晴れ 31日 晴れ
 参加者:   金川 勝夫 和美 他 yuupoler 12名


 7月29日(土)

 <行程>

 東京(7:03発・のぞみ103号)→新横浜(7:20)→名古屋(8:43着・9:00発)→関ヶ原(9:50着・10:00発)―バス→伊吹山山頂付近駐車場(10:50着〜11:55発)―徒歩→伊吹山山頂(12:35)→八合目(13:45)→七合目(14:10)→六合目(14:35)→五合目(4:55)→三合目ゴンドラ駅(15:40)→高滝旅館(16:10) 宿泊 (-.-)Zzz
 
≪遊歩記≫

 今回の遊歩の計画は、yuupolerのMさんが働いている小杉ファームへ行くことが第1の目的で、それに順次、山を選択することとなった。当初は加賀の白山へ行き、それから小杉ファームへ行こうと白山の登山計画を立てたのだが、白山自体が第一級の山だけに登山に要する時間が相当かかってしまいとても無理なので、琵琶湖近くの山で日本百名山にもなっている高山植物の宝庫「伊吹山」を選びMさんの働いている小杉ファームへ行くこととした。

 新幹線、のぞみ103号は東京駅を7時3分に発車し、新横浜駅にて4人が乗車しこれで東京からの参加者13名が一同勢揃いをして曇り空の下一路関ヶ原の駅に向かうこととした。参加者の中には、Eちゃんという小学6年生のお嬢さんがお母さんのKさんと共に夏休みのお楽しみとして同行しており、この《ゆーぽぴあ》では、唯一のお若い女性でもう一人の同じ小6のHちゃんと共に遊歩に参加をしており、最近では筑波山に二人元気で岩がゴロゴロとしている登山道を懸命に登り、下山後は温泉には入り超、ご機嫌であった。

 新幹線は夏休みだけに満席で、それぞれ乗客はこれからの旅路に思いを馳せ軽く談笑をしている。今年の7月は梅雨が長く一昨日の27日までは雨交じりの蒸し暑い日が続いており、29日の伊吹山登山の天候が心配されたが、コの分だとおそらく大丈夫であろうと安心して朝食の稲荷寿司をビールと共にパクつく。去る、5月の連休に大台ヶ原山と明日香路を訪ねて以来の関西への遊歩で、何とこれで二山も日本百名山を登ったことになるのだ。車窓の右手に富士山がどーんと姿を見せ、浜名湖を過ぎ大井川を渡り、少し微睡んだら何ともう名古屋駅に着くではないか。あっという間の2時間の新幹線の旅であった。名古屋駅で乗り換え関ヶ原駅に9時50分に到着した。

 この関ヶ原は、戦国時代徳川家と豊臣家が、東西に別れて天下分け目の大合戦が繰り広げられた古戦場だ。現在古戦場巡りのコースが幾つにも別れており、強者共の夢の跡をハイキングとして巡回できるようになっているようである。それではこの関ヶ原の天下分け目の大合戦をタイムスリップをして眺めて見よう。

        夏草や
         昔を語る
           古戦場

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       関ヶ原の戦い

安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)で戦われた戦い。関ヶ原の役における最大の決戦である。

豊臣秀吉死後の政権を巡って争われた徳川家康を中心とする派と石田三成を中心とする派
の間の抗争の決戦となり、この戦いで勝利した家康は政権を完全に掌握し、徳川氏の覇権
を確立した。しかし、この戦いによって生じた怨恨が、19世紀に起こった後の薩摩藩・長
州藩による江戸幕府倒幕運動に少なからず影響を与えている。

この戦いは日本全国のほとんどの大名を徳川派(東軍)と豊臣派(西軍)に二分したこと
と、戦い後に情勢が徳川氏に完全に傾いたことから『天下分け目の戦い』とも呼ばれてい
る。比喩的にこの言葉を用いる場合は後者の意味のほうが強い。 なお、東軍・西軍と呼ばれ始めたのは後世のことであり、豊臣の家臣同士の成敗合戦ということで、豊臣家自体表向きは静観の立場を取っていた。

よく誤解されることとして、西軍総大将は石田三成と思われやすいが、下記するとおり西
軍総大将は毛利輝元である。しかし、西軍が石田三成を中心とする派閥であったことには
変わりない。

背景

統一事業を達成した豊臣政権の内部においては、主に豊臣政権の成立に軍事面で寄与して
朝鮮出兵でも前線で戦った武断派と呼ばれるグループと、行政・経済兵站・宗教管理など
戦場以外の分野で活躍していた吏僚派の対立抗争が存在したが、秀吉本人や実弟の豊臣秀
長などの存在により表面化は避けられていた。

1591年の秀長の死、朝鮮出兵や撤退における対立により深刻な状況となっていた。秀吉は
晩年には五大老・五奉行の制度を整え、諸大名に実子の豊臣秀頼に対する臣従を誓わせて
1598年(慶長3年)8月に伏見城で死去する。ここで両派の対立は表面化し、また、五大老
の徳川家康は禁止されている大名同士の婚儀や加増を取り仕切るなど影響力を強め、同じ
く五大老の前田利家が誓書を交換するなどして対立は避けられていた。

翌年の閏3月に利家が死去すると、武断派の加藤清正、福島正則ら7名により、吏僚派の筆
頭である五奉行の石田三成に対する襲撃が実行された。三成は家康の屋敷に逃げ込み、家
康の仲介で事件の責任をとり、奉行職を解任され居城の佐和山城に蟄居となる。三成の失
脚や他の五大老の帰国により家康の対抗勢力はなくなり、家康は伏見城から大坂城へ入城
して政務を指揮する(ただし、7将襲撃の際、石田三成は家康邸に逃げ込んだとの記述は、
当時の信頼できる史料には見えないので注意が必要)。

この後も、家康は豊臣政権内の武断派と吏僚派の対立を利用して、権力奪取を試みていく。

発端

家康は前田利家の嫡男の前田利長を首謀者とする家康暗殺計画が存在したとして、容疑者
として五奉行の浅野長政や大野治長、土方雄久らに蟄居などの処分を下す。さらに前田利
長に対する謀反嫌疑を主張して豊臣軍による前田征伐を計画した。利長は実母の芳春院を
人質として下すなどして恭順的な態度を示し、前田家の地位は保全された。

1600年(慶長5)になると、家康は上杉氏の元家臣・藤田信吉の出奔を契機として会津の上杉景勝に対して軍備増強を非難し、上洛して釈明するよう警告を出す、景勝の重臣である直江兼続は家康の警告を撥ね付け、豊臣軍による上杉征伐が開始された。家康を総大将として、豊臣大名の多くがそれに従軍し上杉の領地である会津に向けて行軍を開始する。

失脚していた石田三成は大谷吉継、五奉行の増田長盛、毛利氏の使僧の安国寺恵瓊らと共
謀し、五大老の毛利輝元を擁立して西軍を組織し、諸大名の妻子を人質として挙兵する。

家康は伏見城に残した家臣の鳥居元忠の報告で下野国小山(栃木県)において、三成挙兵
を察知する。家康は直ちに行軍を止め、従う大名らに今後の動向を伺った。(→小山評定)
上杉討伐は中止され、真田昌幸や田丸忠昌らの大名は家康から離反することになるが、大
部分は引き続き家康に従うことを決め、軍は西へと上ることになった(上杉征伐は石田三
成を挙兵させるために行った策略だったという説もある。畿内に隙を見せ、三成の挙兵を
誘ったのである。鳥居元忠は家康側が三成を攻撃する口実を作るため、死を必至とする任
務についたのである)。

このことから、東軍は豊臣政権下における「正規軍」、西軍は「反乱軍」という見方もで
きる。少なくとも西軍の軍事行動を秀頼ら政権中枢は承認しておらず(黙認はしている)、
西軍の正当性は低い。東軍=徳川、西軍=豊臣と言うほど単純ではないのである。

前哨

7月2日、三成は東軍に加わる予定の大谷吉継に「家康打倒」を打ち明け、吉継を己の陣営
に引き込んだ(7月11日)。7月12日、佐和山城で三成、吉継、増田長盛、安国寺恵瓊と秘
密会議を凝らし、毛利輝元への西軍総大将就任要請等を決定した。同日、愛知川に東軍に
参加予定の諸将を食い止める関所が設けられ、長宗我部盛親、鍋島勝茂らが足止めを食ら
い、結果的に西軍への参加を余儀なくされた。

7月17日、ついに三成は挙兵宣言を発し、翌日、家康の家臣である鳥居元忠が預かる伏見城に開城要求を勧告したが元忠は拒絶。その翌日の7月19日から攻城戦が行われる。伏見城宇喜多秀家、島津義弘らにより攻められ、元忠らの奮戦むなしく8月1日に陥落した。その後、丹後国の田辺城、伊勢国の安濃津城、松坂城などを攻略し、8月までには陥落させる。三成自身は美濃方面を抑えるため、8月10日に佐和山城から西軍の拠点をなす大垣城に入った。

一方東軍は、江戸に留まる家康を除き東海道を西進、福島正則、池田輝政の先発組が、8月22日、河田(現一宮市)より木曽川を渡り、米野村(現笠松町)付近で西軍と激突(河田木曽川渡河の戦い・米野の戦い)。東軍はさらに進軍し、翌日、織田秀信(三法師)が城主の岐阜城を落とした。家康は江戸で諸将に書状をしたためていた。藤堂高虎、黒田長政らを使い、豊臣恩顧の大名の東軍繋ぎ止めと西軍切り崩しを図っていた。岐阜城が落ちたのを知ると、家康は重い腰を上げ約3万の兵とともに東海道を大坂方面を目指した。

家康の三男徳川秀忠は徳川軍の主力約3万8千を率い、中山道を進んだが、途中、真田昌幸
の籠もる上田城を攻略し損ねた上、足止めを食らい関ヶ原の戦いには間に合わず、関ヶ原
合戦後に家康への拝謁が3日許されない罰を受ける。が、徳川主力部隊を家康自身が率いなかった、天下分け目・決戦直前に、秀忠が独断で小大名を攻める必要性が見当たらず真田氏が知略に長けていたとするは、判官贔屓であって、徳川主力部隊が小大名の攻略に時間を取られ過ぎていることは、不自然である。また秀忠遅参の責任を問われた配下の大胡侯・牧野康成は、禁固刑となったが、数年後から相次ぐ恩命を受けている。
これらは、老獪な家康が自軍・主力部隊の温存を狙って、関ヶ原合戦に参戦させなかった
とする有力説の根拠となっている。(当初秀忠が家康から受けた命令が信州平定=上田城
攻略であり、岐阜城落城の報を受けた家康の美濃への転進命令が出されたのが8月29日しかし豪雨による利根川の氾濫のため届いたのが9月9日、つまり秀忠が遅参したのは不可抗力だったので重い罪に問われなかったという説もある)
一方家康は決戦前夜の9月14日、ようやく赤坂の岡山に設営した本陣に入ることになる。

三成は家臣である島勝猛(左近)の進言により、赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を繰り出し、
東軍の一部を誘い出すと、これを散々に打ち破った。これを杭瀬川の戦いという。

大垣城に篭っていた西軍首脳の石田三成他の関ヶ原転進については、「大垣を無視して佐
和山城を陥とし、大阪へ向かう」という流言を流した家康に三成がまんまと釣り出された
という説が一般に流布しているが、これには疑問な点も多い。 一つは、もし家康がこの様な流言を流したのであれば、部隊が最も脆弱になる行軍中を襲撃するはずであり、家康がこの様な有利な体制からの攻撃をしかけなかったのは不自然であるという事。 また、三成は関ヶ原の合戦前に豊臣秀頼の出陣を再三大阪に求めており、これは一枚岩とは言えない西軍の士気を引き締める為であったと思われるが、家康が大阪へ向かうのなら三成にとっては好都合であり、大阪城付近での後詰決戦を行えば良いはずであるという点である。

これに対して、付近の河川の氾濫により度々水害に見舞われていた大垣城を家康が水攻め
にし、その為に西軍の首脳と、既に関ヶ原付近に布陣していた毛利、小早川等との連絡が
断たれる事を恐れた為ではないかという説がある。 この説は、関ヶ原、松尾山に施されていた築城工事が新城と言えるほど大規模なものであった事を前提として、三成の戦略を以下のように推定する。

笹尾山陣地跡関ヶ原西方の松尾山−笹尾山ラインに野戦築城を施し東軍の進撃を阻止する。
松尾山の城砦には西軍主力となる毛利輝元以下3万を配置する。
東軍が大阪へ向かう為に大垣城を無視して関ヶ原に進撃すれば、大垣城の石田三成・宇喜
多秀家、南宮山の毛利らが東軍を追撃し1のラインで東西から挟撃する。
東軍が大垣城を攻めれば、1のラインに布陣する大谷吉継、毛利輝元らが大垣城を攻めている東軍を西から攻撃し、大垣城の城方と挟撃する。

つまり、この戦略プランによればどちらに転んでも西軍は東軍を挟撃する事が出来る事に
なる。 しかし、関ヶ原西方の松尾山−笹尾山ラインの要である松尾山城砦に去就が明らかとは言えない小早川秀秋が、西軍の城番を半ば追い出す形で居座ってしまった事、また、
大垣城が水攻めに脆弱であり、水攻めが行われれば後詰決戦で城方が打って出る事が出来
なくなってしまうことなどから、この戦略は破綻した。

その為、三成らは関ヶ原へ潜行したのではないかと推測するのが、この説の要旨である。

関ヶ原の戦い後の石高

     主な東西の大名(石高の隣、○印は関ヶ原に布陣した大名、●は寝返った大名)

東軍武将石高(万石)      西軍武将石高(万石)

徳川家康   255   ○     毛利輝元   120.5
前田利長   83         上杉景勝    120
伊達政宗   58         宇喜多秀家   57    ○
加藤清正   24.5        島津義弘    56    ○
福島正則   20   ○     小早川秀秋   35.7   ●
細川忠興   18   ○     石田三成    19.4   ○
浅野幸長   16   ○     小西行長    20    ○
池田輝政   15.2  ○     増田長盛    20
黒田長政   18   ○     小川祐忠     7    ●
加藤嘉明   10   ○     大谷吉継     5    ○
田中吉政   10   ○     脇坂安治     3.3   ●
藤堂高虎    8   ○     安国寺恵瓊    6    ○
最上義光   24         佐竹義宣    54.4
山内一豊    6.9  ○     織田秀信    13.5
蜂須賀至鎮  17.7        長宗我部盛親  22    ○
本多忠勝   10   ○     朽木元綱     1    ●
寺沢広高    8   ○     赤座直保     2    ●
生駒一正   15   ○     吉川広家    14.2   ●
井伊直政   12   ○     長束正家     5
松平忠吉   10   ○     毛利秀元    20    ○
筒井定次   20   ○     戸田勝成     1    ○


布陣関ヶ原布陣図(慶長5年9月15日午前8時前)

9月15日、東西両軍は関ヶ原の地に集結した。旧日本陸軍の参謀本部が編纂した日本戦史関ヶ原の役によれば、東軍7万4千、西軍8万2千、合わせて15万を超える兵力が狭い関ヶ原の盆地に集結したことになる。

明治の世となって軍事顧問として来日したドイツのクレメンス・メッケル少佐は関ヶ原に
おける両軍の布陣図をみて、即座に西軍の勝利を断言したという。西軍方は三成の拠る
「笹尾山」−宇喜多秀家の拠る「天満山」−小早川秀秋の拠る「松尾山」−そして毛利秀
元が布陣する「南宮山」のラインで東軍を囲む鶴翼の陣を敷き、勝利は目の前と思えた。

関ヶ原は早朝から深い霧が立ち込め、隣の軍の様子も侭ならない。そんな中、家康から先
鋒の約束を取り付けた福島正則は、じっと開戦の火蓋を切る機会を伺っていた。

開戦

濃霧の中で両軍は2時間ほど対峙し続けていた。
やがて、霧も薄くなってきた頃、福島隊の横を松平忠吉の小隊と井伊直政が通り抜けよう
としていた。家康から先鋒を任されたはずの福島正則が呼び止めて詰問するが、「物見」
と称して福島隊の前方へ張り出した。忠吉の小隊は突然、西軍の主力である宇喜多隊に向
けて発砲、ここに関ヶ原の戦いの火蓋が切って落とされた。

対する宇喜多隊も直ちに応射、関ヶ原はたちまちのうちに激戦の様をていした。福島隊6千と宇喜多隊1万7千は押しつ押されつ、両者一歩も譲らず、黒田長政隊5千400、細川忠興隊5千100などは一斉に三成の部隊めがけて襲い掛かる。三成隊も配下の島勝猛や蒲生郷舎らが奮戦、襲い掛かる敵を撃退してゆく。激戦をこの地で体験した太田牛一は次のように記している。

「敵味方押し合い、鉄砲放ち矢さけびの声、天を轟かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中
も暗夜となり、敵も味方も入り合い、しころ(錣)を傾け、干戈を抜き持ち、おつつまく
りつ攻め戦う−後略−」

三成は、開戦から2時間を過ぎたころ、まだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げた。さらに島津隊に応援要請の使いをだす。西軍は総兵力のうち、戦闘を行っている兵力は3万5千ほどながら、戦局をやや優位に運んでいた。ここで松尾山の小早川隊と南宮山の毛利隊が東軍の側面と背後を衝けば西軍の勝利は確定的となるはずであった。しかし、島津は応援を拒否。また毛利秀元は、吉川広家に道を阻まれ、参戦できずにいた。吉川広家は毛利家の所領安堵を条件として、家康側に内応していた。

小早川秀秋の寝返り

正午過ぎ、家康は、内応を約していた小早川秀秋隊が動かないことに業を煮やし、松尾山
に向かって威嚇射撃を加えるように命じる。迷いに迷っていた小早川秀秋は、この家康の
督促に意を決し松尾山を降りる。但しこの点に関しては、松尾山が比高300mに達する山であり、戦闘のさなかに火縄銃の音が聞こえるのか、また、大谷隊と藤堂隊が激戦を繰り広げていた松尾山山麓に近付くのは容易ではないといった点から疑問も呈されている。

小早川秀秋隊は、大谷吉継隊右翼を攻撃する。また、これに呼応してそれまで模様眺めを
していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱らの西軍諸隊も東軍に寝返る。これに
より戦局は一変する。

西軍は有利な鶴翼の陣をひいていたものの、鶴翼の「翼」の部分に相当する諸将の多くが
裏切りや傍観をしていたことになる。

西軍敗走

西軍総崩れとなるなか、島津義弘隊が一斉に鉄砲を放ち、家康本陣側を通り抜け撤退する
という、「前進撤退」を開始。この行動に福島隊ですら腰が引いたとされる。また、追撃
した部隊のうち井伊直政と松平忠吉は狙撃され負傷し、本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ
落馬した。島津隊は島津豊久や阿多盛惇(長寿院盛惇)を犠牲にしわずか80前後の手勢と
なりながらも撤退に成功した。盛惇は、義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、
義弘の身代わりとなって「兵庫頭、武運尽きて今より腹を掻き切る」と叫んで切腹したと
言われている。他の西軍部隊は壊滅あるいは逃走した。

地方への波及

この戦いは美濃関ヶ原という限定した地域でのみ繰り広げられたわけではない。
この前後において東北・北陸・畿内・九州と、全国各地で東軍支持の大名と西軍支持の大
名が各地で交戦しており、いわば「代理戦争」が繰り広げられた。

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 フー、こんな戦国時代の歴史的変遷に思いを巡らせ関ヶ原の駅を跡にして、伊吹山を目指してバスに乗り込む。乗客はほとんどが中高年で、場所柄関西の方がやはり、多いようだ。それにしても気になるのは、伊吹山山頂にいやな黒い雲が出ており、今にも大粒の雨が降ってきそうないやな予感がする。今日雨に降られたのでは、折角の花の名山、伊吹山の色々な花を見ながらの登山が、だいなしになってしまうではないか。全く最近の遊歩は実に雨に祟られている。晴れ男の私も最近は神通力が失せてきたようだ。 (^^;)

 それでは、バスが山頂の駐車場に着くまで、少し時間があるから予備知識としてこの伊吹山について少し話してみよう。

伊吹山(いぶきやま)は標高1377メートル、岐阜県と滋賀県の県境にある山である。伊吹
山地の主峰。琵琶湖国定公園の一部である。古代には三関のひとつである不破の関が置か
れ、古来より歌枕として知られる。不破の関は『源氏物語』「関屋」の巻にも登場する。

 中部地方および近畿地方の両方から近く、現在は観光地として親しまれる。日本百名山のひとつでもある。春から秋にかけてはハイキング、登山客で賑わう。また伊吹山スキー場がおかれ、冬にはスキーも可能である。
山麓から山頂にかけて、さまざまな野草が自生する。山頂付近にはいわゆるお花畑がある。
イブキレイジンソウ、イブキアザミ、コイブキアザミ、イブキジャコウソウといった「イ
ブキ」の名を冠する植物も自生する。
1927年2月14日に観測された11.82mの積雪は世界山岳気象観測史上1位とされる積雪の最深記録である。

交通

 1965年に岐阜県関ヶ原町から山頂近くまでの「伊吹山ドライブウェイ」が開通し、名阪近鉄バスの定期登山バスが休日や夏休みなどに関ヶ原駅・大垣駅から運転されている。また1996年からは大阪駅桜橋口、2003年からは名古屋駅からの伊吹山山頂行きのハイウェイバスが運転されている。伊吹山ドライブウェイは近畿日本鉄道が所有し、名阪近鉄バスが運営を行ってきたが、2006年にオーストラリアの投資銀行であるマッコーリー銀行の子会社である日本自動車道に譲渡し、近鉄および名阪近鉄バスは伊吹山ドライブウェイの運営から撤退した。なお、名阪近鉄バスの登山バスはこれまで通り運転される。

ヤマトタケル東征の帰途に伊吹山の神を倒そうとするが、それが彼の死を招いた。藤原実方後拾遺和歌集および小倉百人一首に収録された和歌は伊吹山を詠んだものとされている。

        かくとだに 
          えやはいぶきの 
        さしも草 
          さしも知らじな 
          燃ゆる思ひを

 バスは伊吹山ドライブウェイの九十九折りをウネウネと曲ながら登って行く。バスも急傾斜だけにかなり苦しそうにエンジン音を大きく立てながら登って行く。何とジャアーン外を見ると、大粒の雨がとうとう降って来たではないか。ウーン、山頂の駐車場に着くまで止んでくれると良いのだが、こればっかりは天の神様のご機嫌次第だから何とも言えない。車内はクーラーが効いていないのと小刻みに急な曲がったりするので、気持ちが悪くなり、後ろの乗客などは乗物酔いをしたのか苦しそうである。窓もバスが古いためか開かないので暑さが増すばかりとなり、皆さん、もう、フーフーー言っている。

 そんなバスは白く立ちこめるガスの中、ようやく山頂直下の駐車場へ到着をした。私も後、30分もこのバスに揺られていたら気持ちが悪くなり真っ青になっていたかも知れないところだが、きわどいところで駐車場に到着をしてヤレヤレだ。バスから外に出ると大粒の雨が間断なく降っている。それで一同は駐車場の傍の食堂兼お土産屋に飛び込むと中は、もう、大勢の観光客で大混雑をしている。

 先ずはここで昼食を採り、その間、雨の止むのを期待し何時でも出発できるように雨具を着てゆっくりと休むこととした。私はSさんと共に山菜うどんを注文し食べることとした。そして各自思い思いの昼食を採り外に出てみると先ほどよりは雨は小降りになっているので、出発することとした。今回は登山というよりも下山というハイキングで登りはここから山頂までの約、30分のなだらかな登りだけで後は下るコースとなる。

 各、4班に分かれ雨の中伊吹山遊歩のスタート開始だ。兎に角車で簡単に山頂直下まで来られるのと夏休みということで大勢の人で賑わいを見せている。途中にはイブキレイジンソウ、イブキアザミ、コイブキアザミ、イブキジャコウソウといった伊吹山の固有の高山植物が雨に打たれて可憐に咲いている。そんな花の一つを手に取りKさんがしっかりと心にその感触を刻むように触れている。

 まさに花の名山伊吹山ということに違わず見事なお花畑が続いている。これが晴れていたら花もしっかりと見えてさぞかし綺麗であろう。反面今度は真夏の太陽が照りつけその暑さでたまらなくなるから、どちらがよいのか判断に迷うところだ。そんなお花畑を見ながら歩いているともう、山頂に着いてしまった。山頂の社に参拝をして、これから下りコースへと歩を進める。下りコースはかなり大きな石や岩が点在していて、視障者泣かせの下りで苦労しながら一歩、一歩歩いて行く。幸にも雨はほとんど小降りになり余り気にならない程度となる。

 それでもゆっくりながらも八合目、七合目、六合目と何のトラブルもナシに順調に降りることが出来た。当初の予定はゴンドラを使わずに麓まで歩き通すことになっていたが、下山経過を見て三合目からゴンドラを使い降りることとした。五合目で大休止を採り、ここで皆さんの笑顔を写真に撮り山頂を見ると白くガスがかかっているが、雨は止んだので雨具の上を脱いでさっぱりとしてまた、行軍開始となる。

       草原に
        群れしゆうすげ
          匂い嗅ぐ

 五合目からは大草原という感じで雨に濡れた緑が実に鮮やかだ。四合目と更に歩を進めてゆくと伊吹山のシンボルであるニッコウキスゲヲ小振りにしたような「ゆうすげ」の自生している群落に出た。匂いを嗅いでみると微かに甘い匂いがして、いっそうその可憐なる高原の花の持つ気品を感じた。夜になるとこの「ゆうすげ」にライトアップをして暗夜に浮き出して見せるとのことであるが、私は果たして、見に来られるかは甚だ疑問である。何となればどうしてもお酒が入るともう、面倒くさくなりまた、ゴンドラに乗ってここまで来るという努力は全くしないということは、分かり切っているからだ。 (;_;)

 ホッ、やっとゴンドラの駅三合目に到着をした。ここからゴンドラに乗り暫しの空中散歩を楽しんでから麓のゴンドラ駅に着き、更に10分ぐらい歩きようやく今夜のお宿高滝旅館に到着をした。玄関脇にて汚れた登山靴、雨具などを洗い男性は1階の部屋、女性は2階の部屋に別れての宿泊である。幸にも泊まり客は私達《ゆーぽぴあ》のご一行様だけのようで、気がねなしに泊まれるからこれも嬉しいことだ。

 部屋に落ち着き早速定番の到着ご機嫌タイムとなり、ビール、ワイン、日本酒、焼酎のアルコール諸君が「ネエー、朝から待っていたのよ。ウーーン、早く飲んでね。」と座卓で勢揃いをしているではないか。「よしよし今飲んであげるよ。」とこれらアルコールちゃんに声をかけ一同先ずはビールでの乾杯となる。それに何と8月29日の今日は和美の何十回目の誕生日だ。それで家ではバースデーのお祝いなどして上げられないので、これ幸とばかりに、そのことを皆さんに話をして、Happy Birthdayとばかりに祝福して貰った。

 良い気分になり談笑をしていたら、やがて夕食タイムとなり、一同食事処に行きT.Sさんの乾杯の音頭で夕食の宴となる。それにしてもこの伊吹山は本当に高山植物の宝庫と言うだけにその種類も多く私達の目を和ませてくれね。そんな今日の話をしたり、来年は沖縄へ行こうとかと楽しい話が飛び交う。民宿だけに料理はそんなに豪勢ではないが、素人作りの素朴な味がする一品が並び特にご飯がとてもおいしかった。

 そんな夕食の宴会も終わり、私は部屋に帰って何だかすぐに寝てしまったとのことだ。その辺りがどうも記憶から欠如しているが、最近は晩酌をすると直ぐに寝てしまうから普段よりもアルコールの量が多かったので、たちまち睡魔に襲われたのであろう。翌朝、和美に聞いてみると夕食後、女性軍と男性のAさん達が「ゆうすげ」のライトアップショーに行って来たとのことだ。そのライトに映し出された「ゆうすげ」の幻想的な姿と遠く琵琶湖が白く見える光景はそれは見事で、それと生ビールとスイカも実においしかった。そんなことを直ぐに寝てしまった私をうらやましがらせるようなことを口をとんがらせて話をしているではないか。マア、昨日は和美のBirthdayだからここは「良かったね。」と素直に聞いてやろう。 (^_^)

 
7月30日(日)

 〈行程〉

 高滝旅館(8:10発)ーレンタカー→長浜の商店街散策(8:40〜9:40)→安土城駐車場(10:25〜11:30)→五個荘近江商人屋敷めぐり→観峯館→水野&小杉ファーム(16:20着)ー夏野菜収穫作業―→湖東温泉(18:20)→水野&小杉ファームバーベキュー(19:10〜20:55)→カラオケタイム(21:30〜23:20) (-.-)Zzz

 ≪遊歩記≫

 早朝、5時に起床しまだ皆さんが寝ているので、そっと部屋を抜け出し散歩に行くこととした。今日はぐっすりと寝たので目覚めも快調で朝の清々しい精気が漂う中を静寂なる町を背筋を伸ばして歩く。神々しい旭が射し今日はお天気も良さそうで、Mさんの案内による近江路の観光が楽しみだ。最近は右踵骨のアキレス腱付着部を痛めてから早朝マラソンは中止をしているが、こんな気持ちの良い朝はやはり、走ってみたいものだ。しかし、そこをじっと我慢をして大股での散歩をする。

 町といっても車道沿いに家屋があるだけで、大半が畑や緑地帯になっている。旅館から20分も歩くと立派な神社があり、そこで4、5名の方が体操をしていた。すると皆さんが「お早うございます。」と私に挨拶をするではないか。私も慌てて「お早うございます。」と挨拶をを返す。そんな知らぬ他人に気軽に挨拶をする待ち人の素朴な実直さを感じ実に嬉しい気持ちになった。そして1時間ばかり散歩をして旅館に戻るとほどなく朝食となり、一同食事処で朝食を済ませると何ともう、Mさんがマイクロバス2台で外で待っているではないか。先ずはMさんと5月の大台ヶ原山以来の再会に握手をし挨拶をする。

 そして私達は身支度を済ませ旅館の玄関先にて、Mさんの友人である「蕨餅」を製造販売をしているHさん、それと小杉農園の渉外部チーフのKさん、このお二人にはマイクロバスの運転をして頂くことになっており、それから私達13人とそれぞれ自己紹介を済ませ、先ずは近江路の観光は、長浜へ行くこととした。2台のマイクロバスに女性軍と男性群と別れ空いている車道を走り、やがて景色の良い琵琶湖々畔をHさんの観光ガイドを聞きながら走る。

 30分も走ると長浜に着いたが、残念ながらまだ時間が早いために長浜の商店街は開店しておらず、店が閉まっている古式ゆかしい情緒ある商店街を散策することとした。この長浜は安土桃山時代の長浜城の城下町である。長浜城)は近江国坂田郡長浜(滋賀県長浜市)にあった城。羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の築城した城として有名である。現在は城址としてわずかに石垣を残すだけで、昔の面影はないとのことだ。そんな、ときたま風鈴が鳴る格子戸の商店の佇まいを見た後、甘味処にてコーヒ等を飲み次の目的地安土城へ向かった。

 再び琵琶湖湖畔を走りやがて安土城の駐車場に到着した。真夏の陽射しがジリジリと照りつけ蝉がうるさいほど鳴いており、顔から汗が滴り落ちまさに夏本番という感じだ。それでは見学をする前にこの安土城と織田信長についてその歴史を述べてみよう。

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        安土城

 安土城は、近江国蒲生郡(滋賀県蒲生郡安土町)にあった城。平山城。
国指定特別史跡。1576年(天正4)織田信長が近江国琵琶湖湖岸に造成を始め、1582年(天正10)の信長横死後まもなくして廃城となった。大型天守を持つ初めての城。現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧しているルイス・フロイスなどの記録によってその豪華絢爛さをうかがい知ることができる。またここで培われた築城技術が、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。

概要

信長はこの城を丹羽長秀を総普請奉行に据え、足かけ7年の歳月をかけ完成させた。築城の目的は岐阜城よりも京に近いため利便性があり、北陸街道から京への要衝にあり信玄亡き後信長の最大の脅威であった上杉謙信の上洛を阻止できる立地条件にある。その規模の大きさ壮麗さは太田牛一や宣教師の記述で明らかなように天下布武、信長の天下統一事業を象徴する城郭であり、山頂の壮麗な天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。

1582年(天正10年)本能寺の変の時は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、本能寺
の変による信長の横死を経て山崎の戦いの後、賢秀・蒲生氏郷父子は本拠地日野城に信長
の妻子などを安土から移動させ退去。その後、天主とその周辺建物(主に本丸)は焼失した。
原因には二つの説がある。一つ目が織田信雄軍が誤って焼き払ったという説である。これ
は当時の宣教師の記述によるもので、その記述には織田信雄が暗愚だったので放火したと
ある。二つ目は明智光秀軍が敗走の際に放火したとの説である。以降もしばらく織田氏の
居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議ののち入城したりと、主に二の丸を中心に機能し
ていた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡城築城のため、1585年をもって廃城されたと
伝わる。

現在は干拓などによって湖岸からやや離れ、小高い山の全体に城郭遺構が分布しており、
当時の建築としては城山の中腹に所在するョ見寺の境内に仁王門と三重塔が残っている。
また二の丸には信長の霊廟が置かれている。滋賀県は1987年から20年計画で安土城の発掘
調査を行っており、南山麓から本丸へ続く大手道、通路に接して築造された伝羽柴秀吉邸
や伝前田利家邸、天皇行幸を目的に建設したとみられる本丸御殿などの当時の状況が明ら
かとなりつつあり、併せて石段・石垣が修復工事されている。

安土城は早期に総石垣で普請された近世城郭であり、以後の城郭建築に影響を与える存在
だった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団、いわゆる「穴太衆」はその
後全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった。ただし安土
城に残る当時の石垣の積み方は場所により様々であり、特定の「穴太積み」なる技法の存
在を想定するのは難しい。

天主について安土山信長の館(安土城復元天守)

天主のその具体的な姿については長年研究が続けられており、多数の研究者から復元案の
発表が相次いでいる。基本的には同時代人の記述にかかる「信長公記」或いはその善本で
ある「安土日記」に基づき、イエズス会宣教師の記述を加味するところまでは一致してい
るが、解釈をめぐっては各人意見が分かれており未だ決着を見ない。その姿は五層七重で
最上層は金色、下層は朱色の八角形をしており、内部は黒漆塗り、そして華麗な障壁画で
飾られていたとされる。

 加賀藩大工に伝わる「天守指図」を安土城の天主の設計図とし、内部は階層を貫く吹き抜けで、地階に仏塔があったなどとするむきもあるが、根拠としては問題である。そして決め手のひとつとなるべき、信長が権力を誇示するために狩野永徳に安土城を描かせた金箔の屏風が、ヨーロッパに送られ教皇庁に保管されているとの記録に基づき捜索も行われたが未だに発見されていない。
1992年、セビリア万国博覧会に出品物として安土城の天主の上層二階を再現した。ここで
展示された天主は現在安土町の博物館「信長の館」に保存されている。

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          織田 信長

 尾張国の戦国大名である織田信秀の三男として、天文3年(1534年)5月12日、尾張勝幡城(那古野城説もある)生まれる。この時点ですでに庶兄に織田信広がいたが、母・土田父の死後、同母弟の織田信勝(信行)との家督争いに勝利して織田氏の当主となる。さらに周辺の敵対勢力である今川氏や斎藤氏との戦いに勝利し、足利義昭を奉じて上洛を果たす。その後、敵対した義昭により武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本願寺などから成る反信長包囲網が結成されるも、これを破り、以後は天下布武を推し進め、楽市楽座、検地などの革新的な政策を採用するが、本能寺の変で家臣の明智光秀の謀反により自害した。

 既存の権威や勢力(朝廷・仏教など)の否定、家柄門地によらない人材登用、新兵器である火縄銃などの活用などを通して、戦国時代を終結に導いたが、延暦寺焼き討ちなどの苛烈な政策は周囲から恐れられ、魔王(第六天魔王)とも呼ばれた。

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        蝉時雨
         安土城址に
           立ち偲ぶ

 真夏の太陽がジリジリと照りつける中をこれから安土城址の見学である。見上げるとかなり上まで延々と石で刻まれた階段が続いている。まるでこれはもう、立派な山である。そんなこの階段の石組みも昔のものだそうで、歩いていても遠く、安土桃山時代の様子が蘇り、私は安土城へ登城する武士になったような気がしてきた。イヤー、それにしても暑い。汗が噴き出てくる。Tさんと二人トップを切って登って行くが、階段の幅も広く今回の伊吹山は、下山だけだったのでこの階段の登りは、伊吹山よりもよりハードな歩きだ。途中の石垣も昔のママだそうで、その歴史の重みというか、その変遷に思いを込め石垣を触り、その感触に戦国の昔に改めて思いを巡らす。

 この安土城を復元したらどんなに素晴らしい城であろうか。しかし、その費やす金額は、膨大なものになることは間違いないであろう。戦国のこの時代における織田信長という人物は、とてつもない能力に長けた武士であり、当時に於いては、絶大なる権力者で威風堂々と民衆や天下を睥睨していたのであろう。そんな信長の霊廟に手を合わせ更に歩を進め最上部に向かう。最上部の少し脇の崖の所から琵琶湖の一部が望まれる。そんな安土城址を見学し、階段を下りて行くのだが、これが不揃いになっており降りるのに苦労をして駐車場へと戻り、次の観光地へと向かう。

 今度は近江商人の屋敷巡りで、現在四軒ほどが一般公開をしている。それではこの近江商人について少し話をしてみよう。

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        近江商人

 近江商人(おうみしょうにん)は、主に鎌倉時代から江戸時代にかけて活動した近江国
(滋賀県)出身の商人。

 愛知郡、蒲生郡(近江八幡市・日野町)、神崎郡(五箇荘)などの出身者が多数。京都、
美濃国、伊勢国、若狭国などで行商を行う。鎖国成立後は京都、大坂、江戸の三都へ進出
し、大名貸や醸造業なども行う。蝦夷地(北海道)で場所請負人となるものもいた。明治
には西川産業など企業として発展。 今日の大企業の中にも「近江商人」の系譜を引くものも多い。

 その商才を江戸っ子から妬まれ、伊勢商人とともに「近江泥棒伊勢乞食」と蔑まれたが、
その実は、世界初の複式簿記考案(中井源左衛門・日野商人)や、契約ホテルのはしりとも
言える「大当番仲間」制度の創設(日野商人)など、徹底した合理化による流通革命だっ
たと評価されている。
 近江商人の家訓として「買い手良し、世間良し、売り手良し」の「三方良し」が知られる。そして、多くの起業家を輩出した。

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 丁度時間的にもお昼時間になっていたので、Mさん立ちが予め用意をしてくれた「オニギリ」を広誓寺の境内でシートを敷いて頂くことにした。この「オニギリ」が実にうまい。ご飯がとてもおいしく何でも農園の奥さんが今日愛情込めて結んでくれたとか。吹く風がとてもさわやかでこうして「オニギリ」を食べて、のんびりしていると眠気を催し瞼が閉じてきそうだ。この寺の本堂は実に立派な建物で、堀には大きな鯉が悠々と泳いでいる。そんな町自体が静寂でゆったりとした佇まいだ。

 しっかりと昼食を採り、これから近江商人の屋敷の見学へと向かう。最初は外村宇兵衛邸の見学だ。

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          外村宇兵衛邸

外村宇兵衛邸は、近江商人として活躍していた外村与左衛門浄秋(6代)の末子嘉久が、
享和2年(1802)に分家して宇兵衛家を興したものです。文化10年(1813)に与左衛門との
共同事業から、独立して商いを始めたのが商家としての最初です。努力の末に東京・横浜・
京都ネ富井などに支店を有し呉服類の販売を中心に商圏を広げました。明治時代には全国長者番付に名を連ねるなど近江を代表する豪商としての地位を築きました。屋敷は家業の隆盛とともに数次にわたる新増築が重ねられ、主屋・書院・大蔵・米蔵・雑蔵・納屋・大工小屋など十数棟におよぶ建物が建てられていました。また、庭は作庭当時、神崎郡内一番の庭と評される程でした。

 しかし、残念ながら建物や庭の半分程が取壊され、往時の姿を損じていました。そこで、茶室・四阿の復元、主屋.庭の改修や整備を行い、明治期の姿に修復して、てんびんの里、伝統家屋博物館としたものです。五個荘商人の本家の生活文化に触れることが出来ます。

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 この外村家の家訓が実に面白く「嫁の心構え」という箇条書きの文章があり、男性を立てる女性の立場が事細かく書いてあり、さだまさしの「関白選言」ではないが、男性には実に涙が出るような嬉しい家訓だ。

 二階に上がると美空ひばりなどの芸能人の顔を描いた団扇や彩り鮮やかな変わった団扇が展示されている。吹く風がとても心地よく昼寝でもしたくなるそんな本当に時間が止まったようなのんびりとした空間だ。外村宇兵衛邸を見学したら、今度は隣家の外村繁邸の見学である。

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            外村繁邸


作家 外村繁

4代目外村宇兵衛の妹みわに婿養子吉太郎を迎えて分家したの外村茂家の始まりです。
吉太郎は宇兵衛本家の京都店勤めから、明治"年(1剪7)に独立、東京日本橋と高田馬場に呉服木綿問屋を開き活躍しました。外村繁は三男として生まれましたが、長兄は本家の養子、
二男は病没のため繁るが跡取りとなりました。

 当屋敷も五個荘商人の本宅として、家族や番頭などが生活した大きな主屋や蔵があり、また書院や広い庭は来客の接待場として利用されていました。
明治35年(1902)に外村繁(本名茂)はこの家の二男として生まれ、東京帝国大学経済学部に学び、大正14年(1925)の在学中には梶井基次郎・中谷孝雄らと同人雑誌「青空」を創刊し、文学を志しました。父吉太郎の死後、商人としてー時家業を継ぎましたが、昭和8年(1933)弟に家業を託し文学の道に。昭和13年(1938)住まいを東京阿佐ヶ谷に移し井伏鱒二・青柳瑞穂・上林暁・太宰治などの阿佐ヶ谷の文士仲間とともに精力的に作家活動をおこな
\ました。

 昭和10年(1935)「草筏」が第一回芥川賞候補となり、昭和14年(1939)池谷賞を受賞、昭和31年(1956)には「筏」が野間文学賞を受賞しました。その他数多くの作品を残し昭和36年(1961)、59歳で永眠しました。近江商人の根源を赤裸々に探った私小説作家外村繁は近年特に高い評価を受けています。

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 後、近江商人屋敷は、中江準五郎邸、藤井彦四郎邸があるが、時間の関係でカットし、
喉が渇いたので、近くの茶店でアイスコーヒーを飲み一休みをしてから今度は観峯館(観峰館)へと向かうこととした。

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            観峰館の名の由来と沿革

 「観峰館」の名称は、日本習字創設者原田観峰(本名孝太郎)の雅号「観峰」からつけられました。原田観峰は「正しい美しい愛の習字」を提唱して、昭和28年習字の通信教育事業を起こし、以来、全国規模で書道教育を展開、昭和60年に「財団法人日本習字教育財団」として
公益法人化されました。

 観峰館は、原田観峰が40年の歳月をかけて収集した書道資料をはじめ、数々の文化教育資料を広く展示公開するため、平成7年10月に滋賀県東近江市(旧五個荘町)に開館したものです。

オルゴール

観峰館には19世紀末から20世紀初めのアンティーク・オルゴールがあります。これは金属製の円盤を使用するオルゴールで、「ディスク・オルゴール」と呼ばれています。その澄んだ美しい音色をお楽しことが出来ます。

 その他、数多くの中国の珍しい骨董品の展示がされており、特に石碑に千字文という中国の漢字を刻んだレリーフは実に見事です。

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 館内をユーモアたっぷりな貫禄のある係りの方に懇切丁寧に時間をかけて案内をして貰う。何と珍しい中国の骨董品が数多くあり、それらを一つ、一つ説明をしてくれるので、飲み込みの悪い私でも分かるような気がする。特に最後に珍しい金属製の円板で作られているオルゴールを特殊な器具に入れて、その音を聴かせてくれたが、誠に心和む音色であった。しかし、目を閉じて聴いているとコックリ、コックリといねむりをしそうになりそれを堪えるのに苦労をした。

 そんな数多くの珍品を見学し、いよいよ今日の最終地点小杉ファーム、正式には、ファーマーズテーブルへと向かった。このファームは、Mさんが働いている農園で、ここの代表である小杉長男さんにMさんが小杉さんの生き方に心酔し、一緒に働くことになったとのことだとか。無農薬栽培で色々な野菜作りをしており、ログハウスが何棟もありそこで宿泊し、実際の農業体験が出来るそんな土と親しみながら農業を身近に感じて、共に汗をかき働く場としての環境に優しい農園とのことだ。

 先ずは荷物等を部屋に運び整理をすることとした。男性は一つの広い建物の床に畳を敷いて、そこに雑魚寝になって休むとのことなので、外に干してあった畳を部屋に入れ寝床作りをした。何だか高校生の時に部活動で、合宿に行ったような気分になり、みんないそいそと畳を運んでいる。一方、女性は二つの6畳ぐらいのログハウスに別れて休むとのことであった。そして、荷物の整理が終わったので、野菜の収穫に農園に行き、係員の指示に従い、今日の夕食のバーベキューで使う食材としてのナス、キュウリ、ピーマン、トマト等の野菜を畑でもぎ取る。私はトマトが実を付けているところを見るのは初めてなので、茎が1mぐらい伸びそこに4,5個と実を付けているのには、目から鱗が落ちる思いで眺めていた。何となればトマトは土の所に這うように茎が伸びてそこにトマトのみを付けているものとばかり思っていたのだ。これも実際に体験をしなければ分からなかったことと感心をする。

 そのもぎたてのトマトをがぶりと食べてみると何とみずみずしくとてもおいしく子供の頃に形の悪い不格好なトマトを食べたときのあの味が蘇ってきた。まさにこれが自然そのままの味なのだ。Tさんはもう、おいしいと見えて何個ももぎたての大きな赤く熟したトマトをニコニコしながら少年のように食べている。それからブラックチェリーという黒ぽい小さな実で食べると甘酸っぱくこれもまた、自然の味という感じであった。これもTさんが何粒も口にほおばっておいしそうに食べている。一方を見るとNさんがこれも少年のように童心に返り、何とプラすっちくで出来た容器が一杯になるほどトマトを入れてニコニコしている。きっとトマトを取るのが面白くいつの間にか容器に一杯になってしまったのだろう。 (^_^)

 そんな野菜の収穫を終えて、汗を流しに車で銭湯に行くことにした。じゃーん、その銭湯に着いてみると何と休みではないか。それでHさんの機転により、ここから25分ぐらいの所にある湖東温泉へ行くこととした。思いがけない温泉に入ることが出来温泉好きの私にとっては大満足の出来事だ。そんな湖東温泉で汗を流しさっぱりとして、ファームに戻る。辺りはようやく暮色に染まりいよいよバーベキュータイムとなる。野外のバーベキュー処で収穫をした野菜と共に豚肉、鶏肉、魚、そして近江牛等を炭火にてジュージューとばかりにバーベキューの始まりだ。丁度、ドーンと空には大きな輪になった花火が上がりこれから連続して花火が夜空に華麗なる絵を描き花火大会が始まった。


                ビール飲み
                  見上げる夜空
                      花火舞

 
もう、吹く風はさわやかで、お腹は満足、見事な花火も大喝采、ビールはうまく本当に気分は最高でこれがまさに至福のひと時であろう。Eちゃんも花火を見て携帯のデジカメでお母さんのKさんと共に撮っている。きっと良き夏休みの想い出になるだろう。やがて花火大会、バーベキュータイムもお開きとなり、今度は部屋に戻ってからカラオケタイムで皆さん、名調子で特異の歌を披露している。特に小杉さんのスチールギターが最高で、最も昔バンドの一員として活躍をしていたのだとか。本当に昔は芸能人、今は農業従事者と誠に変化に富んだ人生を優雅に送っているものだ。そんなカラオケを一通り歌い、時間も11時20分と遅くなったので一同マクラを並べて眠りに着くこととした。 (-.-)Zzz


 7月31日(月)

 〈行程〉

 水野&小杉ファーム(8:30発)―レンタカー→琵琶湖リブレヨット倶楽部(9:30〜14:15・ヨットクルージング)→たねや(15:07)→能登川駅(15:48)→米原(16:35着・17:22発・ひかり380)→新横浜(19:26)→東京(19:43) (^_^)

 ≪遊歩記≫

 最近は早く目が覚めるのが、週刊になり4時30分には、すっかりと覚醒をしてしまった。それで間が持たないので外に出て澄んだ空気を思い切り吸い、30分ぐらいかけてトレーニングをする。今日は右踵の調子が良く痛みもないため、朝のひんやりとした清々しい生気に満ちた気分の良い朝なので、足がムズムズして久しぶりに軽くランニングをすることとした。踵が痛くなってから朝のランニングを止めていたので、久しぶりのランニングに本当に気持ちが良く足も軽快に前に出て走ることが出来た。ファームの周辺の畑が続くのどかな道を30分ぐらい軽く走り、部屋に戻り着替を済ませるとまもなく朝食タイムとなり、バーベキュー処にてパンやおにぎりなどの朝食を取る。

 本当に楽しいことをしているときは、早いもので三日間の近江路の旅も今日で終わりだ。今日の予定は待望のヨットクルージングの体験である。身支度をして先ずはマイクロバスにて、琵琶湖リブレヨット倶楽部へと向かうこととした。琵琶湖リブレヨット倶楽部に着きAさんからヨットのLectureを受け、ヨットは2艇出していただけるとのことで、それぞれ1班3人で3班に別れ船出をし1時間ぐらい琵琶湖を回ってくるとのことだ。その間待機をしている班は、「道の駅」で買い物をしたりしてヨットが桟橋に着くのを待つことにした。

 私は第1班で最初に和美とKさんと共にヨットに乗ることにした。船長はAさんである。Aさんがヨットの構造について色々と説明をしてくれた。ヨットの長さは5mぐらいあり、幅は精々150cmぐらいであろうか。帆柱の長さは5mだそうである。四角くなった80kgぐらいの重りを船底から徐々に海底に沈めて行き、ヨットの安定を図るとのことだ。最初はエンジンで進みそこから帆を立てて湖水をゆっくりと進んで行く。途中からAさんが梶取をしていたのだが、皆さんに体験をさせるために一人、一人梶取のバーを握り梶取の方法を的確に教えていただいた。それから風に対する帆の角度なども教えていただき、私はもう、一丁前の俄ヨットマンになった気分だ。ヨットはゆっくりと進んで行くと正面に琵琶湖大橋が見え何と水平線が見えるではないか。改めて琵琶湖のそんな広さを思い知らされた。


      近江の海
        夏雲追いし
           帆掛け船

 それではAさんにヨットの原理について話をして貰おう。Aさん、お願いします。 (__)

「はい、分かりました。それでは説明をしましょう。」

「セーリング(帆走)にはさまざまな方法があり、帆のタイプによってもちがってくるが、どんな船でも根本原理は同じであります。もっとも単純でわかりやすいのは、海事用語でいうランニング、すなわち追い風帆走であります。これは文字どおり風が吹くのと同じ方向に船をすすませるものです。帆は船体の縦軸と直角にセットされます。これによって風のおすパワーは、帆の背面にかかることになります。

真横から風をうける場合は、帆は船体の軸と45度にセットされます。このセーリングの方法では、風は帆をおすというよりは、ひくような力をおよぼします。この場合、帆はちょうど飛行機の翼のような働きをします。帆の表側で空気の流れがはやくなり、帆の前方に気圧の低い部分ができます。風の力は帆に対して破線aの方向に作用する。船体が完全にフラットなら、この力は船を斜めにすすめようとします。しかし、どんなヨットでも固定式のキールや上げ下げ式のセンターボードがついており、これが縦方向のフラットな板となって、船の横滑りを防止します。したがって、実際に船がすすむコースは、風の力とキールの抵抗力が合わさった方向、破線cとなります。」

 何だか私の頭では、分かったような分からないようなヨットの原理であるが、難しいことはマア、いいか。ヨットは波間をユラリ、ユラリとゆっくりと帆を立てて進んで行く。湖面に吹く風もさわやかで心地よくいねむりがでそうな気分だ。

 それではここで引き続き琵琶湖について話をしてみよう。

        琵琶湖

 滋賀県面積670.33 km周囲長241 km最大水深103.58 m平均水深41.2 m貯水量27.5 km水面の標高85.614 m成因構造湖淡水・汽水淡水湖沼型中栄養湖透明度6.0 m
 置法指定湖沼。ラムサール条約登録湿地。

 滋賀県の面積の1/6を占め、流れ出る水は瀬田川、宇治川、淀川と名前を変え、大阪湾へ至る。また、湖水を京都市の水道水として使用するために琵琶湖疏水が京都市に流れている。最狭部に架かる琵琶湖大橋を挟んだ北側部分を北湖、南側部分を南湖と呼び、水質、水の流れなどが異なる。また、「急がば回れ」という諺は現在の草津市と大津市の間を結んでいた「矢橋の渡し」を詠んだ和歌が語源となっている。

 琵琶湖を取り巻く各自治体は、大きく湖南・湖東・湖北・湖西に分けられる(湖南から甲賀を分けることもある)。
湖を取り囲む山地からの流れが源流で、京阪神地方の水瓶の役割を果たす。古くから水上交通の要であり、鉄道が開通するまで東国や北陸への物資輸送に利用された。

 歴史

 琵琶湖ができたのは、おおよそ400万年前(600万年前とする説も有)で、現在の伊賀市平田に地殻変動によってできた湖であった(大山田湖)。これが次第に北へ移動し、比良山系によって止められる形で現在の琵琶湖の位置に至ったという。世界の湖の中でもバイカル湖、タンガニィカ湖に次いで3番目に古い古代湖であるとされている。
縄文時代、弥生時代から交通路としても利用され、丸木船なども出土している。古代には
琵琶湖西岸には天智天皇により一時は大津京が置かれる。万葉集には「淡海(あわみ)」
と記され、後に現在の滋賀県が「近江国(おうみのくに)」と呼ばれる語源にもなってい
る。古事記では「淡海の湖」(あふみのうみ)と記載。
琵琶湖は北陸地方などからの年貢の輸送路としても利用されており、湖上で賊に襲撃され
た記録なども残されている。湖西には大津から若狭国へ向かう西近江路や若狭街道、敦賀
へ向かう敦賀街道や北国街道などの各種交通路が整備された。湖上交通による荷物の輸送
も行われており、大津や堅田などは港湾都市として発達する。

 豊臣秀吉は大津の船持に大津百艘船を整備し、観音寺の船奉行の支配下に置かれ、特権を与えられて保護された。近世になると大津は松原や米原など他の港と対立し、江戸時代には松原、米原、長浜が彦根三湊として井伊氏の保護を受ける。

1890年(明治23年)京都市へ水を供給する琵琶湖疎水開通。

1950年(昭和25年)7月24日 琵琶湖国定公園が指定される。

1964年(昭和39年)9月 琵琶湖大橋が開通。

1980年(昭和55年) 琵琶湖条例(滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例)が制定
          される。

1985年(昭和60年)12月に湖沼法における指定湖沼に指定される。

1993年(平成5年)ラムサール条約登録湿地に認定される。

2003年(平成15年) 琵琶湖のレジャー利用適正化条例が施行される。

生物相

 琵琶湖の生態系は多様で、1000種類を超える動・植物が生息している。その中には琵琶湖にのみ生息する固有種も数多く確認されている。外来種駆除の先進湖。

魚貝類固有種(魚):  ビワコオオナマズ(ナマズ科)、イワトコナマズ(ナマズ科)、            ワヒガイ(コイ科)、アブラヒガイ(コイ科)

  固有亜種(魚):  ビワマス(サケ科)

      (貝):     ビワコミズシタダミ、セタシジミ

   外来種(魚):   ブラックバス、ブルーギル、ライギョ、レンギョ

    水草固有種:   サンネンモ(ヒルムシロ科)、ネジレモ(トチカガミ科)

その他固有種(プランクトン):  ビワクンショウモ、ビワツボカムリ

流入する主な河川

(自治体名は主な流域)

野洲川(やすがわ、甲賀市、湖南市、野洲市、守山市)

日野川(ひのがわ、蒲生郡、近江八幡市)

愛知川(えちがわ、愛知郡、東近江市)

安曇川(あどがわ、高島市)

宇曽川(うそがわ、愛知郡、彦根市)

犬上川(いぬかみがわ、犬上郡、彦根市)

芹川(せりがわ、犬上郡、彦根市)

姉川(あねがわ、東浅井郡、長浜市)

余呉川(よごがわ、伊香郡、東浅井郡)

湖面の島

竹生島(面積0.14km)、沖島(面積1.5km)、多景島がある。

琵琶湖八景

1945年6月に公募によって選ばれた。

暁霧 海津大崎の岩礁(高島市)

涼風 雄松崎の白汀(大津市)

煙雨 比叡の樹林(大津市)

夕陽 瀬田・石山の清流(大津市)

新雪 賤ヶ岳の大観(木之本町)

深緑 竹生島の沈影(長浜市)

月明 彦根の古城(彦根市)

春色 安土・八幡の水郷(近江八幡市・安土町)

琵琶湖の環境保全

 高度成長にともなって湖水の水質汚濁や富栄養化がすすんだ。このため滋賀県は独自に工業排水と家庭用排水を規制する琵琶湖条例を制定した。また、周辺の工場は地下水をくみ上げ、さらに汚染水地下水浸透禁止の水質汚濁防止法が改正されるまでは、汚染水を意識的に地下に浸透していた工場も多く、琵琶湖周辺の工場地帯の地下水汚染は進んでおり、世界一の閉鎖性水域の琵琶湖の水環境を守るために、早急の対策が必要と言われている。

 ヨットは桟橋を出てから40分ぐらい経ったので、桟橋へと戻ることにした。途中エンジンで走ろうとしたら、何とエンジンの調子が悪くエンジンがいくらやっても動かず結局、もう一艇のヨットに搬送されて桟橋に戻ってきた。そして第2班がヨットに乗り出船をしていった。私達は「道の駅」へ行き色々と買い物をしたりして時間をつぶしていた。それから順次、第3班の方達も全て乗船を済ませたので、一同、揃って生ビールを飲みながら昼食を採ることとした。

 そして、食事を済ませまた、マイクロバスに乗り、途中の駅で色々とお世話をしてくれたMさんとお別れをして、最後の買い物とばかりに「たねや」という和菓子の見せに行き女性軍が買い物を済ませた後、能登川駅へと向かった。能登川の駅では、何とホームまで二日間、マイクロバスの運転をしてくれたKさんとHさんが、最後までご丁寧におつき合いをして頂きお見送りをしてくれた。「本当に有り難う御座いました。さようなら・・」・・・!!!    (^^)/~~

 そして米原駅にて新幹線に乗り早速缶ビールをブジュッと開けチクワのおつまみにてゴクゴクと飲む。これで後は東京へ着くだけだ。この三日間のまだ記憶に真新しい伊吹山、安土城址、観峯館、ファーマーズテーブル、そして今日のヨットクルージング等の想い出が脳裏を巡り蘇ってくる。これで今年の夏休みのイベントも終わりだ。・・・!!! さて、来年の夏休みはどこへ行こうかな。  (^_^)





伊吹山3合目付近に咲く「ゆうすげの花」